海の底に戻ったマリンでしたが、幾日経ってもあの青年のことを忘れることはできませんでした。何をしていても頭の中に浮かぶのはあの青年のことだけなのです。
「あの素敵なひとはちゃんと助かったのかしら」
10日後、ついに我慢のできなくなったマリンは青年を送り届けた岸辺に出かけることにしました。
岩場の影に隠れながらそうっと岸辺をのぞいてみますと、なんとそこにはマリンの助けた白金色の髪の青年が座っておりました。青白かった肌も、今は太陽の光の下で生き生きと輝いております。すっきりと通った鼻梁にきれいな二重瞼。白金色の前髪の下の瞳の色は鮮やかな緑の色をしておりました。
マリンは思わずぽうっとなってその姿をみつめてしまいました。やはり何度見ても素敵なひとです。お顔を眺めているだけで胸の高鳴りは一層激しくなっていくのでした。
その時、波の音に混じってひとつの愛らしい声が響いてきました。
「こんなところで何をなさっているのですか、リカルド王子」
青年に近づいてきたのは日傘をさしたひとりの少女でした。
あの日、この青年を助けた少女です。
「ソフィア殿」
青年は少女をみとめると、思わずマリンがうっとりするような甘い笑顔を浮かべました。
「体がなまっていてね、少しだけ散歩をしていたんだ」
「けれど……お身体もまだ万全ではないのですからご無理はしない方がよいですわ」
いかにも心配げに日傘をさしかける少女に、リカルドと呼ばれた青年はどこか熱っぽい潤んだ瞳を向けてこう答えました。
「いや、貴女に助けてもらった命を無駄にはしないよ。本当にありがとう、ソフィア殿」
「なんなのよあの子」
海の底に戻ったマリンは、心の中にあるもやもやを吹き飛ばすように叫びました。
「ど、どうしてあの子が助けたことになってるの。本当に助けたのはあたしなのに……」
いつものように思いきり泳いでも、魚の尾をびちびちはねさせてもちっとも気が晴れません。
少女に向けられた素敵な笑顔、それを思い出すと胸が痛いくらい高鳴ると同時に、それが少女に向けられたものであることに胸がきりきりと痛くなるのでした。
ふたりに流れる雰囲気、それを感じるだけですごく辛くなります。
それでもマリンは岸辺に通い続けました。辛いけれど、腹立たしいけれど、それでもリカルド王子のことを見ていたかったのです。
リカルド王子は毎日浜辺にやってきました。ソフィアと呼ばれた少女も一緒にやってきます。そうしてなにやら楽しげに談笑しているのでした。
日に日にふたりの雰囲気はやわらかいものになり、マリンのもやもやとしたもどかしい気持ちは大きくなっていくのでした。
そのもやもやは胸の器のふちいっぱいにまでたまり、あるときぱちんとはじけてしまいました。
それはいつものように岩場に隠れてリカルド王子をみつめていたときのことでした。
王子がふいに真顔になり、ソフィアの手の甲にくちづけを落としたのです。
そうしてこういったのです。
「貴女が私を助けてくれて、本当によかった」と。
「……ふうん、それで人間になりたいと」
「ええ」
マリンは目の前の魔女にむかってこっくりと頷きました。
「だってくやしいのだもの。あのひとを助けたのはあたしなのに、どうしてソフィアって子ばかりがあのひとの傍に居れるのよ。おかしいわ。くやしいわ。悲しいわ」
言葉に出すとなにやら悔し涙がこみあげてきて、マリンは真珠のような涙を海面にぽたりぽたりと落としました。
すると上からがらがらとした声が降ってきました。
「阿呆らしい。何が嬉しくて進んで精霊から人間なんぞになるってんだ。しかも小娘の一時の何の役にも立たない感情のために、だと? ああ阿呆らしい阿呆らしい」
大きな鴉ががあがあと鳴きながら海に居るマリンと、岸辺に座っている魔女の上を旋回しております。マリンがむっとして鴉を睨みあげますが、当の鴉はへいちゃらな顔でさらにがあがあと笑いました。
「よさんか、レイヴン」
それを諌めたのは魔女でした。
大陸の中でももっとも高名であり、もっとも高齢でもあるという西の魔女は、その小さな手に握られた古めかしい杖をひょいと振ります。すると高いところを飛んでいた鴉の動きがぴたりと止まり、すぐに海の上にばしゃんと落ちてきました。
魔女はばしゃばしゃと海面でもがく使い魔を面倒くさそうに一瞥して、しかしすぐにマリンに目をうつしました。
「しかし人魚の姫よ。レイヴンのいうことも一理ある。願いを叶えるにはそれだけの代償と覚悟がいる。おまえにそれが……」
「馬鹿にしないで。覚悟ならあるわ」
マリンはむっとして魔女を睨みつけました。
わざわざカモメに頼んでまで西の魔女にここまで来てもらったのは伊達や酔狂ではないのです。マリンは本気でした。本気で人間になるつもりだったのです。
魔女はその常に眠そうにみえるとろんとした瞳をマリンに向けました。
はじめて会う西の魔女はまっしろなふわふわとした長い髪のちいさな女の子でした。その外見は評判と違ってあまりに頼りなく、だからマリンはいっそう声を鋭くしました。
「あたしは本気よ。人間になるためにはなんだってするわ」
「……」
魔 女はためいきをひとつ付き、そうしてかぶっていた大きな帽子のつばをひっぱりながらぶつぶつと言いました。
「代償は大きいぞ。そうだな……人魚の歌声には魅了の力があるな。いや、やはりそれだけじゃあ足りないな……そうだな」
「……」
「声を全部」
「え……」
「だから」
ぽかんとするマリンに、魔女は再度、こういいました。
「お前のすべての『声』と交換に両足を与えてやろうといっているんだ」