へびの夫婦

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八話:座敷牢




悪夢の最後の光景は常に決まっておりました。
淀んだ闇と鉄錆びの匂いのする赤の混じる部屋の中、あのときのように彼はひとり笑い続けているのです。
夢は過去とそっくり同じで改変できたことなどありません。
だから彼は、こどもの頃の彼はひとりくつくつと笑い続けているのです。
傍にあるのは物言わぬ残骸だけ。こそりとも動く気配はありません。
それをぼんやりと瞳に映しながら、それでも死にたくないと、死ななくてよかったと思う本能のままに彼はひとりで笑い続けておりました。
他の感情は当の昔にすり減り、ほとんど押し流されてしまっています。だから涙も悲壮の表情も表に出ることはありません。

彼を包む闇は冷たく沈み込んでいます。
そこからは何も聞こえません。あたたかなものなど何もないのです。




寝つけたのは結局朝方でした。
しかし握りしめていた白い石も功を成しませんでした。ほんのわずかな 眠りの合間にも悪夢は食い込んできたのです。
時貞はぎりと歯を食いしばりました。
疲労と、そして昨晩味わった喪失感はちっとも拭えておりませんでした。


――わたしは明日、時貞さまに離縁をお願いしてみようと思うんだ。


ざあ、と再び耳の奥で波がざわめきます。
あの娘のこと、きっと決意は揺るがないのでしょう。
時貞は握りしめたままでゆるい温度を伝えてくる白い石をみつめます。


――逃がすものか。


それだけは、強く思いました。



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 果たして娘が決死の行動を起こしたのは、唯一時貞との接点がある玄関先でのことでした。
 朝ではなく夕方を選んだのは、朝では時貞の仕事の邪魔になると考えたからかもしれません。
 宵闇が薄く陰りはじめ、ぽつりぽつりと灯篭の淡いひかりが灯る中、いつもは静かにしている紫が時貞の前に飛び出てきたのです。
 蒼白な顔の中にある赤い瞳は、しかし灯篭のひかりのせいか強く輝いて見えました。周りの誰もが驚く中、紫は深く頭を垂れます。
 地に伏せたまま、そうして細い声で離縁の希望を伝えました。
 途端、一斉に周りのものがざわめきました。

――女からそのようなことをいうなんてなんと無礼な。

――愚かなことを。

――信じられない。


 正妻である紫を疎ましく思っている側室たちは、驚くと同時にそれぞれ野心をたぎらせたような瞳を時貞に向けておりました。
 この状況、どう転んでも正妻である紫の失墜は否めません。
 無礼者として処罰されるか、離縁され外に放り出されるか。
 どちらにしても側室たちにとっては自らが正妻となれる絶好の機会が訪れるに違いがないからです。

 しかし実のところ、この場に居る者たちは転ぶのは前者の方法であるとわかっておりました。彼らの若君の気性の荒さは誰もが認識していたのです。
 どうでもよい「正妻の娘」。その娘が恐れ多くも「蛇五衛門」に意見するなどもってのほかでした。


――ああ、殺される。


 時貞が紫に向かって一歩踏み出したとき、誰もがそう思いました。
 この場で娘に良い感情を抱いているものなどひとりとしておりませんでしたが、それでも血を見るのは嫌悪感があります。だからぞっとしたように固唾をのんでその光景をみつめました。

 時貞の表情はいつもと変わらずように見えました。薄い笑みを端正な顔に浮かべています。しかよく見ればその瞳がちっとも笑っていないことに気づけましたから、さらに背筋が粟立つような戦慄を覚えるのでした。

 時貞は紫の前で腰を折りました。そうして頭を垂れたまま震えている娘の顎を掴みます。
そうしてぐいと自分の方を向かせると、誰もがぞっとするような笑みを浮かべました。


「……いいか、ひとつ教えてやる」


 その声も真冬の樹氷のように冴え冴えと冷えきっておりました。


「俺はな……誰かに何かを指図されるってえのがなにより嫌いなんだ」


 そうしてそのまま突き飛ばすように手を離すと、娘の方を振り返りもせずに侍従に向かって命じました。


「この娘を北の宮に放り込んでおけ。あとこいつの部屋に子蛇が二匹いるはずだ。絶対に逃がすな。とっつかまえて連れてこい」


 その言葉に周囲がさらに静まりかえります。
 北の宮。
 それは、座敷牢と呼ばれるひとつの牢獄がある場所でした。




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 白い娘は命じられた通り座敷牢に入れられました。しかし正妻の立場はそのままでした。
 座敷牢に入れられた正妻など前代未聞でしたが、しかし誰も彼に意見できるものなどおりません。現当主、蛇五衛門清正とて、その知らせを受けても何も言いはしませんでした。
 だから白い娘の暗い未来は決まっていると誰もが思っておりました。
 拷問により殺されるか、飽きてそのまま放置のうえに餓死するか。
 どちらにせよ、今は時貞のきまぐれにより生かされているだけに違いがないと。



