「或る救い人の話」 |
あたしはこうして恋に落ちた。 以前恋だと思っていたのとはまるで違う。 だからこれは――たぶん、初恋なのだろうと思う。 見目とか外聞とか意地とか。 あたしの天より高いプライドとか。 そんなものはどうでもよいと思えたのは、それがはじめてだったから。
或る救い人の話
悔しい。 悔しい。 悔しい。……悔しい!悔しい!! なんなのよ。 なんであたしがあんなのに哀れまなきゃなんないのよ。 あたしの何を知ってるっていうのよ。 あいつにその権利があるっていうの? いくら綺麗だからってそんな権利がある? 人を傷つけていいなんて、勝手にしてもいいだなんて、そんな権利ある? ふざけるな、ふざけるな! 大体悪いのはあいつじゃない。 あたしを馬鹿にしたあいつじゃない。 だからあたしは仕返しをしてやっただけ。 悪いのはあたしじゃない。 なのになんであたしがこんな目に合わなきゃならないのよ。 悔しい。 お前らなんかくだらない人間ばかりのくせに、その憐れんだような目はなんなのよ。 憐れむというのは格上の人間がしていいものなのよ。 アンタらみたいな格下がこのあたしを憐れむっていうの? 悔しい。悔しい。 けれどもあたしは、あちこちから突き刺さる視線に目を向けれなかった。 下を向いたまま踵を返す。 泣くだなんて、そんなのプライドが許さなかった。 しばらく歩いてタクシーを拾い、ついてきていた男共を振り切った。 駅前での出来事を見ていた奴らだろう。ねえ彼女、何があったの、話を聞こうか。 にやにやとそう言ってきた。 奴らにはあれがどうみえたのだろう。 不細工な彼氏。それなのにそんなやつに振られた彼女。しかも顔だけはいい女に寝取られた。 きっとそういうふうに見えたのだろう。 かわいそうでみじめな女。 ……悔しい。 あたしは唇を噛む。 悔しくて悔しくて握りこんだ指からつけ爪が取れた。 余計に苛々して、窓からそれを放り投げる。紺色の制服を着たタクシードライバーは、そんなあたしをミラー越しにちらりと見たけど何もいわなかった。 あの場から少しでも離れたくて都内を回り、そうしてあたしは適当な場所で車を止めた。 なにも考えずに止めたのだけど、いかにもいかがわしげなビルが立ち並ぶ町並みは今のあたしの気分にはぴったりだった。 一番最初に声をかけてきた男と遊んでやろう。 とにかくむしゃくしゃしていたので、あたしはそう決めた。 こうして立っていると、どうせあたしの外見につられた馬鹿な奴がわらわらと寄ってくる。 せいぜい金をむしりとってやろう。顔がそこそこ好みだったら、一晩くらいなら付き合ってもいい。 あたしはすうと息を吸う。 そうして視線をあげてその街角に置かれていたベンチに腰掛けた。 いかにも待ち合わせをしているかのように。さきほどあったことなんてなかったかのように。 するとあたしの予想通り、すぐに声はかけられた。 男って本当に馬鹿な生き物だ。 そう思いながら顔を挙げたあたしが見たものは、けれども予想しないものだった。 それは紺色の制服を着た白髪の男。 さきほどあたしが乗った、タクシードライバーだったのだ。 「さきほどはありがとうございました」 やせぎすの男はにこにこと声をかけてきた。 帽子を取ると見事な白髪がそこからあらわれる。 あたしはちょっとだけびっくりして目を瞠った。 顔だけを見るとまだ若いように見えたのに。もしかしたら結構な年なのかもしれなかった。 「……なにか? 」 あたしは無愛想に尋ねた。 「おつりでも間違えてた? 」 そう言うと男はおっとりとした笑顔を浮かべたまま首を振った。そうしていいえ、と笑う。 「お隣に座ってもいいでしょうか? 」 「……いいけど」 「ありがとうございます」 男はぺこりと頭を下げると、ベンチに腰掛けた。 