へびの夫婦

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紅い傘


 ついに空からぱらぱらと冷たいものが落ちてきて、その子供は手にしたものをにぎりしめました。子供の持つ緑色の茎はするりと上に伸びてはその葉を広げ、ほっかむりをした子供の頭上をかろうじて冷たい雨から守ろうとしておりました。

 とうとう雨が降ってきてしまった。

 子供は眉を下げて天を仰ぎます。曇天の空は重く垂れこみ、その下端の方から冷たく凝った滴を地上にむかって落としはじめておりました。
 子供は背にした籠の中身を肩越しに見てさらに眉を下げました。その籠にはいかにも貧弱な茸がふたつと野草が一つ入っておりました。あとは火を起こすための薪ばかり。早朝、陽の昇る前から家を出てきたのに、夕暮れのこのときになってもそれだけしか成果はありませんでした。
 もっと滋養のあるものが採れたらよかったのに。子供はそう思いながら悲しげに赤い瞳を伏せました。山に捨てられていた子供を拾って養ってくれている老爺はこのところ続く雨に肺をやられて臥せっておりました。ごほごほと苦しげに発せられる咳は長く治らず、とはいえ貧困ゆえ満足な食糧を与えることもできず、老爺は日に日に衰弱していっておりました。
 今にも傾きそうな家の裏には小さな畑を作っておりますが、この長雨に根から腐ってしまいました。昨年からためておいた種も、このままでは蒔いても雨に流されてしまいます。子供はすでに履物としての機能を果たしていない草履をひきずりながらとぼとぼと山を下り、町へと延びる細い道にさしかかります。親から捨てられた原因である赤い目を皿のようにして探してもこれ以上山の恵みは得られませんでした。胸にいっぱいに溜まる重苦しい不安感は息苦しいほどでしたが、今は泣いているときではないこともわかっておりました。
 山を下りる時に見た空があまりにも灰色で重たげな雲に覆われていたので、子供は湿地に生えていた大きな蓮の葉をひとつちぎってきておりました。子供の家には昔から傘を買う金銭などありませんでしたから、いつもこうして蓮の葉を傘の代わりにしていたのです。

 とはいえ蓮の葉は子供の身体を守るために生まれたものではありません。ですから傘としての役割は十分ではありませんでした。雨が強くなると茎のついていないほうは水の重さに負けて垂れ下がり、着物をぐっしょりと濡れさせてしまうのです。
 それは白い髪に赤い瞳の蛇骨族の幼子にとってはなかなかに困ることでした。水にぬれて身体が冷えてしまうと簡単に風邪をひいてしまうのです。子供はどうやら生まれつきほかの蛇骨族より身体が弱いようでした。老爺が拾ったときにも赤い顔をしてぐったりしていたそうですから、もしかしたらそれも親に捨てられてしまった一因だったのかもしれません。
 老爺が弱っている今、子供は絶対に風邪をひくことはできませんでした。自分が寝付いてしまったら老爺を看るものがいなくなってしまうし、なによりその風邪が老爺にうつってしまったら、ただでさえ弱っている老爺をさらに苦しめることになってしまうことはわかっておりました。

 子供はかかげた葉をたたく雨音をききながら、ほんの少しだけ足をとめました。雨音は次第に強くなっております。葉を滑り落ちた水滴が着古してぼろぼろの着物の端を濡らし、むき出しの足を冷やしました。このまま家に帰るべきか、それともどこかの大木で雨宿りするべきか、ほんの少し迷ったのです。
 しかし子供はすぐに歩き出しました。脳裏には家で臥せっている老爺のことだけがありました。雨が降ると川のわきにある半壊したような家は一気に冷え込みます。それは肺を患った老爺にとってなによりも堪えることでした。この雲模様では雨はそうそうやみそうもありませんでした。雨宿りをしても意味がないかもしれない。それより、早く家に帰って湯を沸かして部屋をあたためたほうがよい。子供はそう思い、蓮の葉だけをたよりに前に向かって進み始めました。

