さて、そのサトリらしき子供が意識を取り戻したのは、もうあたりもとっぷりと夜の闇に包まれた頃合いでした。
ぼうっと目を開けた子供に気づいたのは、ずっとそのそばで見張りをしていた青坊と赤坊でした。二匹の姿は今もひとの姿のままです。紫という蛇骨族を大切に思っている二匹は、いくら相手が子供と言えども気を抜くことなどしなかったのでした。
「紫さま、サトリが目を覚ましたようですよ」
警戒を解かないままの青坊のぴりりとした声に、鍋をかき回していた紫は弾かれたようにその赤い瞳を上げました。
そうして頭を抑えながら身を起こす子供をみて、慌てたようにそのそばに駆け寄ります。
「ああ、急に動いちゃだめだよ。頭にすごいたんこぶができているんだから」
「……」
子供は答えませんでした。
むっつりとした無愛想な顔を紫に向け、そうして傍の青坊と赤坊に視線をうつします。
するとそこで少しだけ怯えたように肩をすくませました。おそらくは二匹の心の中を読んだのでしょう。それもそのはず。あるじに忠実な二匹は、子供が紫に何か妙なことをしようとすれば、すぐさま子供を始末してしまうつもりだったのですから。
「吐き気やめまいはないかい? 」
子供は紫の問いに、子供はその深い深い闇色の瞳を向けました。それはとても深くて、まるで心をそのまま覗き込まれているようでした。
子供はじいっと紫を見たあと、やがてこくりと頷きました。ついでに腹の虫もぐうと音をたてました。
「おなかがすいてるんだね」
紫はぱっと嬉しそうにすると、鍋のもとに戻ります。そうして湯気の立つ木の椀と竹で作った箸を持ってくると、子供にそれを押し付けました。
「雑炊だよ。お食べ」
しかし子供は受け取りませんでした。また、その闇色の瞳を紫に向けてじいっとしております。
それにしびれを切らしたのは気の短い赤坊でした。
「ああもう、食わねえなら俺がかわりに食っちまうぞ」
すると子供はちょっと慌てたように、椀に手を伸ばしました。あたたかな湯気と、食欲をそそる良い匂いが立ち込めます。
はじめはおずおずと、しかし次第にかきこむようにそれを食していく子供を見て、赤坊は呆れたふうの声を出しました。
「よっぽど腹が減ってたんだなあ、お前。すげえ痩せてるし、無茶苦茶汚いし、どっから来たんだよ」
赤坊の言うとおり、子供の風体はひどいものでした。ぼろぼろの着物は元の色がわからないくらい垢じみておりますし、そこから覗く手足も肉などついていないかのように痩せ細ったものでした。
しかし黒い髪に黒い瞳という、ほとんど人間に見える風体をしております。とはいえ黒い瞳だけはすこしばかり奇妙な深みを帯びておりましたが。
当の子供はやはり赤坊の質問には答えませんでした。今回は視線もよこさず、ただただ必死に雑炊を口にかきこんでおります。いったい幾日食べていなかったのでしょう。
「こんなにちいさいのに……」
子供の前にちんまりと座った紫がぽつんとつぶやきます。
青坊は痛ましそうに子供を見守っている紫を見てちょっとため息をつきました。
なぜなら彼は、このちいさなあるじの世話焼きの性分をよおくわかっていたからです。
「おまえは本当にサトリなの? 」
あのあと雑炊を三杯も平らげた子供に向かって湯冷ましを渡しながら、紫は尋ねました。
「まるきり人間に見えるけど」
すると子供は険のある目つきを紫に向けました。
「……あんただって全然蛇骨族っぽくないじゃないか」
「……」
「質問に質問で返すんじゃない」
気にしていることを言われてしょんぼりしてしまったあるじを見て、青坊が静かに口を開きました。
「お前は紫さまの温情にもっと感謝するべきだ。……俺はお前がどこで野垂れ死のうと心底どうでもいいんだからな」
「……わ、わかった」
子供は青坊を見て、何故だか少しだけぶるりと震えました。しかしすぐにしゃんと背筋を伸ばして紫を見ました。
「用事が終わればちゃんと出ていくよ。おれ、蛇五衛門さまにお願いしたいことがあるんだ。蛇五衛門さまはここに居るんだろう? 」
