へびの夫婦

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九話:飢餓



蛇骨族の都より東、山岳地帯を挟んだ麓にある或るあやかしの里が滅ぼされたという報が届いたのはその次の日のことでした。
しかし誰が、なんのためにそのようなことをしたのかはやはり分からないままでした。
それを究明するために蛇骨のものを送り込んでも、それはすべて帰ってこないのです。
情報はなく、しかし依然として現れる化け物の数はますます増えていくのでした。



時貞の疲労は蓄積しておりました。
並みの蛇骨族よりはるかに高いあやかしの力と身体を持つ男でしたが、それでも疲労は残ります。
しかし化け物を殺した夜は悪夢を避けるために側室を褥に呼び、そうしてことが終わった後は白い娘の居る座敷牢に出かけていくため、ほとんど眠ることはありませんでした。

白い娘を座敷牢に閉じ込めて七日。
時貞は白い娘に最後の手出しをすることはありませんでした。手を伸ばして思うままにそのちいさな唇を犯すことは常となっておりましたが、子を作る行為だけはしようとはしませんでした。
娘はいつまでたっても唇を合わせる行為に慣れず、ひたすら苦しそうに呼吸を繰り返します。時貞は涙のにじんだその赤い瞳を間近で見ながら、ぞっとするような瞳で昏く笑います。
この一瞬。わずかな時間。
そのときにだけは娘の頭の中に自分しかいないことを、震えるほど心地よく思うのでした。

時貞は自分がそう遠くないうちにこの娘のすべてをぐちゃぐちゃに壊すだろうことを悟っておりました。身体の芯からぞくぞくするほどの快楽。悪夢を遠ざけられるほどの強い感情。それはすでにこの娘にしか与えられないものになっておりました。
しかし時貞のほんのわずかに残った理性でそれを押しとどめておりました。娘の身体がちいさく、そして脆いことはその外見から見てもわかっております。少しでも慣らしてからの方がほうが良いこともわかっておりました。
だから娘を思い浮かべながら側室を抱き、少しばかり冷静になってから座敷牢へと赴くのでした。


そのような時貞の行動は、屋敷の者にとっても不可解にはうつりませんでした。傍から見れば側室たちの方を愛で、座敷牢の娘はほんの気紛れで相手をしているように見えたのです。


そうしてさらに十日経った日のことでした。
時貞の疲労はさらに色濃くなっておりました。なにやら本能できな臭い匂いも感じていましたので、さらに苛々もしておりました。
しかしこの男は表にはそのようなことを微塵も出しませんでしたから、それを知る者は誰もおりませんでした。

屋敷に戻り、時貞が一番に向かった先は北の宮。白い娘の居る座敷牢でした。
これまでないほどに疲労は濃く、気分も悪く、そして絶え間ない頭痛も彼を襲っておりました。
だから彼は強い快楽を求めておりました。
それにはもうあの娘しかいないこともわかっておりました。もう少し身体を慣らす予定でしたが、そんなことどうでもよいくらい時貞は紫を求めておりました。
 

牢番を追い払い、ひとり座敷牢の中に踏み入れた時貞を、白い娘はやはり蒼白な顔で出迎えました。
部屋の隅で縮こまっていた身体を何も言わずに無理に押し倒し、そうしていつものようにその唇を合わせます。深く貪るように口内を犯し、そうして嚥下できずに溢れたものを舐めあげます。自分を見上げてくる涙の溜まった赤い瞳を見るだけで快楽は容易に訪れ、やはりそのときにだけは疲労も頭痛も忘れることができました。
時貞は組み敷いた娘のうえで妖艶に笑います。自らの指を娘の口に入れ、ぐちゃぐちゃと口内を蹂躙しながら娘の耳や首筋に噛みつくと、娘の身体の震えが直に伝わってきました。
恐怖と怯え。そしておそらくは嫌悪でしょう。それはわかっておりましたが、今の時貞には行為をやめるつもりなどひとつもありませんでした。

しかしその時でした。時貞は突然、強烈な眩暈に襲われたのです。
それはこれまで感じたこともないようなものでした。意識が急速に遠のきます。あたりのものがぐらぐらと揺れ、昏く霞がかっていきます。
舐めあげていた娘の首筋から身体を起こし、そうしてそのまま白い娘の横に倒れこみました。意識を失いながらも、溜めこんでいた疲労がついに自分の身体の動きを止めたのだということがわかりました。


――くそ。


かすれる意識の中、時貞は自分が座敷牢の入り口に鍵をかけていないことを思い出しました。途端に抉られるような喪失感が身を包みます。


――逃げられる。


白い娘は潤んだ瞳のまま、かすかに驚いたように時貞を見ております。この娘が扉の鍵が空いていることに気づいたらどうなるのでしょう。いえ、考えるまでもありませんでした。


