東海への憧憬

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後篇



 赤坊が総麻呂に会ったのは、蛇五衛門という存在がこの地で暴れ始めて一年後のことでした。

 この地に居た蛇骨族は襲ってくる蛇神の脅威に怯えちりじりに逃げ出しましたが、人間たちはこの地のことを諦めておりませんでした。蛇神を討伐せんと軍勢を率いては挑みかかっていたのです。
 しかし相手は神。創られたとはいえ神の力は人間などにかなうものではありません。
 各地からかき集められ都から送られてくる陰陽師や兵たちは、呪いにまみれ自我を失った神を目の前に次々と屠られていきました。

 赤坊と青坊は、たったひとりでこの地にとどまり続ける白い髪の少女にひっついてその惨劇を見ておりました。
 とはいえその頃はまだまだ言葉も話せない子蛇でしたから、大事なあるじの役には立てませんでした。この荒れてしまった地では食べ物を探すことも小屋を建てることもできず、そのころには紫はすっかり痩せ細ってしまっておりました。

 けれども紫はこの地から動こうとはしませんでした。残った森にほそぼそと隠れ住み、暴れ続ける蛇神を悲しい瞳でみつめ続けておりました。どういうことなのか紫たちが近づくと蛇神の暴れ方が酷くなるので、最近では近寄ることもできなくなっていたのです。

 紫たち蛇骨族は弱いあやかしです。だから人間たちにみつかるとひどい目に合されたり殺されたりしておりました。人間につかまった蛇骨族が、蛇神をおびき寄せるための餌として使われることもありました。だから紫は人間たちに見つからぬよう、そうっと森の中に潜んでいたのです。

 そんなある日のことでした。紫が寝床としている大きな樹の洞、その近くにひとりの人間が倒れていたのです。ずいぶん大きな体躯の男でしたが、全身が血にまみれておりました。特にひどいのが頭から顔にかけての傷で、その右目はつぶれかかっておりました。

 赤坊と青坊のあるじは、瀕死のその男をほおってはおけませんでした。半泣きになりながら手当てをしている光景を赤坊は今でも忘れません。
 痛みで暴れる男のために、紫が赤坊の牙のうらにある麻痺毒を少しだけとって、痛みをやわらげる薬を作ったことも覚えております。そうしてつぶれて腐りかけていた眼球をとりださなければ、男は確実に生きてはおりませんでした。
 そうしてそれを、そのときの男は重々に理解しているようでした。


「なんだよ、総麻呂のおっさんじゃねえか」

 赤坊の言葉に、おうと鷹揚に答えたのはその時の男でした。あれから十年。黒々しかった男の髪にはちらちらと白いものが混じるようになっておりました。
 しかしその体躯はまだ衰えをみせておりません。広い背に大きな包みを背負っているのを見て、赤坊は顔を輝かせました。

「あっ。酒か? 」
「おめえはいつもそればっかりだなあ」

 総麻呂と呼ばれた男は呆れたように笑いました。呑気そうな顔の右半分は包帯に覆い隠されておりますが、それでも男の顔に悲壮なものはありませんでした。

「米に塩だ。あと少し酒と着物ももってきてやったぞ」
「やった」
「こないだ嬢ちゃん、味噌は自分でつくってみるって言ってたから持ってこなかったんだけどよ、うまくできてるか? 」
「できてるよ。醤油は難しいみてえだけどな」
「まあ醤油はなあ……」

 がりがりと頭をかいている総麻呂の隻眼が、赤坊の右足でぴたりととまりました。

「おい赤坊、なんだその子は」

 赤坊は自分の右足を見て、そうしてそこにくっついている子供の姿をみとめました。そしてああ、そうだったと思い出しました。
 子供は赤坊の身体に隠れるように総麻呂を見ております。その顔が蒼白になっているのを見て、赤坊はあわててその背中を軽く叩きました。

