燕舞う空

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燕舞う空



「ああ、腰が痛えなあ……」

ふいに腰を伸ばし、ううんと背伸びをしながら総麻呂が言いました。その頭上の空は晴れ渡り、気持ちの良い風の中を燕がすいと通り抜けて行きます。
 水汲みをする総麻呂にくっついて小川に来ていた赤坊は、人間の男の顔をあおいで目を丸くしました。珍しく一緒についてきた青坊は、隣で尾の先を水に浸したままじっとしております。

「腰が痛え? 人間ってのは不便だなあ」
「ああ、お前さんたちには腰ってえのがないものな。うらやましいもんだ」

総麻呂はそう言いながら、再び手にした樽に桶で小川の水をくみ始めました。その脇で赤坊はえへんと鼻を鳴らします。

「そうだろそうだろ。蛇ってのはこの世の中で一番生きやすいかたちをしているんだぜい。その点人間は暮らしにくいよなあ」
「そうだなあ」
「えへん」

総麻呂は話しながらも桶になみなみに注がれた水をざばりと大きな樽に流し込みます。桶を持った両手はあちこち傷だらけではありますが、よく陽に焼けてそれはそれはがっちりとしたものでした。
それを横目で眺めていたのは青坊でした。
そうしてえへんえへんと得意げな顔をしている赤坊の隣でふいにつぶやきました。

「……おれは人間の姿になりたい」
「えっ」

驚いたのは赤坊です。赤坊は蛇であることが大好きでしたから、心の底から驚いてみずからの双子の蛇をみやりました。

「なんでだよ、青坊」

ちょっぴり怒りながら赤坊が言うと、青坊はその月のような金色の瞳をほんのすこしだけ伏せるようにしました。水にひたしている尾も垂れ下がります。

「……両の手と十本の指と両足が欲しい。だって、それがあれば総麻呂のように紫さまの手伝いができるんだぞ」

名をあげられた総麻呂はその眠たげな瞼の下にある隻眼をぽかんとさせました。その拍子に手にした桶から水が零れて黄土色の着物の裾を濡らします。

「おいおい、青坊。おまえそんなこと考えてたの。出会ったときはあんなにちびっこい赤ちゃん蛇だったのに……えらいなあ」
「馬鹿にするな。もうそれくらい考えられる」

青坊はむっつりとして総麻呂に答えました。
その隣に居るちっとも「考えていなかった」赤坊はびっくりしましたが、根が素直な赤坊のこと、たしかに青坊の言うとおりかもしれないと思いました。
だって、今目の前で総麻呂が樽を小川の傍に持ってきて水汲みをしているのも、小川で桶に水をためて小屋の中にある樽に水をちまちまと入れていた紫を見かねてのことなのですから。
自分と違って青坊は真面目な性格です。だから今までずっと考えていたのでしょう。それはその押し殺したような口調からもわかりました。

「……水を汲む手伝いも、火を起こす手伝いも、食料を溜める手伝いもなにもできない。木を拾ってくることも見つけたきのこを運んでくることもできない。おれの蛇の身体はおれが生きるためだけのもので、だれかのためになることはしない」
「ふつうの生き物はそうだろう。誰かの世話にならないけれど誰かの世話もしない、生まれながらにきちんと一匹で生きていける。それって凄いことなんだと俺は思うがねえ」

総麻呂が濡れた着物の裾をその両の手で絞りながらどこかのんきそうに言いました。青坊はその手をじいっと眺めます。やはりその瞳は悲しそうにも見えました。

「……そりゃあそうさ。だけど俺はもう紫さまに多大な恩がある。死にそうなときに助けてもらって、ひもじいときには食べ物をくれた。寒くなって眠たくなったら自分も寒いのに懐に入れてあたためてくれた。してもらってばかりで与えてもらったばかりで、与えられないのはなんだか辛いんだ」
「……お、おれも! 」

それを聞いて赤坊が慌てたようにぴょんと飛び跳ねました。
今まで考えたこともなかったことです。たしかに紫にくっついていれば毎日が楽しいし幸せで、それが「あたりまえ」だと思っていましたが。
けれども大好きな紫のために何かできるのならそれはとてもとても、もっともっと嬉しいことのように思えたのでした。

総麻呂のいつも眠たげにしている隻眼が二匹に向けられます。やがてそれは、やれやれと言わんばかりのため息交じりの笑いをくしゃりと浮かべました。

「いつのまにやらおまえらも立派になったもんなあ。なんかおっさん泣いちゃいそうだわ」
「え。なんでだよ」
「だってよ、あんなにちびっこくてきゅうきゅう鳴いて嬢ちゃんに甘えてばかりだったおまえらが……」
「あ、赤坊はいまでも甘えただが、最近俺はそんなことはしていない」
「なんだと。青坊だって甘えているだろ」

出会ったころよりずいぶん大きくなった蛇たちの言い合いを総麻呂はなにやら嬉しそうにながめておりましたが、やがて桶を置き、その場にどっこいしょと座りました。
そうしてさらりと口を開きました。

