その晩、マリンはずっと銀の短剣をベッドの上に置いたまま泣き続けました。
おねえさまたちを悲しませた自分が嫌で嫌でたまりませんでした。お父様もお母様だってきっと悲しんでいるに違いありません。ごめんなさいと思うと涙がとまりませんでした。
魔女の鴉に「馬鹿な人魚姫」と言われて腹を立てていたことも、今では恥ずかしく思えました。恥ずかしくて恥ずかしくて、さらに涙が出ました。このときはじめてマリンは、自己嫌悪という涙を流したのでした。
泣いて泣いて、しゃっくりあげていた喉が痛くなった頃、マリンは白いシーツの上に置かれた短剣にそっと目をやりました。
銀色の短剣は月の光に照らされて冷たく光っております。むき出しの刃は鋭く、人間の身体など容易に貫いてしまうほどでした。
――これを愛しい男の胸に突き立てなさい。
姉の言葉が脳裏に響きます。マリンはぶるりと震えました。
これをリカルド王子の胸に突き立てればマリンは助かる、そうおねえさまたちは言いました。
マリンはそろそろと手を伸ばすと短剣を手にしました。短剣はずしりと重く、マリンの手の中でその存在を主張します。これを心臓に刺したら それはそれは痛いだろうなあと思いました。
マリンの指にもじゃがいもの皮を剥くときにできた切り傷がたくさんあります。そのたびに痛い思いをしたのも覚えております。赤い血が出て、ちりりとしたあとはずくずくと痛むのです。心臓を刺すということはあれよりもっと、もっと痛いに違いありません。
できない、とマリンは思いました。リカルド王子だからではなく、ソフィアにだってメイド長にだって刺すことはできないでしょう。自分の手で、「誰か」に「痛み」を与えるなどどうしてできるでしょう。
マリンはしゃっくりあげました。
だとしたら道は決まっております。マリンは海の泡になって消えてしまうほかないのです。
ぽろぽろとこぼれた涙が、一番新しい指の傷に染みました。もう幾分治ったはずだったのに、と思いかえし、そうして今日はむらった薬を塗りこむことを忘れていたことに気づきました。
「おまえは不器用すぎる」
はじめてじゃがいもの皮むきをしたとき、マリンは人差し指の腹を切りました。どうしてこんなことしなければならないのという思いと、そのあまりの痛さにべそをかいていると、スオウがため息をつきながらそう言ったのでした。
けれどもマリンの手を取り、そうしてきちんと手当てをしてくれたのでした。かさついた大きな手はとても器用にマリンの手を治してくれました。
すごい、痛くなくなったわ。そう思いながら指を見せると、スオウはかすかに黒い瞳を細めて苦笑を浮かべました。
そこまで思い出してマリンの胸はぎゅうと痛くなりました。唇が震えて、ついで短剣を手にした指も震えます。スオウのことを想い出すともう駄目でした。もうそろそろ尽きかけたと思われた涙はとどまるところをしらないように溢れてきます。
思い返すとスオウは面倒見の良い人間でした。
口のきけない、しかも好き勝手にふるまうマリンはさぞかし手のかかる娘だったでしょう。だというのにひとの生活を一からきちんと教えてくれたのはスオウでしたし、館での居場所をつくってくれたのもスオウでした。
マリンのことを人一倍叱っていたのもスオウでしたが、それもマリンの為であったことが今ではわかります。スオウの一番好きな人はソフィアであるのに、それなのにマリンの面倒まで見てくれていたのです。
(……スオウはほんとうに貧乏くじなのだわ)
マリンは昼間のことを思いだしました。スオウのやさしげでさびしげな笑みを思い出しました。
けっして格好良くも綺麗でもないけれど、やさしい、やさしい人間。
けれど、そんなスオウの一番好きなソフィアは、リカルド王子と結婚してしまうのです。
(……スオウが、かわいそうだわ)
そこでマリンの胸は、急に早鐘を打ちはじめました。
手にした短剣が急に熱を持ったように思えます。
きれいな銀の刃にはマリンの顔がうつっておりました。泣きはらしてみっともない、おろかな人魚姫の顔でした。あと少しで海の泡になって消えてしまう、何の考えもなかったおろかな人魚姫。
だけど、とマリンは思いました。
もしかしたら何かできるのではないでしょうか。
たとえば、一番大好きな人を笑顔にすることだとか。
(……そうよ。このまま、泡になって消えてしまうより……)
それはマリンの勝手な想いでした。
そうして、最後の生きる者としてのあがきでもありました。
マリンは銀の短剣を胸に抱えて、リカルド王子の寝室の前におりました。闇に沈んだ館はただただ静かで、ここまで誰にも会うことはありませんでした。
扉もあっさりと開きました。開けた瞬間、窓にかかっているレースのカーテンがふわりと浮きあがるのが見えました。夜風が流れ込みマリンの長い髪をそよがせました。
果たして部屋の中央に置かれた豪奢なベッドに、リカルド王子は眠っておりました。伏せられた瞳はぴくりとも動かず、まるでそれは美しい精巧な人形のようにも見えました。
けれどもその胸はきちんと上下して動いておりました。生きている、人間なのです。
マリンは震える手で短剣をかかげました。