あたしは眉をひそめる。特にあたしに用事はないらしい。 小さな包みを大切そうに持ったまま空を仰いでいる。そうしてひとりごとのようにつぶやいた。 「良い天気ですねえ」 「……あ、はあ……」 「こんな日は外でお弁当を食べるのが一番です」 ああ、お弁当。あたしはそこでもう昼時なのに気がついた。 それにしてもこんな雑踏の中のベンチでお弁当を広げるだなんてどうかしている。 あたしはさらに眉を潜めて、立ちあがろうとした。これ以上変なおっさんに付き合う道理はない。 しかしあたしが行動するよりさきに、さらに声がかけられた。 「ぼくには娘がひとり居ましてね。お弁当は、彼女がいつも作ってくれるんです」 「はあ……」 「みてください。これ」 男は手にした包みをほどくと、それをあたしに見せるようにした。 中にはラップで包んだ大きなおにぎりがふたつ。けれどもそのおにぎりの形はでこぼこしていて、お世辞にも綺麗とは言いがたかった。 あたしは思わずつぶやく。 「下手くそね」 「ええ」 男はふふっと笑った。 おっとりとした優しい笑顔。さきほどからその笑顔は変わらない。 ああ、幸せそう。 そう思った瞬間、あたしは胸にねっとりとしたものが湧き上がってくるのがわかった。 それはぐるぐると渦巻いてくる。 あたしは可哀想なのに。悔しい。なんで、あたしだけ。 あたしは男の顔を見る。 ふっ、と。その幸せそうな顔をぎたぎたに崩してやりたくなった。 「奥さんは何もしてくれないの? 」 「いえ、妻はいないもので」 「へえ。逃げられたとか? 」 「ええ、そのようで」 その言葉に、あたしの胸の中の黒いものが歓喜に沸いた。 幸せそうなこいつを不幸のどん底に突き落としてやるネタをみつけたからだった。 「へえ。それはお父さんとしては情けない話ですね。かわいそう」 あたしはあえて聖母のような笑みを浮かべて見せた。 「娘さん、いくつ? 」 「今年で12歳になります」 「そう。まだ小さいのに弁当なんか作らされて……かわいそうに」 ああかわいそうかわいそう。 憐れむふりをしながら、あたしは暗に男の甲斐性のなさを責めてやる。 あんたのせいで娘は苦労しているのだと。 かわいそうかわいそう。 あんたのせいじゃないの、と。 しかし男はへらりと笑って頭をかいた。 「ええ。本当に良い娘に恵まれました」 ……なんでそうなるの。 あたしは苛々とその顔をみつめた。あたしみたいな小娘にあんなことを言われて、どうして気分を害さないのよ。 男の表情にそんな色は少しもみられなかった。おっとりと、心底しあわせそうに男は続ける。 「血のつながりもないのに、本当に良くしてくれます」 「……え」 あたしはきょとんとした。それは思わぬ言葉だった。 「娘はね、妻の連れ子だったんです。妻と知り合ったときには、彼女はすでにお腹が大きくて」 「……」 「ぼくのひとめぼれだったんです。彼女もひとりで困っているようだったので、ぼくのプロポーズを快く受けてくれて」 「……」 「けれど娘が生まれてすぐに、ぼくの不甲斐なさゆえに彼女に出て行かれてしまって。それだけでなく、ぼくのせいで家はとても貧しいのに。それなのに娘はぼくによくしてくれています。本当に、ありがたいことですよ」 ええ、と。 あたしはぽかんとその複雑な家族関係のことを考えた。 それは、この男はもしかして――女にとっては荷物だった「子供」というものを押し付けられただけなんじゃないのだろうか、と。 「……おじさん、いくつ? 」 「?ええと、今年で33になります」 「33……」 33歳。 やっぱり、思ったより若い。 その年で、血の繋がりもない娘を押し付けられて、どうしてそれを有難がっていられるんだろう。 子供なんてお荷物なだけだ。