目の前にどっさりと置かれたじゃがいもの山を目にして、マリンはうんざりとため息をつきました。
ここに来てもう一月になります。
もう一か月です。
それなのにマリンはずっと、毎日毎日、じゃがいもの皮をむき続けておりました。
とはいえマリンは一応お姫様でしたから、「仕事」なんてしたことがありませんでした。だからこの茶色くてころころとした野菜の皮を剥くなんてこともできませんでした。
最初の日、「じゃがいもの皮を剥いてみろ」とスオウに言われてマリンが差し出したのは、四方をすぱんと切り落として白く真四角物体になったじゃがいもでした。
なかなかうまくできたわ、とふんぞり返っているマリンの前でスオウはこめかみに手を当ててため息をつきました。
(まったく、小うるさいし辛気臭いしハンサムじゃないし、本当にいけすかない奴なのよね)
マ リンはこちらに背を向けて何かを煮立てているスオウの背中を睨みました。
スオウはどうやらこの館で調理人としての仕事を任されているようでした。ソフィアに呼ばれて伴をするとき以外は基本的にこの厨房に居るようでした。
(……だいたいあたしの邪魔ばっかりするし )
ここに来て一月。
当初の目的であるリカルド王子へ会うことは、実のところもう叶っておりました。
それは厨房に来たはじめの日のことでした。何故だかじゃがいもの皮の向き方をスオウが教えてきたのでしぶしぶそれを習っていたところ、台所の窓からリカルド王子と、そうして連れだって歩くソフィアの姿が見えたのです。
マリンはぽいと包丁を投げ出すとリカルド王子の元へ駆け出しました。後ろのほうで「包丁を投げるな!」とかいう声が聞えたような気がしましたが聞こえていないことにしました。
リカルド王子は当然駆け寄ってきた娘に驚いたようでした。しかし隣に居たソフィアがこの間の娘だと説明すると、その美しい相貌を輝かせてにっこりしました。
「ああ、ソフィア殿から話は聞いているよ。もう元気になったようで、よかったね」
その笑顔と言葉に一瞬でぼうっとなってしまったマリンでしたが、すぐに本来の目的を思い出して身振り手振りでなんとかリカルド王子に、「貴女を助けたのは自分であること」を説明しようとしました。
しかしなんということでしょう。
ちっとも伝わらないのです。
「……僕に何を伝えたいんだろう。きみ、文字はかけるかい? 」
マリンは首を横に振りました。言葉も文字も、魔女に奪われているのです。
マリンは泣きたくなりました。これでどうやって王子に伝わるというのでしょう。魔女はなんといういじわるなのでしょう。
「困ったな……」
困り果てたようにいうリカルド王子の声を聞いて、マリンはその腕に縋りつきました。
海に。
海に連れて行けばなんとか思い出してくれるのではないでしょうか。 ぐいぐいと腕を引っ張ると、リカルド王子はさらに困惑したようでした。隣にいるソフィアも同じような表情です。
「お嬢様、リカルドさま、申し訳ありません」
そのとき低い声がしてマリンの身体が浮き上がりました。そうして次の瞬間、あっと思う間もなくスオウの肩に担ぎあげられていました。
「この娘のことは私に任せて、どうぞ行かれてください」
「でもスオウ……」
ソフィアの心配そうな声に、スオウが淡々としていながら、それでいてかすかにやわらかい声を出しました。
「大丈夫です。それより朝の散歩に行かれるのでしょう。どうぞお気をつけて。リカルド様、ソフィア様のことどうぞよろしくお願いいたします」
「ああ、任せてくれ」
リカルド王子は笑って、そっとソフィアの背を促しました。
それを横目に見たマリンはあわてて足をバタバタと動かして脱出をこころみましたが、スオウの手にがっちりと抑えられてしまいました。
(ちょっと、離してよ! )
スオウの背中や頭をばしばし叩くと、しばらくしてスオウはマリンを肩からおろしました。しかしすぐさま王子の後を追おうとするマリンの服の襟首を後ろから掴んだので、マリンは王子の後を追うことができませんでした。
(もう、離してよ! 王子がいっちゃうじゃない! )
じたばたともがいていると、スオウの盛大なため息が上の方から聞こえました。
振り返ると、マリンのせいで髪がぼさぼさに乱れているスオウの姿が目に飛び込んできました。服もよれよれになっています。
仏頂面に見えましたが、しかし不思議に怒ってはいないようでした。
その証拠に、彼はただただ呆れたようにこう言いました。
「お前はよくあの空気の中を突っ込んでいけるな……」
それからというもの、リカルド王子の姿をみかけては駆け寄っていくマリンを厨房に引きずっていくのは必ずスオウでした。
大体はリカルド王子のところへは行けずに、途中で見つかっては引きずられていくのですが、それでも一日に一回ぐらいはリカルド王子とお話しできることがありました。といってもマリンは喋ることができないので、二言三言声をかけてもらうぐらいのことでしたが。
それでも日に日に距離が近づいているのをマリンは感じていました。
最初は困ったような笑顔でいることが多かったのに、最近は明るく声をかけてくれるのです。
マリンにとって、それはなによりの喜びとなっておりました。