「ラブ・パレード9」

<紫陽花の約束>





赤谷吾郎は大きく肩を落とした。
さすがに今回の事は心身ともに堪えた。
吹きすさぶ12月の冷たい風が、凍えきった身体をさらに追い立てる。
短い春だった。本当に短すぎる春だった。そう、しみじみと思った。

「おかえり。早かったな」

家に帰ると家族である少女と猫が待っていた。
猫を抱えて自分を出迎える少女の姿はあまりにもいつも通りの光景で、思わず笑みが零れた。
吾朗は笑って扉を閉める。それで冷たい風はぴたりと遮られた。
家の中からは暖かな空気となにやら良い匂いが流れてきていた。

少女は相変わらずにこりともせずに青年を見上げていたが、辺りを見渡すと怪訝そうな表情を作った。
「…涼子さんは?」
「ごめん。…駄目やったわ」
吾郎は苦笑してみせた。
そうしてしゃがみこみ、足元に纏わりついてくる猫の額を撫でてやる。
柔らかな毛並みはいかにも温かく、冷え切った指にじんわりと響いた。


「…そうか…」

少女はそう言ったきり、何も問わなかった。
だから吾郎も何も言わず、それきりその話題が二人の間で出ることはなかった。


それは1年前の、12月の話。





ラブ・パレード9







赤谷吾郎はこんこんと眠っている少女の顔を覗き込んだ。
熱のためか、その顔はいまだに赤い。
吾郎は氷を入れた洗面器にタオルを浸すと、それをしぼって少女の小さな額にのせた。
「…はあ」
青年は小さく息を吐く。

この子供は昔から異常に我慢強かった。
どんなに熱があっても、しんどくても、自分からそれを訴えるようなことがなかった。
だからこそ、それに気づいてやらねばならないのは自分だったのに。
青年は肩を落とす。
「ごめんな…希望」

少女の熱は高かった。
慌てて直ぐに病院に連れて行ったところ、風邪との診断を受け薬を処方された。
すぐに飲ませたものの、どうやら効果はまだ出ていないようだった。
浅くて早い呼吸を繰り返す少女を見ながら、吾郎はいっそう自己嫌悪に陥った。
「まったく…これじゃあ師匠に顔向けできへんわ…」


あれは9年ほど前の、梅雨に入ったばかりのことだった。
藤堂家の広い庭には薄い紫色の紫陽花が満開に咲いていた。
どういう経緯か忘れてしまったが何故かその日、希望の祖父である藤堂玄隆と二人きりで話をしていた。
二人の間には大福餅があり、それが絶品であったことをよく覚えている。

藤堂玄隆はいつでも気難しかったし、いつでも厳しかった。
しかし吾郎はいつも仏頂面なその顔が、大福餅を食べるときだけ微妙に変化することに気づいてしまった。
こらえきれずに爆笑する青年をいかにも苦々しそうに見やる老人の顔がおかしく、さらに吾郎は腹を抱えた。

それから二人はいろいろと話をした。
吾郎がこの老人に武術を習うようになって2年以上経っていたが、こんなに話をしたのはこの時が始めてだったかもしれない。
何故かそのとき、希望はその場にはいなかった。
今にして思うと、だからこそ藤堂玄隆はこんな話をしたのかもしれなかった。

「私もそう長くない」
藤堂玄隆は忌々しげに庭の紫陽花を睨みつけながら言った。
「本来なら、お前のような青二才になんぞ頼みたくはないのだ。
しかし他に頼めるものがおらん。…他のやつらは軟弱過ぎる奴らばかりでな」
当時20歳だった青年はきょとんと師匠を見やった。
どうやら藤堂玄隆は自分に頼みごとをしようとしているらしい。
それだというのにこの師匠はどこまでも偉そうだった。
しかしそれがいっそ「師匠らしく」て、吾郎は思わずその頬を緩めた。
「はい。何でしょう」
笑みを堪えながら答えると、藤堂玄隆はぼそりとつぶやいた。
「…あれのことを、頼む」

それは偉そうで、ぶっきらぼうで、あまりに飾り気のない言葉だった。
しかしそれは、老人の孫への想いが之でもかと言うほど詰まったものでもあった。

吾郎はひとつ瞬いた。
希望の両親は随分昔に亡くなったのだと聞いたことがある。
俺なんかでいいんだろうか。
そうは思ったが、それでも直ぐに彼は頷いた。

「はい」

理由は実に簡単で単純なこと。
吾郎はこの老人ことを尊敬していた。そうしてその孫のことも大切に思っていた。
それだけだが、それだけで十分だった。
考える程のことでもない。
だから彼は頷いた。
それだけのことだった。


―しかしまさかその直後、本当に藤堂玄隆が他界してしまうとは思ってはいなかったが。


「…ほんま、師匠は有言実行やったよなあ」
赤谷吾郎は小さく笑う。
それはあまりも懐かしく、大切な思い出のひとつだった。
「…なあ」
青年は眠る少女の顔を見つめた。
あの頃と確実に変わってきているこの子供が、なにを考えているのか彼にはさっぱりわからなかった。
「寝顔は一緒やねんけどなあ…」
いつもは仏頂面で怒ったような顔をしている少女だったが、寝顔だけはいかにも子供らしくあどけない。
そのやわらかな寝顔を見ながら、青年は静かに笑みをおさめた。
「……」
手にしたプリントに目を落とす。
それは居間の、ちゃぶ台の上に置いてあったものだった。
話があると少女は言った。
それがこのプリントに書かれた内容であろうことは、いくら鈍感な吾郎でもわかってしまった。

あの時。
絶体絶命のあのときに、ヒーローのようにあらわれた小さな姿を思い出す。
あれはたいそう印象的だった。
ちびっこいくせに馬鹿みたいに強くて、ひたすらに偉そうで―そうして何より、格好良かった。

ちびっこい子供はほんの少しだけ大きくなった。
ほんの少しだけだとずっと思っていた。
…そう。ほんの、一ヶ月前までは。
吾郎は希望の顔をみつめた。
そのあどけない寝顔は変わらない。

…けれど。

手を伸ばし、汗で額にはりついている柔らかな髪をそっと払う。
そうしてひそやかな吐息を洩らした。

「…そうか。遂に「俺」は…必要なくなったんやな…」






「……」

藤堂希望が目を覚ましたのは朝方だった。
カーテンの隙間から薄闇を破るかのようにかすかな光が溢れ出している。
瞬いて、かすかに頭を動かすと額からなにかが滑り落ちた。
希望はぼうっとした頭で、壁にもたれて眠っている吾郎を見やる。
そろそろと手を伸ばして、額から落ちたものを触ってみるとそれはまだひんやりとしていた。


吾郎はぐっすりと眠っていた。
いかにも寝苦しそうな格好だが、ぴくりとも目覚める気配はない。
希望はぼんやりと吾郎をみつめた。
このお人よしの青年が一晩中側についていてくれたのは明らかで、少女はひそやかに息を吐く。

―どうやらまた、自分は迷惑をかけてしまった。


このままでは吾郎まで風邪を引いてしまう。
声をかけようとして、しかし少女は途中で言葉を途切れさせた。
瞬いて青年をまんじりとみつめる。
そうしてあともう少しだけ、とひとりごちた。

自分がいかに身勝手なのか思い知らされる。
だけど。希望は思った。

あと少しだけ。ほんの1分だけでいい。


…自分のためだけの「吾郎」でいて欲しかった。








紫陽花の約束








「ラブ・パレードI」へつづく








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