その世界の東の果てにはひとつの小さな国がありました。
そうして、その地の西には大きな都がひとつありました。
百年ほど前に人間が開いた大きな都です。今ではその地に眠っていた豊かな鉱物や肥沃な土地により、それは日に日に大きくなっておりました。
しかしそんな大きな都のすぐそばには不気味なひとつの森が、人の手を付けられることなくのっそりと残っておりました。
なんでも稀代の陰陽師といわれている先代がわざわざ「あの地には手を出してはならない」との遺言を残したという、へびのあやかしの森でありました。
「あそこには恐ろしい蛇の神様が眠ってるんだ。決して決して、手を出すんじゃねえぞ」
時にあやかしを退治し、時にはそれを使役する陰陽師たちにとって、あやかしは恐怖の対象といえども対等に渡り合える相手です。
しかし神ともなれば話は違いました。森羅万象を司る神々の前には、人間など赤子よりもか弱いということをよおくわかっていたのです。
だから「へびの森」は恐れとともに、そこにそっと在りつづけておりました。
しかし行ってはいけないと言われれば言われるほど、行きたくなる輩というのはどこにでもいるものです。
その代表格が「こどもたち」でした。一度も怖い目にあったことのないこどもほど無謀なものはありません。
だから親たちは、いつかしら流れていた噂話をより恐ろしくしてこどもたちに聞かせておりました。
「蛇の森には行ってはいけないよ。蛇骨婆という怖い怖いあやかしに食われてしまうからね」
さてこれは、その怖い怖い「蛇骨婆」と出会った、ひとつの存在のおはなしです。
『東海への憧憬:前篇』
「姐さん姐さん、そこの茂みに何かが隠れてますよ」
いきなりの赤坊のことばに、蛇塚にもたれてうたた寝をしていた紫はきょとんとしました。
紫の頭の上にその顎を乗せていた赤い大蛇は、いつのまにやらその鎌首をもたげてじいっと前方の茂みを睨んでおります。
「なんだろう。また人間のこどもかな」
「……小さいのは確かなようですけど、なんだか嫌な気配がしますね」
紫の言葉に答えたのは青坊でした。
紫を守るようにその身体を前にだし、そうして低く威嚇の音を出します。
「青坊、むやみに噛みついては駄目だよ。お前の毒は強いから、人間の子供だったらひと噛みで死んでしまう」
「姐さん姐さん、俺の毒だって強いですぜ」
「うん、そうだね。だからふたりとも噛みついては駄目だよ」
紫はいつまでたっても小さくて白い手を伸ばし、いつでも自分を守ってくれている赤蛇と青蛇の頭を撫でました。
そうして首にかけていた恐ろしい鬼の面を被り、脇に置いていた鍬を持って二匹が威嚇している茂みに近づきます。
びくびくしている心根を押し殺し、そうしてせいぜい恐ろしく聞こえるような声をつくって言葉をかけました。
「そこに潜んでいるもの、ここに何をしにきた」
その瞬間目の前の茂みががさりと音をたてました。
しかしそこに潜んでいるものは何も答えません。
紫は本当はものすごく臆病な性根でしたから、本当にどきどきしながらもう一度問いかけました。
「ここは蛇五衛門の塚であるぞ。それを知っての狼藉か」
今度はもっと低くていかめしい声が出せました。
それなのに、です。
茂みに潜んでいる存在はこう言葉を紡ぎました。
「お前、今ものすごく怖いと思っているだろう」
紫はびっくりして、それこそ犬の子のように尻尾を巻いて逃げだすところでした。けれどもそうしなかったのはすぐうしろに紫にとって大切な蛇塚があったからでした。この蛇塚だけは、中に入っているひとだけは自分が守らなければならないのです。
そう思っていると謎の存在はさらに声を出しました。
「蛇塚だけは、トキサダというやつだけは守らなければならないから逃げられない。そう思っているんだろう」
紫はさらにびっくりしてきゃあと声をあげるところでした。
しかしその前に、紫の左肩に居る赤坊が大きな声を出しました。
「なんなんだお前は! 今なら噛みつかねえでやるから、とっととこの森から出ていけ! 」
