イヴァン・イェルチン |
男は小刻みに震える自分の手を自覚して苦笑を浮かべた。 人を殺してしまった。 禁を破ってしまった自分は、死後も楽園へは行けない。 それでも彼は満足だった。 これであの娘は……彼の命の恩人で、彼にいろいろなものを与えてくれた少女は生きのびることが出来る。 ひどい嵐で船が難破し、この異国の地に流されて14年。 同じく流されてきた仲間達は、漂流してきてすぐにこの土地の先住民とコンタクトを取ろうとしてすべて惨殺されてしまった。 かろうじて逃げ出してきたが、それからはずっとひとりきりだった。 それでももしかしたら国からの救援が来るかもしれない。 それだけを信じて、息を潜めるようにこの地で暮らしてきた。 孤独は辛く、少しずつ彼の精神を削り取っていった。 そこで彼は住みかである安全な岩壁に、日記を刻み付けることにした。 毎日毎日。自分が人間であることを、忘れない為に。 そうして14年目。32歳になったその日にその娘は現れた。 この地の先住民の特徴である、黒髪に黒い瞳の小柄な少女。 男は自分の存在が知られてしまうことに恐怖した。 だからなんとか少女を追い払おうとしたが、少女は逃げなかった。 そうして少女は男の手当てをはじめた。 その手のあたたかさに、男は涙が溢れてくるのを止められなかった。 男は14年ぶりに、人に触れることが出来たのだ。 娘は喋ることができないようだった。だから文字でコミニュケーションを取ろうとしたが、その方法は失敗に終わった。どうやら「文字」というものが少女の民族にはないようだったのだ。 言葉のやりとりこそできなかったが、意志の疎通はできた。 少女の身振りや表情でそれを読み取ることが出来たので、同じように感情を伝える。 そうすると少女は心の底から嬉しそうに微笑んだ。 怪我が治ってからも少女は毎朝やってきた。 時折顔を腫らしていたり怪我をしていたりしているが、ここに来ると嬉しそうに笑っていた。 どうやら娘は村で暴力を受けているようだった。 なんとかしてやりたかったが、自分が村に行っても何も出来ない。 そのことを歯がゆく思いながら、それでも娘がここに来てくれることを嬉しく思っていた。 しかしある日、突然娘が来なくなった。 彼は何故だか嫌な予感を振り切ることはできなかった。 だから四日目の夜、彼は静かに村への道を辿っていた。 人に見つからぬように真夜中に、手土産に青い花を持って。 そうして彼が見たのは、少女を殺そうとしている村人の姿だった。 震えが止まらなかった。 こうするしかなかったのに、胸が痛くてたまらなかった。 村人の殺意は本物で、そうしてその瞳は強い感情に縛られていた。 それがなんだったのか、男にはわからない。 けれどもこのままでは娘は殺されてしまっていただろう。 胸が痛い。 けれども後悔だけはしていなかった。 男は娘に向かって歩き出した。 娘は今にも泣き出しそうに顔をゆがめている。 その喉には痛々しい赤い痕が残っていた。 それを哀しく思いながら、男はそっと跪いた。 逃げて、と娘が身振りを示した。 けれども彼はかぶりを振った。 人を手にかけてしまったからには、生き延びるつもりなど毛頭無かった。 彼の感情を感じ取ったのだろう。 娘の瞳から涙が零れだした。それは鈍い月の光を受けて宝石のように輝いた。 最後に一度、この腕で少女を抱きしめたいと思った。 しかし血に塗れた自分では、もうそれは出来ない。 だから彼は囁いた。 ―あなたを、愛しています。 その言葉に、娘は涙のたまった瞳を見開いた。 娘に自分の国の言葉は理解できない。 だけれど何かを感じ取ってくれたのかもしれなかった。 歩きながら彼は思った。 この地に来て、悪いことばかりだった。 だけれど最後に彼女に会えた。 それだけでも、ここに生まれてきた意味があるのかもしれない。 悲鳴が起こる。 化け物に見えるように狂ったような声をあげながら、彼は最後にひっそりと微笑んだ。 ありがとう。 たとえこの身が滅んでも、貴女の幸せを願っています。 ……僕の、愛する人。 2010・1・16 ・ 戻る |