「ああでもよかった。正直心配だったんだよ。俺が居なくなったあとのことがなあ」

その言葉を聞いて赤坊と青坊は顔を見合わせました。

この総麻呂という男、蛇塚ができて以降この地にとどまり続けている紫の生活の手助けをしてくれているという奇特な人間なのでした。
時折都からぶらりとやってきては、食べ物やら生活用具やらを持ってきたり、教えてくれたりしてくれていたのです。紫や赤坊、青坊とはもう数年ものつきあいになるのです。総麻呂の持ってきてくれる酒や食べ物はとてもおいしくて、いつのまにか三匹は総麻呂が来るのを楽しみにさえしておりました。
だからでしょう。もはや「ひとがあやかしと共にいる」ということは二匹の中で「当たり前」になりつつあったのです。

だからこそ、総麻呂のその言葉には少しばかり寂しさとともに衝撃を受けました。

「え……おっさん、どっか行っちゃうのかよ。なんでだよ」

思わずこぼれ出た赤坊の言葉に、総麻呂はこれまたあっさりと答えました。

「いや、俺が死んじまったあとのことだよ。俺は人間だぞ。おまえらや嬢ちゃんよりはるかに早くくたばっちまう」

 その言葉に、赤坊と青坊はぽかんとしました。
 しかしすぐに思い至りました。

 寿命のちがい。

「嬢ちゃんはあんなんだからなあ、正直心配だったんだ。下手をすれば自分の身体のことなんて考えずに旦那さんを守ろうとするだろ。ほら、小屋だってそうだ。俺が建てるまでぼろぼろの姿で野宿をしてたろう。だけどおまえらみたいなのが傍に居るならおれもちったあ安心できるってもんだ」

 総麻呂の隻眼はいつのまにやら真剣な色を宿しておりました。
 それはこれまでの子蛇たちを見る目ではありませんでした。

「……心配しなくても紫さまは俺たちが守る。あんたなんかにそんなこと言われる筋合いはないよ」

 青坊がそういうと、総麻呂はふっと目じりをやわらかくしました。

「まあ、そりゃそうだ」

 そうしていつもの呑気そうな顔で笑いました。

「まあ心配しなくてもそのうち人型には化けれるだろうよ。必要なら、たぶんな。まあそれまで俺を観察していたらいい。指がどうついているのか、足がどうなっているのか、頭の中で想像することからはじめりゃあいいんじゃないか」



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 手は二本、足も二本。
 指がどうついているのか。
 足がどうなっているのか。




 赤坊はふいに自分の両足をみつめました。
 ふくらはぎの中ほどまで川の水にひたされた両足は白くすらりと伸び、その間を狙っていた魚がついとすり抜けていくのが見えました。
 思わず笑い声が洩れます。

「ああ、おっさんのような毛むくじゃらな脛にならねえで良かった」
「え……赤にいちゃん、なにか言った? 」

 川のほとり、小さな石に座っていたあやかしの小娘が赤坊の声にきょとんとした表情を浮かべました。身体のあちこちに鈴をつけている可憐な少女です。紡ぎ出す声は鈴のように澄んだもので、これはこの少女の正体を表しておりました。

 蛇神である蛇五衛門を結界で封じた偉大なる陰陽師。それが都のひとびとの中での総麻呂の印象でした。そうしてその結界で都を守ってくれている、ひとびとは皆そう思っておりました。

 だから総麻呂が大往生で眠りについたあと、ひとびとは恐れました。
結界のあるじが死んでしまった。だとすればその効力は薄れてしまうのではないか。

 いつ蛇塚が破られて邪悪な蛇神が出てきてしまうのか。

 その実、蛇五衛門が封じられた結界には何の変化もありませんでしたが、ひとびとにはわかりません。
 そこで都のひとびとは蛇の森の近くに小さな神社を建てました。そうしてかつて大神の気を静めたと言われる由緒ある鈴のひとつを祭りました。ひとびとは祈り、やがてその思いを受けてひとつのあやかしが誕生しました。

 それがこの鈴の付喪神、鈴彦姫なのです。


「いやなんでもねえや。というか鈴音」
「うん」

 赤坊は腰を伸ばし、そうして自らが鈴音と名前を付けたこの幼い付喪神をみやりました。

「おまえなんでここに居るんだよ」

 そういうと鈴音は顔を真っ赤にしました。そうして出された声は鈴のようにうつくしいものでありましたが、あまりに小さくふるふると震えておりました。

「だ、だって赤にいちゃんが川に来るって言ってたから、会えるかなあって……」
「なんだよ。おまえも魚が食いたいのか。いじましいなあ」
「そ、そうじゃなくて……」

 もごもごと何かを言い淀む鈴音は今にも泣きそうです。
 赤坊はちょっとだけひるみました。しかしいくつになっても根が単純なので、すぐに心からにっこり笑いました。

「まあいいや。今の俺にはちゃあんと二本の手と十本の指と両足があるんだからな。おれと姐さんと青坊、それにおまえのぶんぐらいは魚を獲ってやるよ。おっさんには負けねえぞ」
「おっさん……? 」

 赤坊は空を見上げます。
 晴れ渡った青の中を、燕がついと通りぬけて行きました。


「おまえが生まれる前からの、ともだちのこと! 」







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