銀色の短剣は綺麗な弧を描いて昏い海へと吸い込まれていきました。
崖の下の海は浜辺の浅瀬よりはるかに深く昏く、先ほどのようにとうていすぐにみつかるものではありません。海面に落ちる音さえも荒波の音にかき消され、銀の剣のありかはもう誰にもわからなくなってしまいました。
マリンはその場にへたへたと座り込みました。
ざんばらに切ってしまった髪の毛が崖の上に吹きつける風にさらさらとなびきます。頬が冷たいのを感じて、マリンはそこではじめて自分が泣き続けていたことを知りました。
あわてて服の袖で涙を拭います。これで最後なのに、あまりみっともない顔をスオウにみられるのは嫌だと思ったのでした。
次にスオウがとる行動はわかっておりました。
あのやさしいひとは、きっとまたマリンのために短剣を探すのでしょう。そうしてマリンの手で自分を殺させようとするのでしょう。
夜の海、しかも崖下の深い深いところから短剣を探し出すのは不可能に近いでしょう。けれどもスオウはきっと探すに違いがありませんでした。冷たい海に何度ももぐって、己の身体を損なったとしてもあきらめないに違いがありませんでした。
だからマリンはすぐにでもこの場を去らねばなりませんでした。なぜなら、万に一つでも短剣が見つかっても、マリンが居なければ「マリンの手で短剣を使う」ことはできないのですから。
頬をこすり、ばらばらに風に遊ばれる肩までのざんばら髪をなんとか抑えて立ち上がります。
スオウの方を見ると、彼はすでに短剣の消えた崖下の海に向かって泳ぎ出しておりました。
――スオウ!
マリンに声は出せません。だから心の中でせいいっぱい思いました。スオウにはこの声が届くはずだからです。スオウがこわばったままの顔をこちらに向けました。その顔を見て、ああとても怒っているわ、とマリンは思いました。
だけれどもマリンは自分の手でこの人を殺さなくてよかったと心の底から思っておりました。
短剣の切っ先がスオウの皮膚を抉る感触やぬめる血が柄まで伝ってきたあのとき、マリンンの身体も心も心底震え、冷たいものが全身をかけめぐりました。それはきっと自分が海の泡になって消えてしまうより恐ろしいことなのだと改めて悟ったのでした。
マリンは短剣を投げたことをちっとも後悔なんてしていなかったので、スオウに向かってできるだけ可愛く見えるようににっこり笑って見せました。
――今までやさしくしてくれてありがとうね。だいすきだったわ!
「待て! 」
スオウの声とともにマリンは踵を返して走り出しました。海とは逆の方向に、できるだけ短剣から離れた場所にいくために。
「マリン! 」
スオウの声が背中越しに聞えます。
低いその声が自分の名前を呼んでいることに今更ながらにマリンは気づきました。そうか、心の声が聴けるスオウは、ずっとあたしの名前を知っていたのだわ。だからマリンは思いました。
ああ、最後にこの声に呼んでもらえて良かった、と。
「――おい」
その声に西の魔女は砂浜に目を落としました。そこには東の地に住む悪魔の血を半分引いた人間が、濡れた前髪の下からその漆黒の瞳をミランダにむけておりました。
スオウという名のこの人間は、一度は人魚だった娘を追おうと砂浜にあがってきましたが、すぐにその足を止めると睨むようにミランダに声をかけてきたのでした。
杖に腰を掛けて月の下に浮かんだままミランダは答えました。ながいチェリーブロンドがふうわりと月夜の闇の中を揺れます。
「なんだい」
「あんたは何かと引き換えに願いを叶えてくれる魔女なんだろう」
ああ、それに気づいたか。
ミランダはそう思いながら鷹揚に頷きました。
「そうだよ」
「なら、俺の命を引き替えにあの馬鹿娘の命を助けてやることはできないか」
「できないね」
男の問いにミランダはあっさり答えてやりました。
「おまえは私の魔法をなんだと思っているんだ。あの娘の命は契約を交わした時点でもうひきかえられているんだ。前に結んだ契約対象をどうこうするだなんてできないね」