すると謎の存在は言いました。
「お前は今おれのことを気味が悪い奴だと思ったろう」
「お、思ってねえぞ! 」
「気味が悪いし怖い、そう思っただろう」
「ばっ……お、思ってねえって! 」
「ああ、今はなんでこいつはおれの心の中がわかるんだ、と思ったな」
赤蛇は思わず首をすくめました。
心の中を見透かされるというのは心底気味の悪いものです。その感情をも見透かしているのでしょう、謎の存在はきゃらきゃらという気味の悪い声を出して笑いました。
「怖いなら逃げるがいい。気味が悪いなら立ち去るがいい。でないとおまえたちを頭からばりばり喰ってしまうぞ」
赤蛇も、そうして紫も真っ青になってぶるりと震えてしまいました。
紫の右の肩に居る青蛇だってそうでした。しかし青蛇はほかの二匹に比べて少しばかり冷静でありましたので、ちいさなあるじの耳元でそっと声を出しました。
「紫さま、紫さま。あれはきっとサトリというあやかしです。ひとの心をすべてよんで、事柄のすべての先手を打って相手を食い殺してしまうという厄介なやつですよ。ここはいったん逃げましょう」
「で、でも蛇塚を守らなきゃ……」
紫は首を横に振りました。
弱弱しい声ですが、そこには頑ななまでの決意があることを青蛇も赤蛇も十分に知っておりましたので、二匹は顔を見合わせてほんのちょっとだけため息をつきました。この二匹にとっては蛇塚などどうでもよくて、大事なのはこのちいさなあるじだけです。しかしそのあるじにこう言われてはどうしようもないのでした。
「赤坊。こうなったらサトリにふたりで同時に飛びかかるぞ。サトリに下手な小細工は通用しない。とにかくやっつけてやろう」
「おう、まかせとけ。どのみちおれはそういうやり方のほうが得意なんだ」
そうひそひそと言葉を交わすと、二匹の大蛇は紫の身体からするりと離れました。そうしてくるりと身体を翻すようにします。するとどんな不思議でしょう。そこにはふたりの立派な若者の姿があらわれたのでした。
ひとりは赤蛇の鱗と同じような燃える炎のようなきれいな赤毛で、ひとりは青蛇の鱗と同じような澄みきった湖の水のようなきれいな青い髪の毛をしております。
若者たちはきらきらとした金色の瞳を茂みに向け、それぞれ手にした武器をかまえました。それは実に凛々しく勇敢なものでしたが、彼らのちいさな主人にとってはそうは見えなかったようです。
ふたりに守られる形になった紫はさらに顔を青くさせると、あわててこう叫んだのでした。
「あ、またひと型に変化なんかして。赤坊、青坊、危ないから私の後ろに下がっていなきゃあ駄目だよ」
二匹の化け蛇はもうりっぱな強いあやかしなのですが、紫にとってはきゅいきゅい鳴いて甘えていた子蛇のころと対して変わりなく見えるようでした。
なので、二匹の大蛇を自らの身で守ろうとしたのでしょう。
あわてて二匹の前に立ちはだかろうとぱっと駆け出したのでした。
しかし、です。
「あっ」
紫は地面からぼこりと顔を出していた木の根っこに足を取られてしまったのです。顔から地面に倒れ込むと同時に、握っていた鍬が手からすっぽ抜けました。そうしてすっぽ抜けた鍬の柄は、茂みに潜んでいたサトリの頭にすこんと命中したのでした。
「ぎゃあ」
叫び声とともに何かが倒れる音がして、それきりあたりは静かになりました。どうやら心をよめるサトリといえども、だれも予期しない突発的なできごとには弱いようでした。
「紫さま大丈夫ですか」
「うん、い、いたた……」
紫を抱きおこす青坊のわきをすり抜けて、赤坊は茂みに近寄りました。そうしてそこに倒れているサトリの襟首をひっつかまえて茂みから引きずり出しました。
そうして白昼のもとにさらされたサトリの姿を見て、三匹とも目を丸くしました。
紫がぽかんとつぶやきます。
「……これがサトリ? まるきり人間のこどもじゃないか」
三匹を怯えさせたサトリの正体。
それは、せいぜい十年ばかりしか生きていないかのような、小さな人間の子供なのでした。