自分の子供でないなら、なおさら。 「あの、よろしかったら」 ぽかんとしてると、目の前におにぎりが差し出された。 ラップに包まれた、でこぼこのおにぎり。 「お昼時ですし、一緒に食べてくれませんか? ぼくひとりでは食べ切れなくて 」 男はにこにこと笑っている。 その何の含みも無いような笑顔に、ふいに胸が詰まった。 いつもなら「馬鹿なおっさん」と思うだろう話だった。 「馬鹿な男。自分が利用されていることに気づかないの? 」そう思う話だった。 それなのに今は何故だか胸にきた。 「悪い物事」を「良い物事」として捉えることのできる、そんな……変な人間。 そうだ。 そんなやつと自分は、つい最近までつきあっていたのだ。 「こいつは私のことだってツカサのことだって、そして貴女のことだってさえ、“いいところ”を見つけて躊躇なく好きになってくれる、そんな珍しい、すごく優しい奴だったのに」 苛立ちしか感じなかったあの女の言葉が蘇る。 渡されたおにぎりにかぶりついていると、なぜだか視界がゆらゆらと歪んできた。 汚いビルの立ち並ぶ、雑踏のベンチ。 そんなところで、知らないおっさんといびつなおにぎりを食べているだなんて馬鹿げた状況。 それでも何故だかいやな気持ちはしなかった。 隣の男は驚いたふうもなく、自分が泣き止むまでそこにいてくれた。 「さて、帰りましょうか」 やがて男は立ち上がった。 「お送りしますよ、おじょうさん」 はじめのときと変わらない笑顔でいう。それは、隣で若い娘が泣いていたことなど気づいていなかったかのような自然なものだった。 だからあたしも頷くことができた。 へたな同情や哀れみなんて欲しくなかった。 ただの優しさ。 なんの気負いのないそれが、今は素直に胸に染みた。 「……あたし、久留巳さやかっていうの」 「はい」 「おじさんの名前も、おしえて」 料金はいいですよ、と自分のタクシーで家まで送り届けてくれた男にあたしは尋ねた。 なんとなく、これで終わりにしたくなかったから。 男はやはり気負いなく、ふんわりと笑って答えてくれた。 「――はい。黒門誠一、といいます」 あたしはこうして恋に落ちた。 以前恋だと思っていたのとはまるで違う。 だからこれは――たぶん、初恋なのだろうと思う。 見目とか外聞とか意地とか。 あたしの天より高いプライドとか。 そんなものはどうでもよいと思えたのは、それがはじめてだったから。 「ガラス越しの距離」へ戻る 或るシリーズへ戻る 2011・3・25 <おまけ> 「おとうさん、またお仕事クビになったの!?」 「はい……すみません。美幸さん……」 「なんで!? 」 「ええと、業務時間内に私事でタクシーを使ってしまって。それが会社にばれて」 「なんで!?」 「……うーん。あのとき、あの娘さんをひとりにしてしまったら泣きそうだったから、でしょうか……」 「うー……。もーおとうさんの馬鹿! 」 「はい……すみません」 「でもおとうさんだから許す! 」 「え」 「馬鹿だって思うけど、お父さんらしいからしょーがないよねー。そんなお父さんがあたしは好きだもん。そんなお父さんじゃないと嫌だもん。ねえ、根倉もでしょ? 」 「……はい。僕もそう思います」 「しばらくもやし食が続く生活だねー」 「で、でも、もやしはおいしくて身体にもいいそうですし……」 「まあねー」 なにやら暢気な会話を繰り広げている「家族」を見やって、黒門誠一はやわらかく微笑んだ。 娘と友人。それぞれに自分と血の繋がりなどはない。 けれども目には見えない「絆」はしっかりとある。そう、感じられる。 だから男はふんわりと笑った。 それは「幸せ」を見つめることのできる人間だけができる最上の笑み。 「ありがとうございます、ふたりとも」 或るシリーズへ |