(1)
それからの魔女の行動といったら、それはそれははやいものでした。いつもはぐうたらとカタツムリみたいに過ごしている魔女でも、やはり空腹には勝てないのでしょう。
レイヴンは持っていた魚を寄越せといわれるのを覚悟していたのですが、魔女はそんなことはちっとも思っていないようでした。つばのひろい黒い帽子をかぶり、樫の木でできた古めかしい杖とカビパン袋を手に取ると、さっさと庭の方にいってしまいました。レイヴンがあわててその後を追うと、魔女は裏庭で一番大きな木の根元を掘り返しておりました。魔女の頭越しにそれをのぞいたレイヴンはびっくりしてへんてこな声を出してしまいました。なぜなら、土の中からのぞく壷の口からは、あふれんばかりに金貨が詰まっていたのです。
「なんだ、金はあるんじゃねえか」
思わずレイヴンはつぶやいてしまいました。古びた家や魔女の状況から、てっきり貧しいものだと思っていたのです。魔女はそれに答えずに金貨を2枚だけとると、壺を元通りに埋めてしまいました。
みたところ金貨の種類はデュール金貨、レイヴンの居た土地でもっとも流通していた金貨でした。金貨1枚で家族が半年暮らしていけるだけの価値はあるはずです。しかし、とレイヴンは思いました。いくら金があってもこの魔女は何を買ってくるつもりなのでしょう。まさかあの堅いパンだけを山のように買ってくるのではないのでしょうか。
魔女はレイヴンを振り返りもせずに杖にまたがりました。そうして魔女が何事かをつぶやくとふわりと浮きあがります。白くてふわふわとした髪が目前で揺れるのを見て、レイヴンは思わずその髪のひとふさを掴みました。
「おい、ちょっとまて。俺もつれていけ」
魔女はそこではじめてレイヴンの存在を思い出したようでした。ほんの少しだけ目を丸くした後、ああそうかと口にします。
「一緒に行ってもなにもできないよ。お前がわたしから脱走したり他人に危害を加えた瞬間に、頭の輪っかはぎゅうと縮むようにできているのだから」
レイヴンは思わず頭の輪に手をやりながら答えました。
「さんざん痛い思いをしたのだからもうやらねえよ。それよりお前、今から買い出しにいくんだろう」
「ああそうだよ」
「何を買うんだよ」
魔女はあたりまえのようにあっさり答えました。
「……パン」
「絶対に俺もつれていけ」
こうして魔女とともにレイヴンは出かけることになりました。しかし出かける前に魔女はレイヴンにもうひとつの魔法をかけたのです。
この魔女の魔法といったらとても変わったものでした。レイヴンはそれを唖然としながらみつめます。なるほど、俺はこれにやられたのだなと苦々しげに思いました。目を見開くと、レイヴンの身体は漆黒の羽毛に包まれた1羽の鴉に変化しておりました。頭の輪っかはご丁寧にも首のところに移動しております。なるほど、この姿の時は頭ではなく首が締まるということなのでしょう。
杖に乗って飛ぶ魔女から離れないように翼をはためかせます。ずいぶんと久しぶりな気のする空は綺麗に晴れわたっておりました。空の上から見る森は想像以上に深いものでありました。四方をぐるりと濃い緑が囲っており、平らな土地と言うものがみえません。
魔女は東に向かって飛び始めました。レイヴンもあわてて後を追いました。魔女の魔法は協力で、あまり離れすぎると首の輪っかが締まってしまうのです。
やがて緑ばかりの土地の先に、ぽつりと土色のものがみえてきました。それはほんの小さいものでしたが、近づくにつれて森に沿うようにしてひとつの集落をつくっていることがわかりました。
「ああ、西の魔女様じゃねえべか。ひっさしぶりだなあ」
魔女が舞い降りた瞬間、そばに居た野良作業中の男が声をかけてきました。いかにも純朴そうな若者は汗を拭きながらもにこにこと笑っております。
「でも本を持ってくるキャラバン隊はまだ2か月先だべ。何か用でもできたべか」
「うむ、パンが底をつきてな。買い出しに来た」
「あれまあ、めんずらしい。いつもならまだ持つはずだろうに」
「食い扶持がひとり増えたからな。やたら大食らいでパンをたくさん食べてしまう」
魔女の言葉に、魔女の杖の先にとまっていたレイヴンはぎゃあと反論しました。