「やらない、ではなく、できない、のか」
「そういっている」
「西の魔女はこの地では最高の力を持っていると聞いたが」
ミランダは挑むように自分を睨みあげてくる男の漆黒の瞳を見下ろしながら薄く笑いました。
「私が魔法を使えるのはあくまで契約ありきの話だ。契約の対象のもつ力を変換してそれを叶えてやるだけだからね。簡単なものならいざ知らず、命にかかわるものはなんでもやれるわけじゃない。そんなことができたら私はもう神とよばれるものになっているさ」
「……」
ひとの心を読むスオウにもそれが嘘ではないことがわかるのでしょう。こわばった表情のままぎりと歯を鳴らしました。
そのとき、ばさばさという重い羽音とともにぎゃらぎゃらとした声が空から落ちてきました。
「おいおい、お前のような奴があの馬鹿娘のために命をかけるたあ、ちゃんちゃらおかしい話だ」
それは魔女に海に投げ入れられたはずの使い魔の鴉でした。いつの間に海面から上がったのでしょう。海の水を含んだ翼を重そうにはばかたせながら鴉は続けます。
「あの人魚は自分で馬鹿な道を選んだんだ。おやさしい俺があんなに止めてやったってのによお。だから、悪いのはあいつでお前じゃねえだろう。命を懸けてまでどうしてそんなに必死になるんだ。お前はそんなにお人よしにはみえねえが」
鴉はふいにねっとりとした口調で言いました。
「なあ、あんな娘ほおっておいてよお、俺と遊ぼうぜ。お前の力はこの国を掌握することだってやろうと思えば簡単にできるんだぞ。リカルドって王子もこの国の民衆も、ソフィアって娘さえも心の読めるお前ならチェスの駒のように動かすことができるだろう。国ひとつをチェス盤にみたてたゲームだ。面白そうじゃねえか。なあ悪魔の子よお」
「うるさいレイヴン」
「あっ、やめろクソババア! 」
またもやミランダに首を掴まれた鴉はふたたび海面にぽいと投げ出されました。
海面でじたばたともがく使い魔を一瞥することもなく、ミランダはスオウへと目を向けます。
「まあ、たしかにあの娘のためにお前が命をかける理由はないな」
「……」
黒髪の青年の表情は硬いままでした。しかしその中にかすかに困惑の色が混じっておりました。まるではじめてそのことに気づいたかのような、そんな表情でした。
西の魔女はそれを見てゆるく瞳を細めました。
「心の読めるあんたは何でもわかってる気になっているんだね。だけどひとつだけあんたにもわからないものもあるのかもしれないねえ」
「どういうことだ」
「さあ、あたしはあんたじゃないのだから知らないよ」
魔女の答えは非常にそっけないものでした。
スオウは眉間にしわを寄せ、かるく首を振ります。そうして次の瞬間にはきっぱりとした声で言いました。
「……あの短剣を探してくれ」
「短剣だけあっても仕方ないよ。あの子の手でそれを使わせなければ」
「探して使わせればいい。それだけのことだろう」
「契約対象はなんだい」
「俺の中で一番価値のある、だが俺にとってはどうでもよいものを」
やめろもったいねえ、と海面からごぼごぼした鴉の声がしましたがミランダもスオウも気にはしませんでした。
西の魔女は外見に似合わない大人びた笑みをふっと浮かべました。
「お受けしよう、あやかしの子よ」
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――何か変なものでも食ったのだろうか。
マリンの感情が変わりはじめたとき、スオウは目の前の娘のことを純粋に心配しました。
なんせこの人魚の娘は人間としての生活にはとんと不慣れで、妙ちきりんなことばかりしては周囲の人々を驚かせていたのですから当然のことでした。
――頭でも打ったのか。
昨日まで格好悪いだの邪魔な奴だのうっとうしいだの、さんざんこちらのことを疎ましく思っていたくせに、その感情のはしばしに楽しいやら嬉しいやらという声がちらちらと混じり始めたのです。
その明るい感情が自分に向けられていると確信した時も、だから彼はただ困惑したのでした。
