「こんな朝早くから目が覚めたのか」
次の日。
ぼんやりと厨房前に座っていたマリンを見てスオウが口にしたのはそのような言葉でした。マリンはじかれたように顔を上げます。しかし男の姿をみとめて、すぐにさっと顔を俯かせました。
「寝つけなかったのか」
マリンはその言葉に目線を逸らしたまま首を振りました。そうして胸の中に浮かび上がってきた感情を押さえつけるためにぎゅうと唇を噛みしめます。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
スオウが不審そうに眉をひそめる気配がします。マリンはそれを視界の端に入れるのも怖くて裏口に向けてぱっと走り出しました。
すでに夜は明けかけておりました。海に面した浜辺に立つと強く海風が吹き抜けます。それとともに夜の名残もはらわれていくようでした。東の空にまだお日様は昇っておりませんが、すでにその手は伸びており、闇をうつくしい白の色で透明に塗りつぶしております。
マリンはエプロンのポケットに入れっぱなしにしていた銀色の短剣を取り出しました。短剣はうつくしいまま、一片たりとも血の色で汚れたりはしておりませんでした。
マリンはそれをじいっと見つめます。短剣にはマリンの白い顔が映っておりました。愛らしい、美しい、海の宝石とも言われたことのある顔です。しかしそれは今、すぐにでも倒れてしまいそうなほど青ざめておりました。まるで真冬の深海にでもいるように。
そんなマリンの顔にふいにあたたかな光がふりそそぎました。お日様が顔を出したのです。白くあたたかなひかりは海の上をかろやかに滑り、そうして砂浜に立つ人魚の姫をやさしく包み込みました。
マリンは目の端に涙をためたまま、にっこりと笑いました。それは幾分むりやりなものでしたが、それでもどこか強いものを秘めておりました。
そうしてマリンは銀色の短剣を海に向かって思いきり放り投げました。
あと6日。
5日。
4日。
3日。
王子を殺すことを諦めたマリンは、自らの死への日にちをゆびおりかぞえながらもいつもの毎日をすごしておりました。
じゃがいもを剥いたり、くだらないことではしゃいでスオウに叱られたり、ながいながいメイド長の話を聞いたり、リカルド王子やソフィアにまとわりついて花をさしだしたり。
平凡だけれど、それは素敵な素敵な毎日でした。
あと2日。
……1日。
マリンはいつものようにじゃがいもの皮を剥きながら、鍋に向かっているスオウの背中を眺めました。明日の朝日が昇る前にマリンは消えてしまうのです。だからこうしてじゃがいもの皮をむきながらスオウの背中を見ることも最後なのでした。
じゃがいもの皮はずいぶんうまくむけるようになりました。怪我もしなくなりましたし、剥いたあとの皮はとてもうすくて、うしろが透けて見えるほどにもなりました。そうして透かした皮の向こうにいるスオウもいつもと変わりません。黒い髪に広い背中。そういえばあの背中に掴まったこともあったのだったとマリンはくすりとしました。肩に担ぎあげられたことも一度や二度ではありません。かつぎあげられて横目に見るスオウの顔が無愛想でちっともハンサムではないことを思いだして、マリンはさらに微笑みました。
やがて今日の分のじゃがいもをすべて剥き終わりました。マリンは立ち上がります。手を洗い、そうしてぐるりと2か月のほとんどの時間をすごした厨房を眺めやりました。すっかり愛着の湧いてしまったこの厨房には他人にはつまらないかもしれないけれど自分にとっては素敵な思い出がたくさんあります。マリンは両手でスカートの裾をもちあげました。そうしてソフィアがするようにしとやかな淑女のお辞儀をひとつ送りました。
そうして最後に、相変わらず後ろを向いたままのスオウの背中をみつめました。何か考え事をしているのでしょう。スオウはこちらに視線を寄越さず、そうして先ほどの体勢から身じろぎひとつしておりませんでした。
マリンはその背中をしばらくみつめて、そうしてやはり同じように丁寧に膝をおりました。そうして頭を下げます。
