「ガラス越しの距離O」

「ガラス越しの距離O:ブルーバード」




悔しかった。それだけだ。
いくらお人よしで阿呆でも、真琴にとって久弥は尊敬できる人間だった。
無遠慮に踏み躙られて、傷つけられていい存在ではない。
真琴はだから、司の話にのった。

司はモデルの仕事をバイトとしているらしい。
だからその方面との繋がりがあった。
スタイリストにメイクアップアーティスト。全く違う世界の人種に囲まれて徹底的に「美人」に見えるように努力した。
いままで洒落っ気など出したこともなかった真琴にとって、それはなかなかの苦行だった。
毎日髪や肌の手入れをするのは面倒だし、はじめて使用したコンタクトは馴染まない。
化粧はうっとおしいし、高いヒールは足に痛い。
それでも必死になっていたのは、ひとえに悔しかったからだ。

「……悪いな」

ふいにぼそっと司がつぶやいたのは、3日前のことだった。

「俺がいくら言っても火に油だったんだ……世話をかけるな」

相変わらず無愛想につぶやく声には、しかしかすかになにかを悔いるようなものが混じっていた。
真琴は瞬いた。
冷血漢にみえる男。しかしそれでも、彼なりに久弥のことを心配しているからこそ真琴にこの話を持ちかけてきたことはこの2週間でわかっていた。
久弥がいうほど善人ではないようだった。たぶん、真琴とタイプは似ている。現実的で、本来なら自己犠牲に美を見出すようなことはない。
しかしそれでも久弥という友人のことを大切に思ってくれていることだけはわかった。 でなければ公務員試験を控えたこの時期に、貴重な時間を割いてまで付き合ってはくれないだろう。

「久弥の面倒はわたしが見る。昔からそうだったんだ。今更ひとつやふたつの手間ができてもかまわないよ」

そういうと司は苦笑する。そうして、ちいさく頭を下げた。




ブルーバード







久弥は呆然と手を引かれて歩いていた。
久弥の手を掴んでいる女性は、こちらを振り返りもせずに進んでいく。
眼前で黒い髪がさらさらと揺れ、そのたびに良い香りがそのたびに鼻腔をくすぐった。
自分の無骨な手を握るそれはしなやかに白い。
しかしその手は、実に馴染み深い感触を彼に与え続けていた。

「……ええと、真琴、だよな……? 」
「……」

女性は振り向かない。ヒールが石畳を叩く音がコツコツと小気味良く響いている。
久弥は小さなてのひらを握り返した。そうして今度は確信を込めて名前を呼ぶ。

「真琴」

目の前の女性が足を止めた。そうして振り返る。
久弥の目線より少し下、そこにある女性の顔はやっぱり美人だった。
いつもかけている眼鏡がないせいか、余計にその瞳がくっきりと綺麗にみえる。
けれども真琴の面影はきちんとあって、久弥はそこにほっと息を吐いた。

「あ、あのさ……ええと」
「……」
「ええと……」

言葉を続けようとしたが、何から言ってよいのかわからなかった。
たくさんのことが一度に起こりすぎた。だけれど今は目の前の幼馴染にいうことがある。

「ありがとうな、真琴」
「……」
「助けてくれて」
「いつものことだろう」

答えた声はやはり真琴のものだった。いつもの冷静で低い幼馴染の声。
それにさらにほっとした。
そうしてそこでようやく頭が回り出した。曰く、どうしてそんな格好をしているのだろうと。


「……真琴、まさか司とデート中だったんじゃないのか」
「……はあ? 」
「だったらもう俺なら大丈夫だからさ、戻っていいよ。ああ……うん、司に悪いことしたなあ……」

この幼馴染は司と付き合っているのだ。
司と付き合いだして急に綺麗になっていった真琴のことを久弥は知っている。
久弥は苦笑した。
真琴は優しい。だから、偶然自分をみかけてほおっておけなかったのだろう。そう思った。