一体こいつに何が起こったのだろう。
もちろん「心を読む」力のことをひた隠しにして生活しているスオウは、そのことには気づかないふりをして日々を過ごしていました。
しかしマリンのその恐ろしいほどにまっすぐな感情は日に日に大きくなり、遠慮なく素直に自分にぶつけられてくるのでした。それも、毎日。
こんなことは初めてでした。
ただ、人魚でありながら人間になってしまった娘のことを哀れに思い、世話を焼いていただけに過ぎなかったのです。
懐かれたのか、と思いました。
かまってもらえてうれしい犬の子のようにころころと嬉しそうにして自分を見上げてくるマリンを見るとそう思えたのです。
けれどどうやらそれだけではないことはすぐにわかりました。
だって毎日毎日、マリンのおしゃべりの心はむき出しのままスオウに向かってくるのです。
声が出せないのに、マリンの心はいつでもおしゃべりでした。裏も表もないその心は驚くぐらい綺麗に澄んでおりました。
スオウに会えてうれしいわ。
スオウに会えてたのしいわ。
毎日のように紡がれる心の声は真実そのものでした。
マリンにその自覚はなかったことはわかっております。
そのむき出しの感情が心地よくなかったのかと言われれば嘘になります。
スオウもきっと、素直に裏表なく懐かれて気分が悪くはありませんでした。
東の地出身の自分がこの西の地では侮蔑の対象であること、隠してはいるものの心を読む故に聡すぎると畏怖されていること、それは彼と他人との間に一枚大きな壁を作っておりました。
それはこどもの頃に彼を奴隷市場から救ってくれたソフィアだってそうでした。
彼女は聡明でありました。だからこそ彼の聡すぎるものを本能で感じ取り、どこかで畏怖していたのです。そうしてその畏怖する心を自分自身で律していたのです。そんなことひとに思ってはならないと。優しい彼女はそう思っていたのです。
それを知っているからこそスオウは何も言えませんでした。言わないと誓いました。
たとえどんなに大切だと思っていても、彼女の心を知っていたからです。
だから彼は思っておりました。たとえ彼女から畏怖されていても、陰から彼女を守っていければよいと。
――あと6日。
マリンの担う運命を知ったのは6日前。そのときがはじめてでした。
それまで考えなしのマリンは自分の契約のことなどほとんど思いださなかったので、そのことをスオウも知らなかったのでした。
急に数えられはじめたカウントダウン。
それはマリンが自分の命を諦めた証拠でした。
スオウもそれならば仕方がないだろうと思いました。マリンが決めたことならば仕方がないのだと。
銀の短剣で心の臓を刺させればマリンの命が救われることも知りました。しかし自分がやすやすと命を投げ出すわけにはいきませんでした。だって、そうすればソフィアを守っていきたいというこれまでの自分の感情はどうなるのでしょう。
そう、思っておりました。
しかし数えられていくカウントダウンに次第に焦り始めたのはスオウの方でした。
マリンはすっかり落ち着いた様子で、いえ、諦めたゆえか毎日をこころゆくまで楽しんでいるように見えました。もっとも、死への恐怖は心の奥にあるようでした。ふとした拍子に垣間見える大きな不安はこれまでのマリンにはないものでした。
けれどスオウに向けられるきれいな感情はやはりむき出しのまま、日に日に大きくなっておりました。
それを聞くのは非常につらく、心苦しいことでした。
マリンの自分に向けられる嬉しそうな笑顔を見るたびに心の臓が切り裂かれるようでした。
けれどもソフィアへの恩や思慕はそう裏切れるものではありませんでした。だから彼は、マリンを見捨てる覚悟でおりました。
あの最後の日。
マリンがこう言うまでは。
――ごめんなさい。スオウをしあわせにしてあげられなくて。
ぎりぎりに踏みとどまっていた感情が動いたのはこの瞬間でした。
ああ駄目だ、と。
愚かな自分に懐いてきた馬鹿な娘をこのまま死なせられない。
そう、強く強く思ったのでした。