時貞が紫を閨に呼ばなくなってしばらく経ちました。
朝に晩。側室のうしろにいる紫を視界の隅に入れることしかふたりの接点はなくなりました。
あの出来事があってからも紫の様子はなんら変わりがありませんでした。静かに頭をさげているのみで時貞のそばに寄ることもしなければ、話しかけることもしません。けれども送りの時にも迎えの時にも、かかさずその姿だけはありました。
そのちいさな姿を見やりながら、時貞はそれだけでいいと思っておりました。いえ、思い込もうとしておりました。
苛々とする感情と安堵する感情。それはせめぎあいながら、表面上はいつものままの男の中を侵食しておりました。
都のまわりに出没する不気味な生物は、依然として現れ続けておりました。
蛇骨族だけでなく、周囲のあやかしたちはすべてその生物に戦々恐々としておりました。
蛇骨族を狙っているのか。それとも別の目的があるのか。
それすらもわからぬまま、時貞はその生物をほとんどひとりで屠っておりました。
肉を引き裂き、翼をひき千切り、頭部を叩き潰します。
すぐに紙になってしまうそれらはしかし、死にたどり着くまでは明らかにひとつの生き物そのものでした。
粘っこい液体は時貞の全身を濡らし、死の匂いは否が応でも脳裏に染み込んでいきます。
だからなのかもしれません。
夜に見る悪夢の頻度は、少しずつ増えてきているようでした。
強い酒を飲む。
女を抱く。
それでも悪夢の手に掴まりそうなときには白い守り石を眺める。
以前は自分でもわからぬほどにほっとしていたそれは、しかし今ではその石を見ると違う夢を呼ぶようになってきたので睡眠すら困難にもなってきておりました。
時貞は飢えておりました。
あの娘の毒はとうのむかしに身体のすみずみにまで浸透し、夜の中にまで入ってしまっているのでした。
苛々とした鬱屈がたまった時貞はある夜、障子窓から庭に抜け出しました。空には細い三日月が出ております。
薄明りの下、時貞は知らず祈るようにあの娘の匂いを探しました。
果たして娘の匂いは庭にありました。
今は使われていない井戸の傍。館の隅。
時貞が一番はじめに娘の歌を聞いた場所。そこに紫はおりました。
いつかのように二匹の子蛇を膝の上にのせ、ちいさく歌を歌っておりました。
その娘の姿を見た途端、なにやらぐうっと胸が詰まりました。誰かに心の臓を殴られたかのような、そんな痛みでもありました。
時貞は眉根を寄せます。厳しい表情のまま、紫からは見えない位置で壁に背を預けて座り込みました。
弱い月の光にほろほろとほどけるかのように小さく口ずさまれているそれは時貞のものではありません。
それはわかっておりました。
しかしそれでも聞いていたいと思ったのでした。
やがて歌は月のひかりに溶けきるように終わりました。
深夜の庭は静かで、だから次の紫の言葉は時貞の耳にもはっきり届きました。
それは紫が二匹の子蛇に語りかける言葉でした。
だからそれは、紫の真実の言葉でもありました。
――青坊赤坊。だいじなはなしがあるんだ。聞いてくれる?
――今ね、蛇骨の一族はへんなあやかしに脅かされているんだって。時貞さまがどれだけやっつけてもやっつけても、何度も現れるんだって。
――それでね、時貞さまはすごくお疲れになってるらしいの。わたしもそう思う。最近、本当にお顔の色が悪いもの。
――一蛇骨族のみんなも不安になってる。こういうときって一族みんなが一致団結しなきゃならないって思うんだ。時貞さまを支えなきゃならないって思うんだ。
――ほんとうはね、そういうのって正妻の役目なんだって。
――でもね、わたしは時貞さまに嫌われているから……。すごくすごく、嫌われているから……なんにもできない。
――ふふ、ありがとう。大丈夫。もう泣いてないよ。おまえたちは優しいね。
――だからね、わたし考えたんだ。
――ちゃんと時貞さまを支えられる、きちんとした正妻が蛇骨族には必要なんだって。
――だからね……。
時貞は唇を噛みしめました。言うな、と強く思います。
それ以上言うな。言っては、自分は。
けれども紫は噛みしめるようにきちんとこう告げました。
――だからね、わたしは明日、時貞さまに離縁をお願いしてみようと思うんだ。
ざあ、と耳の奥で波の音がしました。
ざあ、ざあ、という波の音。それは身の内から溢れ出る何かです。
怒りなのか憤りなのか。それとも、もっと別の何かなのか。
――本当はね、時貞さまがわたしなんかとはさっさと離縁したいって思っていることは知ってる。だけどね、とても矜持の高い方だから……それに、優しい方だから、そういうことは自分では言いだせないんだよ。きっとね……。
――でもね、だからといってわたしのほうからそれを言い出すなんてもっとその矜持を傷つけてしまうんだって思うの。だけどね、こうするしか時貞さまの……一族のためになる方法なんてないもの。
――あのね、青坊赤坊。わたしはね、もしかしたら明日死んじゃうかもしれない。
――時貞さまにそんなこと言って、ただですむとは思えないもの。でもね、もう決めたの。
ここまで養ってくれたんだもの。飢えない生活をくれたんだもの。だからみんなに……時貞さまにその恩返しだけはしなきゃ。
――だからね、青坊赤坊。そうなったら、おまえたちはすぐにここから逃げるんだよ
――泣かないで。おまえたちはもう十分独り立ちできる。すごく優しくて強い、とても良い子に育ったもの。
――わたし、おまえたちに会えてよかった。ほんとうに大好きだよ。だからね、おねがい。わたしの言うことを聞いて。
――ね。おねがい……。
紫の声はひどく落ち着いているようでした。ちいさくて、風の音にすら途切れてしまいそうな声であるのに、どこかすとんと腰を据えたかのような響きを持っておりました。
ぴいぴいと泣く子蛇たちを宥めるさまも、ちっとも取り乱したようすはありません。
ちいさな優しい声で、辛抱強く子蛇たちに語りかけるのでした。
時貞は立ち上がりました。耳の奥の波の音はひどく、頭をがんがんと揺さぶるかのようでした。
なんとか足を動かして自室へと戻ります。部屋に用意してあった強い酒を一気にあおり、布団の上に転がってもまだ、波の音は身の内を荒らしておりました。
怒り。
憤り。
愛しさ。
羨望。
そうしてこれは――。
「……そうか。おめえも俺から逃げだしたいか」
思わず声に出すと思わずくっと苦い笑みが零れます。
――どうして生きてるの。
それと同時に忘れていたはずの声が脳裏によみがえりました。
――お前さえ生きていなければ、私は、私は――
時貞はそれを振り払うかのように舌打ちをします。
今宵は、よい夢など到底見れそうにありませんでした。
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