 座敷牢の中は闇に満ちておりました。
 四方は土壁。その一方に頑丈な扉があり、それはがちりと鍵によって封じられています。
 高い壁のひとつにほんの小さな、拳ひとつぶんの空気穴がありますが窓というものはありません。もちろん明かりなどというものもなく、だから陽が落ちると闇があっさりとその空間を支配するのでした。

 一日後に灯りをひとつ手にした時貞がそこにやってきたとき、紫は部屋の隅でじっと座っておりました。しかし扉を開けた時貞の姿を認めると、ぱっと立ち上がり転がるように駆けてきました。そうしてその場に平伏します。

「と、時貞さま! あ、赤坊と青坊の命だけはお助けください! このたびのことはわたしにだけ責任があるのです。あの子たちは関係がないのです。お願いします。わ、わたしの無礼はわたしの命であがないます。だから、どうか……」

 時貞は震えながら平伏している白い娘をじっと見下ろしました。どろどろとした感情が身の内を渦巻いているのを感じます。耳の奥の波は、ずっとざあざあと音を立てております。
 娘の言葉はおかしいだけでした。だからくつりと喉の奥だけで笑います。


――手放すものか。


 男は昏く思いました。
 彼の心はもう定まっていたのです。
 死の神に差し出すつもりもなければ、屋敷の外で自由にさせるつもりもありません。
 だから牢獄に閉じ込めたのです。

「あの子蛇たちは殺さん」

 だから、彼は言いました。

「だがお前が自害をすれば殺す。……わかるか? だからお前はどんなにここが辛くても、どんな目にあっても自害してはならん。――俺が、許さん」

 時貞はこの娘をけして逃がさないと決めたのでした。
 もう誰にも渡すつもりはありません。
 だから子蛇の命という鎖で最後の自由も縛りつけることにしたのでした。この娘にとって、これが一番効果的であることはわかっておりました。

 思わず面を上げた娘の顔の色が一瞬のうちに蒼白になりました。しかし震える声でさらに言いつのります。

「……わ、わたしはどんな拷問もお受けいたします。けっして自害したりはしません。お約束いたします。だ、だからどうか、赤坊と青坊は逃がしてやってくださ……」
「くどい」

 時貞は低く笑いました。拷問、と胸のうちでつぶやきます。
たしかに自分の傍から離れられないのは拷問でしょう。触れられるのも拷問でしょう。
 そう思うとさらに冷たい笑みが浮かびました。

 時貞は視線をめぐらせます。そうして、思った通り手つかずの食事を見て瞳を細めました。今は追い払っておりますが、いつもは外に居る牢番からもこの娘が一切飲食を口にしていないことは知らされておりました。

 時貞は無言のまま盆の中からひからびかけている果物を口にしました。そうして乱暴に紫の顎を掴みます。
そうして、驚いたように見開かれる赤い瞳を見ながらその唇を合わせました。


 はじめはその赤い瞳を観察する余裕がありました。見開かれた瞳が間近でまたたき、白くけぶるまつげが彼の肌を撫でるさまもはっきり見えました。
 しかし舌で咀嚼した果物を押し込み、無理やり嚥下させたころには時貞の理性は半分以上なくなっておりました。噛みつくかのように唇をあわせ、貪るように口内を犯します。   
 果物の味の残る口内は甘く、しかしそれ以上に紫のものであるがゆえに甘美でした。
 はじめて甘いものをくちにした子供のようにそれを貪り、そうしてようように唇を離した後もそれがちっとも足りていないことに気づきました。
 苦しげに逃げようとする娘の後頭部を片手で押さえつけ、二度、三度と角度を変えて深く繰り返します。自らの飢えを満たすかのように、それは長い間続きました。


 唇を離した後の娘のようすはそれは扇情的でありました。
 赤い瞳は潤みきり、小さな唇は濡れて光っております。甘い吐息は荒く、その身体は小さく震えておりました。
 もちろんそう見えるのは自分の勝手な感情であることはわかっております。実際には娘が涙をためてただ怯えているだけだということもわかっておりました。


――まあいい。


 時貞は昏い笑みを浮かべながら思いました。
 嫌われずに遠くにやるか、嫌われても近くに置くか。
 昨晩考えたのはほんの一瞬でした。
 手放せないとだけ思ったのです。
 逃がさないと思ったのです。
 ただ、それだけでした。


 もう嫌われてもよいのです。怯えられてもよいのです。
 怯えていようがなんだろうが、この娘はここから……自分からはもう逃げられないのですから。


「……飯はちゃんと食え」


 時貞はほそい顎を掴んだまま、吐息が触れるほどの距離で命じました。

「おめえがどんな理由で死んでもあの子蛇たちは殺す。いいな」


 白い娘ははっとしたように目を見開きます。
 これ以上ないというほど顔色を蒼ざめさせ、そうして涙をためたまま何度も頷くのでした。







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