「ガラス越しの距離N」

「ガラス越しの距離N:あたりまえのてのひら」





久弥は基本的に鈍い奴だと言われている。
人の悪意に鈍感だと、だから人に利用されやすいのだと。

「人を好きになるのは勝手だが」
真琴は久弥が失恋をするたびに溜息混じりに言っていた。
だから中学2年になっての告白のあともそうだった。
「もうすこし人の悪いところも見るようにしないと、そのうちに痛い目を見ると思うよ」
いつものように久弥は幼馴染のベッドの上で座っていた。
そうして幾度となく繰り返されてきたその言葉を聞いていた。
「……でもなあ」
久弥はクッションをひきよせ、それに涙をこすり付ける。
ふかふかとしたクッションからはなにやらいい匂いがして、それになんとなしに落ち着いた。
「なんか俺のまわりってさ、すげえいい奴が多いんだよ。男も、女の子もさ」
クッションに顔を押し付けてもごもごとつぶやく。すると真琴の呆れたような声が机のほうから響いてきた。
「いい奴ばかりか? 」
「うん」
「嫌いな奴とかいないのか」
「……考えてみればあんまりいないなあ」
「……ふうん」
そう思うと、自分は運のいい奴なのだなと思った。
もちろん少しは嫌な奴は居る。
けれどもそれ以上にいいところも人にはあった。
だからそうそう嫌いにはならない。結果、久弥の周りはいい奴ばかりということになっていた。
―うん、やっぱり俺は運がいいよなあ。
満足しながらそう思っていると、かたんと小さな音がした。
そうして頭上から、妙に静かな真琴の声が落ちてきた。
「すごいな……」
「は?」
クッションから顔を挙げようとすると、頭を押さえつけられた。
というか、乱暴に撫でられた。
ぐりぐりと二度ほど往復したそれは、しかし次の瞬間にはすっと離れていった。
ぽかんとして顔を挙げると、真琴はいつものような冷静な表情で自分の定位置に戻るところだった。
「もういいよ。すごいから」
「は? 」
唖然とする久弥のほうを振り返りもせず、すとんと椅子に腰を下ろす。
黒髪からかすかに覗いている横顔は、何故だかほんのすこしだけ嬉しそうだった。

「……すごいんだよ」






あたりまえのてのひら







そんなことを思い出したのは、目の前を歩く美人さんが同じようなことを言ったからだった。
いきなり現れた美人さんは、今は久弥の手を引いてずんずん歩いていく。
その拍子に綺麗な黒髪がさらさらと揺れる。
風は、馴染み深い良い香りを運んできていた。


久弥は基本的に鈍い奴だと言われている。
人の悪意に鈍感だと、だから人に利用されやすいのだと。

だからといって、悪意に慣れているわけではなかった。むしろ気づきにくい性質だからこそ、人から向けられるむき出しの悪意に気づいた時の衝撃は大きかった。
久留巳からの悪意は凄かった。
悪意、敵意。侮蔑に憎悪。
ほんの一瞬前まで愛らしく微笑んでいた少女は、しかし次の瞬間には負の感情を思い切り久弥にぶつけてきた。
最初は衝撃だった。
そうして、次第に辛くなった。
心臓が抉られるように痛い。体中の血が、すべて凍りついてしまったかのように冷たかった。


「久留巳はやめておけ」
司の言葉が脳裏に蘇る。
「あいつはお前を利用しようとしているだけだ。最低な女だぞ」

そうだなあ、と久弥は思った。
本当に利用されたんだなあ、俺。
司のいう通りじゃん。馬鹿だな……俺。

死んじゃえばいい。
目の前の久留巳がぎらぎらとした瞳で囁いた。
あんたなんてくだらない人間なんだから。必要なんてないんだから。
だからあたしのために死になさい。

その言葉にほんの一瞬だけ心が揺れた。
何故だかはわからない。
けれども目の前の女の子がひどく可哀想に見えたのだ。
だからこの子の為になるならそうなってやってもいいかな、と思った。
久弥は聖人君子ではない。
だから一瞬、一瞬だけ。


――けれどもその一瞬をも許さない人物が、久弥には居たのだった。



その少女は突如として現れた。
いつもとはまるで風貌が違う。だからはじめは気づかなかった。

「勝手なことを言ってもらっては困る」

現れたとんでもないほど華麗な美少女は、そうして実に当然のことように言った。

「――そいつは、わたしのものだから」


顔が違う。格好も違う。
けれど声は誰よりも馴染み深いもののそれに違いがなかった。
冷静でわずかに低くて、それでいてよく通る声。
その声なら生まれてから今まで、毎日のように聞いていた。
同じ布団でくっついて眠っていた頃も。
手をつないで学校に通っていた頃も。
繋がりを失いたくなくて部屋に押しかけていた頃も。
そうして――今も。

ふいに美少女が久留巳に向かって口を開いた。
「私は貴女のことを」
そうして雨音のように告げる。
「とてもとても愚かで――そして、可哀想だと思うよ」
それはとても熱を持っていて、しかしそれでいてどこまでも静かなものに聞こえた。

久弥は、その懐かしい声に凍っていた心臓がゆるゆるとほどけていくのを感じていた。
驚くほどに安堵する。
だからぼうっとしていると、突然その美少女が久弥のほうに目を向けた。
いつもより綺麗な美少女の瞳がちらりと揺れる。
けれどもすぐにそれは消え、襟首をぐいと掴まれた。
少女の顔が近づき、やわらかなものが唇に触れる。
ほんの一瞬。
それは、ほんの一瞬のことだった。
けれども久弥にはそれで充分だった。
離れる一瞬に見せた表情には、直接心臓を殴られるような衝撃があったからだった。
それはいつか、一度だけ見たことのある表情。
一緒に寝ろと、恥ずかしげに告げたときのあのときと同じもの。


――真琴。


そうして真琴は久弥の手をひいた。
かつて交差点でそうしていたように。


「久弥。ほら」


迷いもなく。






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2011・3・6