「おい、大丈夫だ。このおっさんは人間だけど敵じゃねえよ。だいたいお前がサトリだってことも知らねえし……」
「サトリだって? 」

 赤坊はあっと口をつぐみましたが時すでに遅し。総麻呂はあんぐりと口を開けて子供を見ましたし、当の子供はさらに顔をこわばらせました。

「おいおい、よりによってサトリかよ……こりゃ面倒な……」

 ぼそりと零された言葉に、子供は猫の子のようにぶるりと震えました。そうして次の瞬間、はじかれたように身を翻すと駆け出して行ってしまいました。赤坊もあわてて後を追います。ちいさなサトリは、今や彼にとって家族の一人なのでした。

「あ、やべえ! おっさん、あとでな! 」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




「あ、総麻呂……! 」

 蛇五衛門の塚の前に来ると、ぱっと嬉しそうな声がかけられました。総麻呂はよおと手を上げます。視線の先には蛇塚のうしろから顔を出した白髪の少女が、幼子のようなあどけない笑顔を浮かべておりました。

「久しぶりだねえ。元気だった? 」
「おうよ、嬢ちゃんはどうだ。怪我とかしてねえか? 」
「うん」

 駆け寄ってきた紫の肩には青蛇の姿もあります。紫はにこにことしておりますが、青蛇はどこか警戒するようにじいっと総麻呂を見あげておりました。出会った時からちっとも変っていないあやかしたちの姿に思わず笑みが浮かびます。

「そら、米と塩を持ってきてやったぞ。あとは酒と、少しだけど着物の生地な」
「あ、ありがとう助かる……。でもいつもこんなにもらっていいの? 」
「いいんだよ。おれが好きでやってんだ。おい青、お前ヒト型になって家に運んでくれよ。もう腰が痛くてよ」
「……はい」

 蒼色の髪の青年になった青坊が荷物をかかえて住まいである小屋へと消えていきます。まあ上手く化けれるようになったもんだ。思わずつぶやくと、傍らの紫がかすかに困ったような顔をしました。

「あの姿だと熱いものも一緒に食べれるし冬眠しなくてもいいからわたしは嬉しいけど、ときどき危ないことをするんだ。あやかしの前に飛び出したり、牙から武器を作り出して戦ったり……」
「そりゃあおまえさんを守りたいんだろうよ」
「けれど危ないよ。二匹はまだあんなに小さいのに」
「もう嬢ちゃんのほうが小さいだろうが。嬢ちゃんはあれだな、親ばかってやつだな」
「親ばか……ってなに? 」
「ああ、ええと嬢ちゃんみたいなやつのこと」

 総麻呂は少しばかりけだるそうな口調で言うと、その場にどっかと座りました。都から大荷物を背負ってきたのでさすがに疲れたのです。齢三十半ともなればさすがにあちこちにがたがきているのでした。

「総麻呂……大丈夫? お茶をいれてこようか」
「いや、今はいいや。それより嬢ちゃん、さっきサトリの子供を見たんだがよ」
「うん。いま一緒に生活をしてるよ。かわいいよ。なかなか名前を教えてくれないから、今度名前を付けようと思ってるんだ」

 嬉しそうに言われた内容に、総麻呂は苦笑をもらしました。
 この蛇骨族のあやかしはあいもかわらずお人よしなのだなと思ったのです。
 知らず顔の右半分を覆っている包帯に指をはわせます。そこにあるはずの眼球はすでにありません。あのとき、蛇神の反撃にあい瀕死となって倒れた総麻呂がきれぎれの意識の中で覚えているものは、耐え難いほどの激痛と赤い目に涙をいっぱいに溜めた痩せた女の子の姿でした。そうして、その女の子の手当てによって総麻呂は助かったのです。

 総麻呂はちらりと背後の茂みに目をやりました。しかしすぐに視線を目の前にうつすと、いつもの気だるそうな表情で口を開きました。

「そりゃあいいことだけどよ。けど嬢ちゃん、サトリってのには今、帝がご執心でなあ。おれらのところにも探索命令が出ているんだ。もしここに居るってわかったら、おまえさんたちまで危ない目にあうかもしれねえぞ」

