魔女の言葉にマリンはびっくりしました。
しかし魔女は続けます。
「声に言葉、文字。それらとひきかえだ。しかしそれでも存在を維持するには足りん。だから二月後、おまえは惚れた男と結ばれなかった場合、おまえは海の泡となって消えてしまうだろう。それでもいいかい? 」
それはあくまで淡々とした声音でした。しかし魔女の瞳はじいっとマリンを見据えています。それはさも「どうだ、お前には無理だろう」と言っているかのようでカチンと来ました。
「いいわ」
マリンは頷きました。
だってあの青年――リカルド王子を助けたのは自分なのです。ならばきっとリカルド王子だって人魚姫のことを好きなってくれるでしょう。それに、あのきれいな笑顔をいちばん傍で見ることができるなら言葉なんていりません。
心のそこからそう思ったのでした。
「馬ァ鹿。絶対後悔するぞ、小娘」
「あたしは本気よ。後悔なんてしないわ」
マリンはいつのまにやら再び空を旋回している鴉を睨みつけました。鴉はやはりがあがあと笑います。それにむかって傍に浮かんでいたわかめを投げつけましたが、むろん簡単に避けられてしまいました。
魔女はひとつため息をつくと立ち上がりました。
幼い姿の魔女ですが、マリンを見る瞳はひどく落ち着いた年老いたものの静けさを湛えております。
マリンは気おくれひとつせず、それをまっすぐに見返しました。
だって本当のことなのです。こんなにひとを好きになったのなんて初めてなのです。
だから後悔なんてするはずがありません。
するとしばらくして魔女は言いました。
「……わかった。ならばお前の願いを叶えてやろう」
次にマリンが気が付いた時、そこには魔女も鴉もいませんでした。
辺りは橙色に染まり、寄せては返す波のしぶきまで太陽の色をうつしております。
ぼうっと瞬いたのもつかの間、身を起こしたマリンはそこがいつもリカルド王子の岩場であることに気づきました。そうして、自分の下半身の違和感にも。
おそるおそる目を移したマリンは、そこにあるはずの魚の尾が消え失せ、2本の白い足に変わっているのを認めました。思わず声を上げそうになりましたが、しかし喉からそれは出ませんでした。
魔女は自分の願いを叶えてくれたのでしょう。
マリンはそろそろと立ち上がろうとしました。しかし「立つ」という所作が生まれて初めてであったため、そのままこてんと倒れてしまいます。
素肌にごつごつとした素肌は痛く、思わず悲鳴の代わりに涙が滲みました。
そのときでした。
「まあ、どうしたのですか」
愛らしい声とともに自分のうえに影が落ちてきました。
顔を上げるとそこには、いつもリカルド王子とともにいるあの少女が日傘を差し掛けて立っておりました。
少女はマリンを見て目を瞠ります。
「……そんな薄着で、ずぶぬれではありませんか。大丈夫ですか? 」
それにマリンは答えようとしましたが、もちろん声は出ませんでした。口をぱくぱくとさせるマリンを見て、少女は軽く首を傾げます。さらりとした栗色の髪の毛が細い肩を流れました。
「……声が出せないようですね」
そう言ったのは、少女のうしろにひっそりと立っていた背の高い男でした。のっぺりとした、感情の見えにくい薄い顔をしております。黒い髪に黒い瞳、それに奇妙に黄色がかった肌をしておりました。
少女は男の言葉にまあ、とつぶやき、そうしてすぐにやさしげに微笑みました。
「お困りのようならわたくしの館に来ませんか? このようなところにいては風邪をひいてしまいますわ」
そういって少女は羽織っていたヴェールを差し出しました。マリンは少女の顔をじいっと見あげ、こくりと頷きます。それはマリンにとって願ってもいない申し出でした。
少女のヴェールを身体にまとい、立ち上がります。しかしすぐに膝が萎えて再び転んでしまいました。それを見て少女が傍らの男に言いました。
「スオウ、背負って差し上げてください」
「はい」
スオウと呼ばれた男は自分の着ていた上着を脱ぐと表情一つ変えぬままマリンの身体に巻きつけ、そうして背中を差し出します。
「背負われる」経験などないマリンでしたが、えいやと男の背に掴まりました。男の背は思ったよりも大きく、そしてその体温はひえきった人の身体にあたたかく感じました。
「では、帰りましょう」