マリンが連れて行かれたのは、ソフィアという名の少女の館でした。
なんでもこの領地の3番目の娘で、夏の間はこの地で過ごすとのことでした。
助けられたマリンは次の日にはなんとか不自由なく歩けるようになりました。
歩いてみると、「歩く」という行為は素敵なものでした。海の水をかく感触も素敵でしたが、空気をかきわけて動くというのもとても楽しかったのです。にこにことするマリンを見てソフィアはにっこりと笑いました。
「あなたさえよければずっとここに居てよいから、ゆっくりなさってくださいね」
その言葉にマリンはこくこくと頷きました。
なぜならこの館には今、同じくソフィアに助けられたリカルド王子も滞在していたからでした。
これはチャンスだわ。
夜になりマリンは与えられた部屋のベッドから抜け出すと、そうっと廊下を歩きだしました。なんとかリカルド王子に会って、王子を本当に助けたのは自分であることを伝えようと思ったのです。そうすれば、きっと王子は自分のことを好きになってくれるに違いありません。マリンはそう信じて疑いませんでした。
とはいえリカルド王子の部屋の場所などわかりません。夜の館はとっぷりと闇にのまれていて余計に何もわかりませんでした。
壁に手をつき、勘を頼りにうろうろしているとふいに後ろから声をかけられました。
「おい、こんなところでなにをしている」
あまりに急だったのでびくりと身をすくませながら振り向くと、暗がりに男が一人立っておりました。黒い髪に瞳、その抑揚のない顔には見覚えがありました。あの岩場で、マリンを背負ってくれた青年でした。
マリンは青年を見てなんとなくほっとしました。思わずぱくぱくと口を動かしましたがやはり声は出ません。声が出ないのは不便だわ、とつくづく思いました。
青年は感情の見えにくい黒い瞳をマリンに向けていましたが、やがてぼそりと言いました。
「ここはソフィア様の寝室前だ。リカルド王子の部屋じゃない」
ああそうなのか、とマリンは頷きました。
この青年はソフィアに雇われているものの一人なのだろうことはソフィアとの会話などから察しておりました。館を見回りでもしていたのでしょう。手にはランタンをひとつ持っております。
「……ひとつ忠告しておくが」
青年はマリンを見下ろしたまま黒い瞳を細めます。ランタンの光にもその黒い瞳は夜の海のような深い闇の色を湛えているように見えました。その瞳を見てそういえば、とマリンは思い出しました。はじめてあの岩場に行ったとき、この男がマリンの隠れていた岩場を見ていたことを。
「あんたがどうしようが勝手だが、ソフィア様に害は成すなよ」
その声には結構な敵意が含まれておりました。マリンは思わずきょとんとして青年を見返します。
ソフィアに害をなす?
どうしてあたしが?
青年はぽかんとするマリンを見て、一瞬だけ不思議そうな顔をしました。
しかしすぐに平坦な表情に戻ると、ぼそぼそと続けました。
「……まあいい。……あんた、ここに居ると決めたんなら明日の日の出前には厨房に来い。そこが一番、人手が足りない」
マリンはさらにきょとんとしました。
厨房、人手?
この男は何を言っているの?
首を傾げて男を見上げると、男は右手で頭をがりがりと掻き、そうして小さく嘆息しました。
次に出された声は先ほどとは違い敵意は含まれておりませんでしたが、かなり呆れた響きを含んだものでした。
「何って……働くんだよ。ここに置いてもらうんだから当然だろう」