「……と、時貞さま……? 」
紫がはっと息を飲みました。
そんな紫をその深い闇色の瞳で見ていた子供も、ついでその深い闇色の瞳を丸くします。
「……え。塚、封印、眠り……? あの塚って蛇五衛門さまのものだったのか? 」
心を読んだのでしょう。
そうしてつぶやかれた声は、呆然とした色を帯びておりました。
「そんな……」
「……ごめんね」
「じゃあおれはどうすればいいんだよ……」
そういって子供はその細い首を俯けました。
紫という蛇骨族はもともと情の深い性質でありましたから、目の前で憔悴している痩せた子供のことが哀れで哀れでなりませんでした。だからそっと近づいてその前に膝をつき、その油じみた髪をやさしく撫でました。
「ねえ、お前はどうして時貞様にお会いしようと思ったの? わたしにできることがあるならやってあげるから、言ってみて」
その言葉に青坊がこっそりとため息を吐きます。
しかしその兄弟蛇である赤坊は、紫の言葉にうんうんと頷きました。
「そうだぞ。できることなら考えてやっから、とりあえず話してみろよ。話すのはただだろう」
赤蛇と青蛇。
この二匹は姿はそっくりなのですが、その性質はまったく異なるのでした。
子供は俯いたまましばらくじっとしておりましたが、やがてその闇色の瞳を三匹に向けました。
「……帝を殺してもらおうと思ったんだ」
「帝? 帝って、人間たちのてっぺんに居るやつか? 」
赤坊の言葉に子供はこくりと頷きます。
「帝と、そのまわりの人間たちをすべて根絶やしにしてほしいんだ。ううん……人間をすべて殺してほしいんだ」
これは面倒な子供だぞと、赤蛇と青蛇はお互いの顔を見合わせました。
しかし彼らの小さな主人はしずかな表情でさらに問いかけます。
「……どうして? 」
「……」
「……」
「……」
「……あのね、人間にもいいのが居るよ。この雑炊の米もね、その茶葉もね、そのひとに貰ったの」
「…………」
「……人間がどうして嫌いなの? ぜんぶ殺してしまいたいの? 」
「……でないとおれが生きていけないからだよっっ! 」
子供立ち上がり、急に大きな声を上げました。
それと同時にその両の目からぼろぼろと涙が零れてます。
「わかってるよ。あんた達には帝や人間を殺すなんてできないんだろ。わかってるよ。心を読めるんだからそんなことわかってるよ。だけどじゃあおれはもう生きていけない。あいつらに掴まって、利用されるぐらいなら死んだほうがましなんだ」
ずうっと我慢していたものが一気に溢れたのでしょう。子供は顔をくしゃくしゃにして、泣きじゃくりながら叫び続けました。
「おれだって好きでひとの心が読めるんじゃない。こんなのいらなかった。死んじまった母さんだって、俺のせいでひとつの村にずっと居れずに困ってた。ひとの心が読めたっていいことなんてなにひとつなかった」
「……そうかお前、半妖なのか」
青坊がかすかに驚いたような声を上げました。
それに赤坊が目を瞠ります。
「はんよう? 青坊、なんだよそれ」
「親の片方があやかし、片方が人間。そうして生まれた子が半妖と呼ばれるらしい。となるとお前の父親がサトリか。もう死んだのか? 」
子供はくしゃくしゃになった顔のままこくりと頷きました。
ひっく、とひとつしゃくりあげます。
「……母さんが死ぬまえに言ってたんだ。その力のことがばれてしまってはおまえはひとの村で行けていけないって。だからその前に村を出なさいって。だけどおれ、ひとりで生きていくのが怖くて村から出れなかった。そうしたら力のことがばれて、村長にいろいろ、やらされた……。平和だった村なのに、おれのせいでたくさん人が死んだよ。そうしたらその家族からも恨まれて……。けどこのあいだ都からのお役人にもばれて、帝のところに行かされることになって……」
「それで逃げてきたのか」
「都って村より大きなところだろう。帝って村長より恐ろしい人間なんだろう。おれ、もう嫌なんだよ……」
「……」
とても弱いが故に群れていないと生きていくことのできない人間にとって、このサトリの血を引く子供は実に使い勝手の良い道具だったのです。
