サイレント・マーメイド

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10章:人魚姫と真実



 マリンは呆然とスオウのその黒いきれいな瞳をみつめました。闇色のそれはマリンの心の奥底をも見通すかのような深い色をしておりました。
 魔女との契約が脳裏に蘇ります。

――声に言葉、文字。それらとひきかえだ。しかしそれでも存在を維持するには足りん。だから二月後、おまえは惚れた男と結ばれなかった場合、おまえは海の泡となって消えてしまうだろう。それでもいいかい?


――西の魔女にわたくしたちの髪と交換してもらったの。リカルド王子は婚約したと聞いたわ。あなたはもう愛しい男の心を手に入れられないのでしょう。けれど、かわりにこれを愛しい男の胸に突き立てなさい。そうして命ごと奪ってしまえば、あなたは死なずにすんで、人魚の姿に戻れるわ

 ぼろぼろと涙が零れます。
 マリンはようやく、単純な勘違いに気づきかけたのです。
 けれどもあわてて考えを断ち切るとくしゃくしゃな顔でスオウを見上げ、何度も何度も首を横に振りました。


「考えることをやめるな。魔女はどう言った? 契約の対象はなんだ。あいつは「惚れた男」と言ったんだろう。「リカルド王子」じゃない」

 そこでスオウはいったん言葉を区切りました。
 そうして空を見上げます。そうして目線を鋭くしてその名を呼びました。

「……そうなんだろう? 魔王殺しの魔女、ミランダ」

 追ったスオウの目線の先には、銀の月を背に受けたひとりの少女が大きな杖にまたがって浮かんでおりました。
 月の光に淡く光るふわふわとしたチェリーブロンドがその小柄な身体を幻想的な色で包んでおりました。黒いローブに黒いマント、その肩口にとまっている漆黒の鴉がスオウの言葉にぎゃらぎゃらと声を上げました。

「魔王殺しだってよ。ださいけど実に的確な通り名じゃねえか、なあ、くそばばあ」
「…………」

 西の魔女はいつものようなぼんやりとした表情のまま、肩口の鴉をむんずとつかむと海に向かって無造作にほうり投げました。ぎゃあやめろ、鳥目で夜は視界がないんだから、という鴉の声とともに水音が激しく響きます。
 それに構わずスオウは続けました。西の魔女も黒髪の男を見下ろしました。

「あんたが魔王になりそうなやつを片端から殺して回っていることは噂で知っている。俺のこともはじめから目を付けていたんだろう。それでこいつを、この馬鹿娘を利用したのか」

 魔女は答えませんでした。
 いつもの眠たげな半目のまま、けれども唇だけはふっと笑みの形を刻みました。

「すべてあんたの筋書き通りというわけなのか」

 スオウの声に怒りが混じっていることにマリンはようやく気づきました。
 西の魔女にやっていた視線を目の前の男に戻します。削げ落とされた様な硬い頬の線が、いつも以上にきつくこわばっているのを感じました
 いつも感情をあらわさない静かな青年の、それは心からの怒りでした。

「俺の力はどこに居ても異端で、使いようによっては恐ろしいことになることもわかっている。俺のことを殺したいならそうすればよかったろう。だがどうしてこの馬鹿娘を利用した。どうして、どうしてこんな阿呆なくらい単純な小娘を……!」

「うぬぼれるんじゃないよ、サトリの子」

 そのとき魔女がようやく答えました。
 空に浮かんだまま。幼く愛らしい声に似あわない、それはそれはぴしゃりとした尊大な口調でした。

「あたしはそんなに暇じゃあない。その小娘があたしに契約をもちかけてきたのも偶然、あんたに出会ったのも偶然、そしてあんたに惚れちまったのも偶然さ」

「…………」

 睨みあげてくる黒髪の青年に向かって魔女は少しばかり笑みを含んだ声音で続けます。

「あんたは心を読める悪魔の子だろう? いや、あんたの東の故郷ではあやかしというのだったか。サトリの子、あたしの心を読んでみるがいいさ。さっき言ったことは嘘ではないから」

 しばし沈黙が流れました。
 スオウの闇の瞳が魔女のピーチアプリコット色の瞳をのぞきこみます。
 その間、魔女もスオウもぴくりとも動きませんでした。海風だけが西へと流れ、闇に溶け込む雲をそろそろと運んでおりました。
 そうしてやがて口を開いたのはスオウの方でした。


「……どうやら本当らしいな」
「そうだね」
「……悪かった」

 スオウはあっさりと謝罪の言葉を口にすると、大きなため息を吐きました。そうしてマリンのほうに顔を向けます。
 その闇色の瞳は、さきほどとうってかわってひどく静かなものに見えました。

「……だとするとただ単にお前の男の趣味が悪かったということか」

 その声にはすでに怒りというものはありませんでした。どこかため息交じりの、呆れたような物言いでした。
 マリンのぽかんとしたままの顔を見つめ、そうしていつものような苦笑を浮かべます。

「まったく、あれほどハンサムじゃない、恰好よくないと言っておいてどうして俺になるんだか……」

 それはびっくりするぐらい優しい声音でした。
 あまりのこと止まったままだったマリンの思考をどんと揺さぶるぐらい、それはとてもとてもやさしいものでした。

 けれども次の瞬間、銀の短剣を握っているマリンの手の上にあるスオウの両手にぐうっと力が入りました。
 スオウの左の胸の上にそえてある短剣が動くのを感じたのです。マリンは喉の奥で悲鳴をあげました。

「まあいい。……これからはもっと男を見る目を養えよ、マリン」

 スオウの声がマリンの名を紡いだ瞬間、銀の短剣がスオウの心臓にむかって進んでいくのがわかりました。あわてて両手に力を入れて抗うと、短剣の切っ先がわずかにそれてスオウの胸の傷を増やします。けれどそれだけで、短剣を奪いかえすことも動きを止めることもできません。いたずらにスオウの服が赤く染まっていくだけでした。

――や、やめて、やめて、いやだってば……!

 このままマリンがどんなにあらがっていても、スオウの力には勝てないでしょう。マリンの力がほんの少しでもゆるんでしまったら、短剣の切っ先はスオウのする通りに、スオウの心臓を貫くのでしょう。
 マリンは嫌だと泣きわめきました。声は出ませんが、スオウならマリンの心の声も読み取れているはずです。
 それなのにスオウは止めてくれませんでした。

――いや、やめて、だれか……だれか…だれか……!

 マリンはとっさに目線を動かして、この場で唯一助けてくれそうな存在をみつめました。
 チェリーブロンドの髪の少女。

――西の魔女、スオウを助けて! あたしのものならなんでもあげるから!

「契約は髪の毛」

 間髪入れずに幼い声がそれに答えます。
 そうして次の瞬間、スオウの身体が何かにはじかれたように海に向かって吹き飛びました。
 スオウが海に落ちる派手な水音とともに銀の短剣がマリンの足元に転がります。

 マリンは慌ててそれを掴むと、自らのうつくしい長い髪を首の根元のあたりでばっさりと切り落としました。そうして、切り落とした髪がふしぎな光にほどけていくのを見ることもなく、短剣を握ったまま崖に向かって駆け出しました。

 スオウが深い海の中から出てきたときには、すでにマリンは崖の上にたどり着いておりました。たどりつき、前方に広がる大海原に向かって銀の短剣を投げ捨てようとしておりました。

「馬鹿、やめろ! 」

 闇色の瞳を見開いてスオウが叫んだ瞬間、銀の短剣は再び昏い海の中へと吸い込まれていきました。






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