 しかし、雨は次第に強くなっていきました。風こそはありませんが、ざあざあと激しく落ちてくる雨粒はひとつひとつが重く、蓮の葉を揺らせて落ちてゆきます。もうすでに子供の着物の半分はぐっしょりと濡れそぼっておりました。むき出しの足も襤褸草履も泥だらけになり、もとの肌の色がわからないほど汚れきっておりました。
 蓮の葉はもうほとんど役に立たず、子供の顔を濡らしてゆきます。白い髪を隠すために巻いたほっかむりも雨に濡れて重いほどでした。縋るように握っていた蓮の茎からかたほうの手を離し、目をこすりました。さきほどから雨粒が目に入ってきて視界が悪かったのです。 
 すると開けた視界のすみに、なにやら赤いものがうつりこみました。ざあざあと振り続ける雨はもはや白い霧をも生み出してあたりを覆い隠しておりましたが、その鮮やかな赤いものはふらふらとしながら子供の行く先から近づいてきているようでした。

 やがてそれが赤い番傘を持った男だということに気づきました。華美な文様に彩られた赤い番傘に隠れて顔は見えませんでしたが、それは子供よりずいぶん大きな男の人のようでした。肩や腕に巻き付かせているながくて大きな紫紺色の蛇の尾は雨水をはじいてしっとりと艶やかなきれいな色をしておりました。それは遠目でも高価な着物を羽織った、立派な体躯のひとりの蛇骨族の若い男でした。
 子供はそこまで気づいて、目をこすりおえた体勢のままぴくりとも動けなくなっておりました。近づいてくるそのひとの放つそのあまりの強い「気配」に、無意識のうちに反応した本能が怯えてしまっていたのです。
 すくむ子供とは対称的に、赤い番傘の男はみるみるうちに近づいてきておりました。赤い色が白く霞んだ視界の中、次第に大きくなってきます。道は一本なのだから、その男から遠ざかるためには来た道を戻るしかないのですが、それさえも子供の身体は許してくれませんでした。自分よりはるかに強い動物を前にした小動物のように、ただただ足がすくんでいたのでした。心の臓はどくどくと脈打ち、茎を握った指はふるふると震えました。
 怖い、と本能が告げてきます。けれども同じ蛇骨族ならばいきなり殺されたり食われたりということはないはずでした。白い髪に赤い目を気味悪がって小突かれたり無視されたりすることは頻繁にありましたが、殺されそうになることは今までなかったのです。
 だから大丈夫、大丈夫。そう唱えながら近くまで来ている赤い番傘をみつめていると、ふいにその番傘が動き、それを手にした男の顔があらわになりました。

―……かみさま?

 その瞬間、なぜだかそんな言葉が子供の脳裏に浮かんできました。それは胸の内にもすとんと落ちかかってきて、ふいに子供の胸は痛いぐらいに締め付けられました。
 あらわれた男の顔が吃驚するくらいに綺麗だったからというわけではありません。それは子供が今まで見たことがないくらいの恐ろしいほどの美貌をもっておりましたが、それが理由ではないことは子供自身がいちばんよく知っておりました。

 無造作に歩いていた男はそこでようやく子供の存在に気が付いたようでした。黒曜のようにうつくしい色をした切れ長の瞳が子供を見て、そうしてかすかに愉快そうに細められました。

「へえ、面白いもん持ってんじゃねえか」

 その男の声は低いのによく通りました。雨音さえも男の声をさっと避けたかのような、それは不思議な声音でした。
そうして男は傲慢とも思える口調でこう言いました。

「よこしな」

 次いで当然のように差し出された手を子供はぽかんと見やりました。すくんでしまった身体も頭も動くことができず、ただ男の白くて長い指を見ることしかできませんでした。
 男は気にした風もなく、子供の握っている蓮の茎を手にしました。そうしてそれを「当たり前のように」するりと子供の手から奪い取ると、再び愉快そうな声をあげます。