「ふざけんな、あれっぽっちで腹が膨れるもんか! というかパンだけでなく野菜や肉を喰え!」
「こりゃあたまげた。西の魔女様の使い魔はしゃべるんだべか」
男はぽかんと目と口を開けてレイヴンを見上げて言いました。
レイヴンはふんと胸をそらします。
「当たり前だ、俺様を誰だと思っておる。俺は……」
しかしレイヴンにはそれから先の言葉が紡げませんでした。どうやら目覚めたときの魔女の言葉で、昔の名はすべてとりあげられてしまっているようでした。
ぎゃあぎゃあとわめくレイヴンを無視して、魔女は男に聞きました。
「いつものパンをまとめて買いたいんだが、マリーは居るだろうか」
「ああ、居るべ居るべ。魔女様のたのみだべ、今からでも焼き上げてくれるだべさ。おら、言ってきてやるよう」
「ありがとうジョン」
魔女はこっくり頷くと、側にある大きな木の下に座り込みました。そうしてそのままうたたねをしはじめました。ジョンと呼ばれた気の良い農夫の背中が遠ざかっていくのを見て、レイヴンは魔女に言いました。
「おい、俺もパン屋に行きたいんだが」
魔女は瞳をあけました。紅茶色の瞳がレイヴンをじっとみつめます。それはとても深い色をたたえておりました。
やがて魔女は答えました。
「……好きすればいいよ。言っておくけど逃亡や殺戮は一切許さないよ」
「うるせえ、何度も言わなくてもわかっている」
魔女はふところから出した金貨を鴉のくちばしにはさみました。それきりもう動く気配を見せなかったので、レイヴンは金貨をくわえてひとりで男の後を追いました。男は村はずれにある大きな煙突のある家に入っていきます。扉につけられている鐘がかんらかんらと音をたてました。
なんとか家の中に滑り込むと、そこはパン屋のようでした。魔女の家にあった堅いパンだけでなく、いかにもおいしそうなふかふかとしたパンも売ってあります。ジョンは店の中に居た中年の女性に話しかけました。
「マリーさんマリーさん、西の魔女様が来られてるんだべ、いつものパンをたくさんほしいと言われてるべ」
「あれまあ。今からだとあまり作れないんだけどねえ、まあ魔女様の買われる堅パンなら発酵せずにすむから少しは出来るかねえ」
「ほかでもない魔女様のおたのみだべ。他のものでもいいんだべが、魔女様はパンしかいらないと言うしなあ」
「他のものも所望する!」
レイヴンは慌てて叫びました。くちばしを開いた拍子にぽろりと金貨が落ちましたので、その上に舞い降りて足で踏みつけました。
「いいか、これで買えるだけの食糧を持ってこい!」
パン屋のマリーはびっくりしたようにひゃあと声を上げましたが、ジョンはレイヴンに向かって不思議そうに言いました。
「でも魔女様はいつもパン以外買っていかないべ。それにどうやって持って帰るんだべか」
「それなら荷車も所望する。デュール金貨1枚あれば余裕に足りるだろう」
「そりゃあそうだべ。デュール金貨1枚あれば1人3年は生活できるべ」
「では食料、調味料、あとは料理道具一式、生活道具一式も求む。この村で売れるものはすべて荷車に積み込んでもらおう。生ものでもなんでもよい。ああ、鶏とヤギも頼む。あとは俺が押して帰る」
「鴉には無理だべよ」
こどもを宥めるように言われて、思わずむっとしたレイヴンはぎゃあぎゃあとわめきました。
「愚か者め。俺の本来の姿は鴉などではない、大陸一美しく強いと言われた男なのだぞ。精霊すべての寵愛を受けていたのだからな」
「うひゃあ、それはびっくりだ」
純朴はジョンはそれですっかり安心したようでした。
「じゃあ村の者総出で用意してくるべ。ようし、大仕事だべ」
袖をまくってパン屋から出ていく男を見送りながらレイヴンは満足げに頷きました。そうしてふと思いました。金貨の価値が変わっているということは、自分が寝覚める前よりは時がたっているようでした。レイヴンの最後の記憶はデュール歴1873年。あれからどのくらいたったのでしょう。
あわててパンを焼きにいこうとするマリーをひきとめます。そうして尋ねました。いったい、今はデュール歴何年なのだろうと。
パン屋のマリーは答えました。
「へんてこなことを聞く鳥だねえ。今はリュナス歴394年だよ。デュール歴はひとつ前の暦だ。とうの昔に終わっちまった時代の話じゃないか」