 紫はびっくりしたように真紅の目を見開きました。

「総麻呂、あの子を捕まえるの? 」
「いや、おれはしねえよ。けどここに匿ってるのがばれるのも時間の問題ってこった。サトリの能力ってのは、お偉方にとってみれば純粋な力より使えるもんらしいからな」

 紫は総麻呂のいわんとすることがわかったようでした。ちょっと困ったように首を傾けている様はほんとうの子供のようにも見えました。

「でもあの子、ほおっておけないよ」
「……そうか」
「うん」

 無口な紫はそれだけを言ってちいさく微笑みました。
 その選択が応か否なのかはわかりません。
 ただ、それが紫にとってのすべての答えなのでした。





 総麻呂は一日だけ泊まって帰って行き、それから三日が過ぎました。総麻呂はもうサトリの子供のことをとやかく言うことはなく、紫はほっと息をついておりました。
 それでもなんだかサトリの子は元気がありませんでした。それを心配した紫が、子供のためにたくさんのおにぎりを作ってあげると、ようやく顔を綻ばせました。

「ありがとう、紫さん」
「いいんだよ。あのね、これは梅干しが入っているんだよ。わたしがつけたの。真っ赤できれいでしょう。おいしいからたくさんお食べ」
「……うん。うん。ありがとう、紫さん」



 その日の夜、ひとつの影が蛇たちの住む小屋を抜け出しました。その影は小柄なひとつの影でした。それは一度だけ小屋を振り返ると深々とお辞儀をし、そうして再び走り出そうとしました。

「おい。どこに行くつもりだ、サトリ」

 ふいにかけられた声にサトリの子供はびくりとしました。声のしたほうに顔を向けると、高い木の上に青い髪の青年が立っているのが見えました。月の光のなか、冴え冴えとするような冷たい表情を浮かべております。
 手には彼の武器である鎖鎌を持っておりました。鎖で相手を絡め取り、近づいては首を掻きっ切る、彼の性質にとても似合った武器でした。

「出ていくのか」

 子供はそんな端正な顔を見返して、そうして頷きました。この青蛇は最後まで自分に気を抜くことがなかったなあと思いながら。

「おれが居たら紫さんたちに迷惑がかかるだろ……」
「そうだな」

 青蛇はあっさりと頷きました。
 その心の中をのぞいたサトリの子は、総麻呂と紫が話していたとき、この青蛇もふたりの話を聞いていたのだと悟りました。

「だったらいいだろ。そこを通してくれよ」

 青蛇はサトリの子の存在を、ずうっと危惧していたことをサトリの子は知りました。
 心を読むということのおそろしさ。それを願う人間のあさましさ。
 だからずっと思っていたのです。わざわいの種が早くここから立ち去らないかと。
 それは主人である白い少女のことを守りたいと想うが故のことでした。彼の頭の中にはそれだけなのでした。
 そのことに腹は立ちませんでした。よくよく考えずとも、紫と赤坊の方がお人よしがすぎるというものなのです。

「あのひとたちは馬鹿だから、あんたも大変だなあ」

 サトリの子は少しだけ笑ってみせました。
 しかしすぐにその笑みは消えました。そうして前を向いて歩き出します。
 行くあてなどありません。こどもの未来はまっくらで、何も見えませんでした。けれども此処に居てはならないことだけはわかっておりました。

 ところが青坊のいる木の下を通り過ぎたところで、再度声をかけられました。

 振り返ると、木の上から飛び降りてきた青坊が何かを投げてよこしました。あわてて受け取ると、そこにはたくさんの干し芋や干し飯などが入っておりました。うめぼしも入っています。それと、何かを書かれた木の板も。
 思わずきょとんとして見返すと、青坊は淡々とした表情のまま言いました。