「坊主はこれを傘代わりにしているのかい。あんまり役には立たなそうだが」

 降り続く雨の中、子供は濡れ鼠になりながら、目の前で蓮の葉をくるくると回す男をぼうっと見上げ続けておりました。蛇の尾にまけないくらい艶やかで美しい紫紺の髪をした男は、やはり今まで会ったなかでも飛び抜けて強くてすくむような何かを持っておりました。
 そう、まるでかみさまのようでした。子供が日ごろ思い浮かべている、誰よりも何よりも強くてきれいで尊い存在であるかみさまのような。

 紫紺の髪の男は番傘を片手に持ち、もう片方の手でひとしきり蓮の葉を眺めたりすかしたりしておりました。ざあざあと雨の降り続く中、それを掲げてはじく水のしずくに瞳を細めてさえおりました。ひどく機嫌が良いようでしたが、しばらくするとやがて飽きたのかそれをいきなりぽいと道端に捨ててしまいました。あまりのことに子供は思わず目を丸くしましたが、やはりなにも言うことはできませんでした。

「――うん? 」

 そうしてさっさと歩き出そうとした男でしたが、そこでようやく子供の存在を思い出したようでした。紫紺の髪の男がほんとうに不思議そうに声を上げました。

「なんだ、まだ居たのか」

 このかみさまのようにあまりに強すぎてあまりに綺麗な存在にとっては、子供の存在など路傍の石でしかないに違いがありませんでした。だから子供はやはり何も言えず、ただ身をすくませて男を見上げ続けるしかありませんでした。
 すると男はゆっくりとひとつ瞬きました。そうしてきまぐれのようにかるく微笑みました。

「ああそうか。あの蓮は坊主のもんだったな。――ではかわりにこれをやろう」

 そういうと紫紺の髪の男は、自らの耳につけていた赤い石の飾りをむしりとりました。乱雑な動作だったせいか白い耳の端が千切れ、赤いものがぽたりと零れます。
 しかし男にとってはそんなこと気にもならないことのようでした。薄い笑みを浮かべたまま、それを子供の手に握らせます。子供の手は変わらずにふるふる震えておりましたが、やはり男に気にした様子はありませんでした。

「どうせさきほどの女に押し付けられたものだ。何故女というもんは自分と同じものを男につけさせたがるんだろうな。坊主も女には気を付けるんだぞ」

 そんなことを言いながらさらに自らの番傘をも押し付けます。子供の目の前で雨にさらされた男の顔はやはりうつくしく、なによりも強いものに見えました。白い耳たぶからは赤いものがにじんでおりましたが、それさえも男の美しさをひきたてるかのようでした。
 男は降り続く雨になんの感慨も見せませんでした。そうして用が済んだとばかりに子供からあっさり視線を外すと、立ちすくんだままの子供の傍らをすり抜けてさっさと行ってしまいました。
 押し付けられた番傘がぽろりと滑り落ち、ぬかるんだ地面の上に落ちました。蓮の葉のうえより軽やかな雨音をひびかせるそれを背に子供はきしきしと振り返りましたが、その稀有な姿はもうすでにその雨の向こうに消えてしまっておりました。





 子供にとってそのことはとても大きな出来事でした。
 たとえのちに再会したその男が何も覚えていなくても、それはとても大きな出来事だったのです。




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「昔からおやさしいかただったの」

 紫は番傘に落ちる雨音に紛れそうな声でそう言いました。
 ちいさな膝の上の赤蛇と青蛇は顔を見合わせます。ほんとうかなあ、と思ったのでした。
 紫の手にした番傘はそのときのものではありません。傘を持たないのに雨の中で蛇塚の前に居座る紫をみかね、総麻呂が家からもってきたものでした。
 赤坊と青坊が紫と出会った時にはすでに、赤い番傘と赤い宝石は老爺の薬代と食べ物にすべて消えておりました。だから二匹はそれを目にしたことがないのです。だから思ったのです。ほんとうかなあ、と。

「ほんとうだよ」

 けれど紫は嬉しそうに繰り返します。
 そうして瞳を閉じて蛇塚に背を預け、傘の上におちるぱらぱらと落ちる心地よい雨音に嬉しそうに耳を澄ますのでした。









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