マリンにかける「声」はありません。けれども感謝の気持ちだけは送りたかったのでした。それになにより、もうひとつ。
――ごめんなさい。スオウをしあわせにしてあげられなくて。
マリンにはリカルド王子をころしてしまえるチャンスがあったのです。あのとき、銀の短剣さえ振り下ろしてしまえばリカルド王子は消え、ソフィアの婚姻はなくなるはずでした。ソフィアの婚姻がなくなれば、スオウはソフィアとずっと一緒に居られるはずでした。
それなのにマリンにはそれができませんでした。目の前の命を自分の都合で消してしまうだなんてそんな恐ろしいこと、マリンにはどうしてもできなかったのです。
――ごめんなさい。
マリンはそろりと身体を起こしました。そろそろと、スオウに気付かれないように。
しかし顔を上げたマリンはどきりとして目を瞠りました。いつのまにかスオウが身体ごとこちらを振り返って、マリンをじっとみつめていたのです。
その黒い瞳はであったころと同じように深い色を帯びておりました。夜の闇を混ぜて溶かし込んだような、そんな深い深い色でした。
けれどもスオウはいかにも不機嫌そうでした。いや、怒ってさえいるようでした。この二か月間マリンはこの男とほとんど一緒に居たのですが、こんなに怒っているスオウを見たのははじめてでした。
「なにが、ごめんだ」
そうして絞り出された声も存分に怒りをはらんでおりました。
「何故殺さない」
マリンはぽかんとスオウをみあげました。スオウは眉を顰めたままずかずかと近づいてきました。そうしてマリンの手首をつかむと、そのまま裏口へと向かいました。その激しさと力強さにマリンの足がもつれます。
「短剣はどこにやった」
足がもつれたマリンを救い上げるように抱え上げて歩きながら、スオウは底光りのする黒い瞳を腕の中の娘に向けました。その激しい怒りの色にマリンは怯えました。だからどうしてスオウが短剣のことを知っているのか、そんなことを聞くのか、そのような考えにまで頭が及びませんでした。
――た、短剣は、短剣は……捨てたわ。あの浜辺から海へ。あたしにはもう必要のないものだもの。
だからとっさにスオウに問いかけだけに素直にそう思いました。
するとスオウはマリンの瞳をその黒い瞳でひたと見据えたままこう言いました。
「いいや、おまえにはまだ必要なものだ。おまえは愛しい男とやらをお前の手で殺さなければならない」
それはマリンの言葉への答えでした。偶然ではなく、はっきりと「マリンの心の声」に応じたものでした。
マリンはただ呆然としました。
そのままスオウに抱えられて短剣の浜辺に着き、浅い海からスオウがひとつの短剣を探し出したときもただただ呆然としておりました。
砂浜にへたり込んだままのマリンの目の前に差し出されたのは、間違いなくあの銀の短剣でした。スオウは黒髪からぽたぽたと水滴を滴らせながら銀の短剣の柄をマリンに握らせようとします。
「ほら、受け取れ」
マリンの頭はもういっぱいで何も考えられませんでしたが、かろうじて首を横に振ることはできました。もうマリンにはリカルド王子を殺すだなんてことできません。それがスオウのためであっても、大好きなこの人のためであっても、それだけはできません。
「おまえは何を言っている」
そのマリンの声にもスオウは応じました。その両手に力が入るのを感じます。マリンの両手に短剣の柄をにぎらせ、そうしてその上から自分のてのひらをのせました。マリンの両手ごとスオウのてのひらに包まれます。もう手を離すこともできず、力強いそれは銀色の短剣の切っ先を男の思うがままにされてしまいます。
――いや、殺したくない。リカルド王子が死ぬところなんてみたくない。やめて。
「違う」
スオウは怒りを含んだ声で言いました。その内容にはっとしたマリンがスオウに目を向けます。その両の瞳が驚愕に見開かれました。
冷たい銀の刃は、スオウ自身の力によってかれの左胸のうえにひたりと添えられておりました。
「おまえが殺すのは俺だろう」