「真琴も、そこまでしなくていいのにさ……」

そうつぶやくと、今更ながらに頬に熱が昇ってきた。
まったく、自分を助ける為にあんな演技を……キスまでするなんてどうかしている。
いや、あんな演技をさせてしまった自分こそに腹が立った。

「ごめんな真琴、演技でキスまでさせて……あ、でも司の奴が……多分ファーストキスじゃないよな、いや、だからいいってわけじゃないな。ごめんな、本当に。なんといって謝れば……」

慌てて言い募っていると、真琴がかすかに怒ったような声でつぶやいた。

「ばか」

細い手に力がこもる。そうして真琴はぷいと背中を向けた。
そのまま歩き出したので、久弥もそれにひっぱられるようについていく。

「ちょっと待て真琴、ええと、司は……」
「あいつなら久留巳さやか嬢を追いかけてる」
「え、は……? 」
「彼なりに謝りたいことがあるのだそうだ。もっとも、よりを戻すとかそのような話ではないらしいが」
「そうか。よかった。……久留巳さんのこと気になってたんだ」
「……司はアレにしても、お前は久留巳嬢に対しもっと怒ってもよいと思うんだが」
「そうかな」
「ああ。その権利はある」
「うーん」
「死ねと言われたんだぞ」
「うーん、でも真琴がかわりに怒ってくれたし」
「……」
「それになんか……かわいそうにも思うよな……って思うのも失礼なのかもしれないけどさ……」

ふっと、真琴が苦笑するような音が聞こえた。
前を向いていてみえないが、きっといつものような呆れた表情を浮かべているのだろう。それがわかった。
呆れて、溜息をついて。
それでも真琴は久弥を馬鹿にしたり見放したりはしなかった。
考えてみれば、今まで、ずっと。
そう。ずっと、受け止めてくれていたのだ。

繋いだ手はひたすらに懐かしい。姿は変わっても真琴は真琴だった。
てのひらのやわらかな感触。きびきびと足を運ぶ歩き方。けれど久弥よりちいさな歩幅。ほんのすこし顎をあげがちにまっすぐに前を見て歩く癖。
10年以上もの間、この幼馴染とともに歩いてきた。
だからこそ久弥は知っている。自分の歩幅とは違うことを。自分の速さとは違うことを。
女の子として意識したことはなかった。
だけど同じように歩きたかったから、無意識に歩幅をあわせてきた。
懐かしくて、嬉しい。
目の前で歩いているのはまぎれもない美少女であるのに、手をつないで歩いていた幼稚園の頃の小さなの真琴のことが思い出された。
すると、ふいに真琴が口を開いた。

「……付き合ってなんかない」
「は? 」
「どうしてそういう話になっているのかわからないが、司とはそういう関係ではないよ」
「え、でも」
「……はじめてのキスだった。悪いか」

久弥はぽかんとする。前を歩く真琴の歩調に変化はない。
けれど、艶やかな黒髪からのぞく耳がかすかに赤く染まっているのが見えた。

「お前がどう思っているのか知らないが、私は決して優しい人間じゃない」

声は淡々と響く。

「だから……」

真琴が手を離した。
離れた手。途端にてのひらに触れた空気の冷たさに思わず足が止まった。
てのひらを見て、目線を上げる。
すると頬を赤く染めた真琴が、振りむいて自分を見上げていた。
黒く濡れているような瞳が久弥のそれと合う。

「どうでもいい人間のために……単なる幼馴染にそこまでしたりはしない」

そうして踵を返して歩き出す。
その一瞬のあいまに見えた顔は、冷静な幼馴染が滅多に見せてくれない「微笑み」そのものだった。
いつか一度だけ寝ぼけ眼の真琴がみせてくれたものにも似ているやわらかなやわらかな、愛らしい笑み。

だから久弥はその背中を追いかけることができなかった。
棒立ちになったまま、その背中を呆けたように見送っていた。


幼馴染であった、少女の姿を。




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2011・4・9