人間の、なんとまあおろかなことなのでしょう。
残酷なことなのでしょう。
「……それはとてもつらかったねえ」
子供のすすり泣きだけが響く中、ふいに静かな声がぽつんと落とされました。
二匹の大蛇が目を向けると、彼らのちいさなあるじが小汚い子供の手をぎゅうと握りしめておりました。
そうしてびっくりしたように固まっている子供に、紫はかすかに震える声でこう言いました。
「つらかったねえ……。でももう平気だよ。この森にいればいい。わたしは蛇塚を守らなければならないからこの森からはでられないけれど、森に居る限りおまえのことも守ってあげるから」
その言葉に二匹の大蛇は顔を見合わせます。
そうして、青蛇はやれやれというように軽く肩をすくめました。
赤蛇は右手を挙げ、その赤い髪をがりがりとかきました。
そうして一拍おいて、二匹ははそれぞれの顔にそれぞれの苦笑を浮かべるのでした。
それからサトリの子供は蛇の森に住むことになりました。
汚い臭い可愛くないなどといいながら赤坊が川に連れて行って身ぎれいにし、紫の冬物の衣を仕立てのして着せると、本当に普通の人間のこどものようになりました。
最初は本当にびくびくと警戒ばかりしていた子供でしたが、七日目にもなると無愛想ながらも、次第にこの生活に慣れてきたようでした。
なんせ心を読むことのできる子供です。
あのときの紫の言葉に裏がないことなんて知っておりましたから、紫と、そして根が単純な赤坊には少しばかり心を許してきておりました。
「紫さんって馬鹿なんじゃないかな」
「なんだと」
言うや否や、ごちんと拳骨を落とされて、子供はその場に蹲りました。
赤坊は鼻を鳴らします。そうして割っていた薪をぽいと放り出して、子供を睨みつけました。
「姐さんが馬鹿なわけねえだろう。馬鹿といったほうが馬鹿なんだ。よってお前が馬鹿。一番馬鹿」
「……だって、おれみたいな厄介者をわざわざ匿ってくれるなんて馬鹿じゃないか」
子供は今日もひとの姿の赤い髪の青年に向かって、無愛想に続けました。
「それに蛇五衛門さまを守るって言ってるけど、当の蛇五衛門さまには邪険にされてたようだし……。なんでもかんでも抱え込んでたら紫さんの方が壊れるんじゃないかな」
ひどく大人びたことを言う子供に、赤坊はその金色の瞳を瞬かせました。
しかしすぐにふんと笑います。
「姐さんはそれでいいんだよ。それに、そうならないために俺らが居るんだ」
それはやけにきっぱりと強い言葉でした。真実、二匹の大蛇たちはそう思っているのでしょう。そうして、それが真実でもあるのでしょう。
子供は赤坊を見上げ、そうしてぽつりとつぶやきました。
「いいなあ、三匹は」
「なんだよ。今はお前もその一匹だろう」
さらりと言われた言葉に子供は驚いたようでした。
しかし言った方はなんでもないことのように中断しかかっていた薪割りを再開しておりました。
この赤坊という赤蛇、よくいえば豪胆、悪く言えば本当に単純な性格をしております。だから七日も一緒に寝起きを共にすれば、この厄介な子供にもそれなりに情というものが湧いてきているのでした。
無愛想な子供は赤坊のようすにかすかに嬉しそうにしましたが、すぐに表情をこわばらせて俯きました。
「けれど、たぶんもう無理だろうなあ……」
ぽつんとつぶやかれたそれに、赤坊はどうしたと問おうとしました。
しかしすぐに後方に視線をうつします。ついで子供も同じ方向を見てさらに身体をこわばらせました。
ふたりの見つめる視線の先。
その茂みががさがさと音をたてました。
「よお赤坊、久しぶりだな」
その緊張した空気を破ったのは、その茂みから出てきた当人でした。
いかにも呑気そうに片手をあげ、大様に歩いてきます。
ぼさぼさの黒髪に、いかにも気だるそうな隻眼のその男にはもちろん見覚えがありました。
赤坊は息を吐き、すぐに破顔します。
そうしてからりとした口調でこう言いました。
「なんだよ、総麻呂のおっさんじゃねえか」