――くそ……俺は……。


動こうにも身体はぴくりとも動きません。悪夢の手がひたひたと伸びてくるのも感じました。しかしやはり動けないのです。
かすむ瞳で縋るように娘の姿を探します。しかし娘の姿はもう見えませんでした。そこに居るのかどうかもわかりません。


……嫌、だ。


時貞は思いました。
強く強く。はじめて祈るかのように思いました。



行くな……。


そう思いながら娘に伸ばした手は、しかしすぐに力を失い、ぱたりと畳の上に落ちました。


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蛇骨族は弱い生き物です。
だから生き延びるために、そうせざるを得なかったのです。







時貞はその暗い空間を眺めやりました。
いったいどのくらい居たのでしょう。二十日、三十日。あるいは四十日。
それは出口のない狭い空間でした。頑丈な岩でできた壁で四方を囲まれております。呼吸はできるのでどこかに空気穴だけはあるようでしたが、鉄でできた扉は固く閉ざされ動く気配は全くありませんでした。

その空間には明かりがひとつもありません。しかし暗闇に慣れた目にはそこにいるいくつかの影を感じ取ることができました。
はじめは十つあったひとの影。それは今や七つまでに減っております。激しい異臭と鉄錆びの匂い。それはこの空間に淀んで消えることはありません。


誰か開けて。かすかな声とともに鉄の扉を叩く弱弱しい音がしました。しかしそれが開くはずがないことはここに居るだれもがよく知っていることでした。はじめの頃は全員でそれを叩いたのですから間違いありません。



どうして。
なぜ。
ここから出して。
おねがい。
水を。
食べ物を。
だれか。



しかしその声に答えてくれるものは誰一人としてありませんでした。


時貞は十つになったばかりでした。蛇五衛門一族の男子として生まれた時貞は、ある側室の子でした。兄弟は十人。それぞれ腹違いの兄弟でした。
正室の子はひとりで、時貞よりもひとつ下の九つでした。その弟もあわせて十人です。


時貞はこの暗い空間に入れられた中にその弟が居ないことにはじめに気が付きました。かわりに居たのは面差しのよく似た別の少年でした。問い詰めると、少年はぶるぶる震えながら言いました。家族に売られて、ここに入れられたのだと。どうして時貞たち兄弟全員がこんなところに幽閉されたのかは全く知らないようでした。

その少年はもうおりません。蛇五衛門の血族でないからかその身体はもっとも弱く、一番はじめに衰弱して息絶えました。そうしてその亡骸もどこにもありません。それは生き残った兄弟たちの腹におさめられたからでした。


ある日突然、この暗い密室に閉じ込められた兄弟たちには水も食べ物も一滴たりとも与えられませんでした。何故閉じ込めたのか誰も知らず、しかし生き延びたい故に兄弟たちは死した同族の亡骸を口にしました。

蛇骨族は息絶える時には蛇の姿に戻ります。ヒトの姿のものを引き裂いて食らうより、それはまだ救いであったのかもしれません。しかしそれでも、やはりひどい嫌悪を伴うものでした。
これまで生きていて、動いていて、話していたもの。それを食らうのです。竦みあがるほどの嫌悪とともにあるのは道徳観に基づいた純粋な恐怖と憐憫でした。
はじめのほうは精神をすり減らし、拒否したり吐いたり泣いたりしておりました。こんなことはできないと。こんな恐ろしいことはできないと口々に言っておりました。しかしやがて、そのようなことを言っている状況ではないことを全員が悟りました。飢餓は、渇きはひとの心をも貪り食い尽くすのです。気が狂うほどの飢えのうえに、道徳心や憐みなど次第に追いやられていきました。
死骸はこの空間で与えられる唯一の食べ物であり飲み物でした。それだけはゆるぎない事実だったからです。



「時貞にいさん……」


隣に座っている弟の明京がかすかすの声で時貞を呼びました。


「ぼく、のどがかわきました……」
「……黙ってろ」


気の優しかった四つ上の兄が自害したあとに末の弟が衰弱で死に、その身体を分け合って食ってから幾日経つのでしょう。すでに空腹も乾きも身の一部となっておりましたが、耐え難いほどの飢餓感は意識の外においやることができるものではありませんでした。むしろそればかりが脳裏を埋め尽くすのです。

時貞はじっと気配を窺います。
残った兄弟は明京と時貞を除けば五人。
みな、時貞たちより年上で強い者たちでした。
そんな兄たちが自分と弟を見る気配が、時を追うごとに変化していくのを時貞は肌で感じておりました。











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