「海を越えたはるか西の国には、サトリというあやかしの概念がないそうだ」
「……え? 」
「あやかしと似た種族はいるらしい。けれど、心を読む化け物というものはいないらしい。そういうものが居るということも、その地に居るやつらは知らない。だから」

蒼い髪の青年はあっさりとその言葉を紡ぎました。

「その力を知られない限り、お前が利用されることもない」
「……! 」
「その旅渡板があれば船に乗れる。総麻呂から預かってきた」

 サトリの子は手にした板をじっとみつめました。
 漆黒の絶望に覆われていまにも押しつぶされそうだった未来に、ひとすじの光が見えたような気がしました。

 板を持った手に、やがてぱたりと生暖かいものが落ちました。

「ありがとう……」
「……俺は何もしちゃいない」

 サトリの子は涙を拭います。心を見透かせるサトリの子には、冷淡に見える青坊の心もきちんと見えておりました。

「紫さんと赤坊と、それにあの総麻呂という人間にも言っといてくれよ。……スオウがありがとうと言っていたって」
「……スオウ? 」

 サトリの子は笑います。
 あやかしにとって名前は力になります。人間の陰陽師に掴まれば捕縛されてしまう呪にもなるのです。
 だからこれまで誰にも教えたことはありませんでした。
 母親以外、誰にも。

 サトリの子はそこでようやく子供らしい素直な笑顔を浮かべました。


「蘇芳。おれの名だよ」



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「こういう字だよ」

 紫は棒で地面に文字を書いて見せました。左肩に巻き付いている赤坊がへえと声をあげます。

「なんだかたいそうな文字だなあ。おれと姐さんに内緒で出ていったわりには偉そうですぜい」

 赤坊はちょっとだけ落ち込んでいるようでした。紫だってそうでした。けれど落ち込んでいる赤坊をほおってはおけません。指先で頭を撫で、そうして文字を示してみせました。

「でもいい名前だね。蘇芳、これね、赤の色の別名なんだよ」
「え、そうなんすか」
「うん。そうか、だから赤坊と一番仲が良かったのかもしれないねえ」

 そういって紫は微笑みました。
 赤坊は嬉しそうにし、そうして青坊は何も言わずに紫の肩に頭を預けております。
 その頭をそれぞれ撫でて、紫は空を見上げました。
 そうして、二度と会うことのないだろうサトリの子供のいく末が幸せであるようにと思いました。




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 紺碧の海は水平線の向こうまではるかに遠く続いております。陽の光にさまざまな青に色を変える美しい波は、まるで砕いた宝石のようにしぶきをあげながら動いておりました。
 黒髪の青年は、その深い闇色の瞳を細めてその彼方を見つめます。心を見透かす瞳をもってしても、東のかなたにある島国に住むやさしいあやかしたちの詳細はわかるものではありませんでした。

「スオウ、どうしたの? 」

 涼やかな声が耳を打ち、蘇芳は黙って振り返りました。そこに居るのはこの西の国での彼の恩人の姿でした。
 恩人である可憐な少女は、寡黙な男に向かってくすりと笑います。

「貴方はほんとうに海が好きなのね。よくそうして東の方を眺めているわ」

 大人になり、すっかり無口になってしまった蘇芳は頷きました。そうして足を取られて動きにくい砂浜に苦戦している少女に向かって手を差し伸べます。


 決して帰ることのできない東の国。
 すでに彼の居場所は西にあり、そうしてそれはとても喜ばしいことでした。
 それでも東の海を見るたびにほんの少しだけ思い出しました。

 蛇神の塚を守っていた白い少女。
 そうしてその少女を守っていた二匹の蛇たちに人間の男。

 それは懐かしく懐かしく、そしてやさしい記憶として彼のこころにひとつの支えとして残っておりました。


 ふいに吹いてきた強い風に蘇芳は瞳を細めます。
 海の風が彼の黒髪をなぞり、そうしてはるかな東に向かって高く高く吹き抜けていきました。







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