サイレント・マーメイド

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7話:婚約と銀色の短剣


 それからもいうもの、マリンの視界にはいつもスオウが入ってくるようになりました。それまではリカルド王子ばかりが目に入ってきていたのに、どうしたことでしょう。

 リカルド王子は相変わらず素敵です。輝かんばかりの金色の髪は太陽のようですし、くっきりとした男らしい顔立ちはとても凛々しく美しいものです。
 それなのにマリンの目はどうみてもハンサムとは思えない、さえない男の姿ばかりを追っているのですからおかしなものでした。

 そうしているとわかってくることがありました。
 いつも仏頂面で平坦な顔をしているスオウが、ソフィアにだけはわずかにですがやさしい顔をするということでした。
ソフィアは領主の娘でありながら気さくで誰にでも優しい性質の娘でしたので、領民にもとても慕われておりました。
 けれどもそのために疲れることもたくさんあるようでした。そのソフィアを誰よりも気づかい、陰ひなたで支えているのはスオウだったのです。
 ソフィアの侍従でありながら料理をしているのもそのためのようでした。身体のあまり強い方ではないソフィアの身体を気づかい、さまざまな身体に良い料理を作っているのだとおしゃべり好きのメイド長が言っていたのです。

(そうかあ、スオウはソフィアのことが好きなんだわ)

 マリンはスオウの後ろ姿を見ながら思いました。
 スオウがちらりとマリンを見てきます。眉根が寄せられているので、どうやら機嫌が悪いようでした。マリンのじゃがいもを剥く手が止まっていたからかもしれません。
 ふたたび背を向けたスオウの大きな背中をちらちらとみつめていると、何故だか辛くなってきてしまってマリンは俯きました。胸がしめつけられるような、とても妙な気分でした。


 そんな数日が過ぎたある日のことでした。
大広間に館で働いているものたち全員が集められたのです。
そうして表れたのはソフィアと、そうしてリカルド王子でした。そうしてふたりで幸せそうに笑いながらこう言いました。

「皆に報告があります。私はリカルド王子と婚姻を結ぶことになりました」

 マリンはしばらくの間ぽかんとしましたが、すぐに首をめぐらせてスオウの姿を探しました。スオウは部屋の隅で、いつものような無表情のまま立っております。しかしほんの一瞬だけですが、リカルド王子となにかを話しているソフィアの方を見てやさしく笑いました。
 それを見るとマリンの胸は今までで一番苦しくなりました。



 その日の夕方のことです。
 庭で夕食に使うというルッコラを採っていたマリンは元気がありませんでした。リカルド王子が結婚する、ということよりもスオウのことが気になってたまらなかったのです。しかし結局何もできずに、仕事に戻ると言ったスオウの後にくっついて厨房に戻ったのでした。

(平気なわけ、ないわよね)

 悲しい気分のまま思っていると、ふいに頭上から、があがあとした笑い声が降ってきました。

「おろかな人魚姫。馬鹿な考えなしの人魚姫。お前は何をやっている? 」

 慌てて振り返ると、庭の大きな樹の枝に、首輪をつけた真っ黒な鴉がとまっておりました。禍々しいまでの漆黒の羽は夜の帳をおろしはじめた空を背負っていてもくっきりと浮かんで見えました。
 だからすぐにわかりました。いつかの、魔女の使い魔の鴉です。

 鴉は金色の瞳を細めながら歌うように続けました。

「あと7日。たった7日。それまでに愛しい男の心を奪わってしまわないと、お前は海の泡になって消えてしまうのに! 」

 マリンはさあっと青ざめました。
 それを見て鴉はさらにがあがあと笑いました。そうして黒い翼をはためかせると、あっさりと闇に溶け込むように消え去りました。

 マリンはしばらく呆然としておりました。手元からルッコラがぽとりと落ちます。

(そうだった。リカルド王子の心を奪わないと……あたしは死んでしまうのだったわ)

 そう考えが脳裏に染み渡ると、急にすうっと手足が冷たくなりました。心臓が嫌な感じにどきどきとしてくるのがわかります。

(――馬ァ鹿。絶対後悔するぞ、小娘)

 過去にそう言ったのはやはりあの鴉でした。
 そして今、マリンは間違いなく「後悔」している自分を認識しておりました。

 泡になって消えるとはどういうものなのでしょう。
 痛いのでしょうか。苦しいのでしょうか。
 そして自分の意識はどうなってしまうのでしょうか。
 どこかに行くのでしょうか。それともきれいさっぱりなくなってしまうのでしょうか。

 愚かなことに、幼い人魚姫ははそこではじめて自分のかわした契約の恐ろしさを思い知ったのでした。


 マリンは心臓をおさえてその場に座り込みました。自然と身体ががたがたと震えます。
 怖い、と純粋に思いました。死んじゃうのは嫌だ、とも思いました。



――マリン


 そうしているとう海のほうから懐かしい声が聞えてきました。マリンははじかれたように瞬きをし、涙をふくとふらふらと立ち上がりました。
 そうして向かった海には、懐かしい9人の姉たちの姿がありました。あいかわらず美しい姉たちですが、けれどもひとつ違うところがありました。
 9人の姉たちはそれぞれ、水のように豊かに流れるうつくしい長い髪を持っておりました。そのすべてがばっさりと切り落とされていたのです。

(おねえさま……)

 驚くマリンに、一番上の姉が手を差し出しました。

「お馬鹿なマリン。けれどもあなたはわたくしたちの可愛い妹です。これを受け取りなさい」

 そうして渡されたのは、一振りの銀色に輝く短剣でした。

「西の魔女にわたくしたちの髪と交換してもらったの。リカルド王子は婚約したと聞いたわ。あなたはもう愛しい男の心を手に入れられないのでしょう。けれど、かわりにこれを愛しい男の胸に突き立てなさい。そうして命ごと奪ってしまえば、あなたは死なずにすんで、人魚の姿に戻れるわ」


 マリンは大きく目を瞠ってその短剣をみつめました。その拍子に涙がぽろりと零れ落ちます。
 短剣は月の光に照らされ、ねっとりとしたにぶい銀色の光をはなっておりました。


 そう。
 怖くて恐ろしい「死」から逃れる方法は今、マリンの手の中に飛び込んできたのです。





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