「ラブ・パレード8」

<途切れなかった祈り>




藤堂希望はぼんやりと、たわんでわずかに歪んでいる天井を眺めていた。
身体が熱くて頭がぼうっとする。
けれど顔が熱いのは熱のせいだけではない。希望は思った。
「あいつは、馬鹿か」
吾郎のてのひらは相変わらず大きかった。
あの頃と変わらないくらい大きかった。
ひんやりとしたそれはほてった額に心地よく、そしてひどく落ち着かなかった。
動悸はいまだ治まらない。


希望はぼそりとつぶやいた。


「馬鹿者…」



ラブ・パレード8





開け放した襖の向こうからは青年と猫の足音と声が響いてくる。
そのかすかな振動を感じながら、希望はゆっくりとその瞳を伏せた。
その響きをなぜか心地よく思い、少女はひそやかな息を吐く。



―あ、きなこさん。そっちに行ったらアカン。風邪がうつるで。
―ぶにゃあ。
―ほれ、体温計探し終わったらご飯やるさかい。おとなしゅうしとれや。
―にぎゃあ。
―ぐあ!背中に乗るなや!重!いでででで!つ、爪をたてんなああああ!!
―ぶうう。


ふたりの声を聞いているうち大家と話した「楽園」という言葉が頭に浮かび、少女は静かに頬を緩めた。
楽園。
このいかにも壊れそうな家に住むばらばらの2人と1匹。
それでも自分にとっては、何事にも変えがたい場所であることは確かだった。
楽園というものがこの世にあるとするならば、自分にとっては此処こそがそうなのに違いがない。
けれど。少女は思う。
これはきっとあいつにとっては偽りの楽園だから。
だから。

きっと、これでは吾郎は―いつまでも「幸せ」にはなれない。





遠い日の、何気ない会話を思い出す。
それは、単なる日常会話の延長にすぎない会話だった。
いつもの日常にまぎれこんだ、ほんのささやかな言葉。


男はそんな小さな言葉など覚えていなかった。
考えてみればそれは当然のことだったし、自分もさほど期待などしていない…はずだった。

なのにいざとなると自分で想像していたときよりも胸の奥が痛かった。
何故こんなに痛いのだろう。そう反芻するよりも先に鈍い痛みが少女を襲った。
どくんどくんと心臓を締めつけられるような痛み。
手も足も、何もかもがしびれて麻痺してしまったように動かなかった。
ただ、痛くて、痛くて、苦しかった。
息を吸おうとすると喉は酸素をうまく受け容れてはくれず、ひゅうと音を出した。
ふいに青年の能天気な顔がにじんで、希望は俯いた。
どくんどくんと痛みが全身に広がる。

苦しい。

いや、これはきっと。

―悲しいという感情そのもの。





「ここは寒いで。誕生日祝いを兼ねて、ごちそう食べに行かへんか?
寿司でも焼肉でもなんでもええで〜??あ、もちろんこの吾郎様がおごったるさかいな!」


あのとき、希望は吾郎の言葉に答えようとした。
いつものように、「家族」の会話をすればいいだけのはずだった。
そう。たとえば。
また焼肉か、とか。
お前の頭には寿司か焼肉しかないのか、とか。
馬鹿みたいな、けれど当たり前の「家族」としての会話。
なのに。
あの時自分はそんな簡単なことができなかった。
意を決して口を開いた結果が、あのざまだ。

喉の奥がつかえて…簡単な言葉のかわりに出たものは。





あれは一生の不覚だった、と希望は思う。
「泣く」ということは弱いもののすることだ。
その行為はなにも生み出すことはなく、ただ時間を浪費するだけだと少女は認識していた。
そう祖父に教えられてきた。
だから人前で泣いたことなど、一度たりともなかったのに。

泣いたってなにも変わらない。
泣いたって吾郎に心配をかけるだけだというのに。

―本当に、自分は愚かだ。



そう。きっと自分は。
期待などしていないつもりで、それでもずっと祈っていたのだ。
ほんの、少しだけ。
けれども天上から垂らされた蜘蛛の糸のような、細い細い期待が祈りのようにいつもあって。
自分は、「もしかしたら」という言葉と共にずっと祈り続けていたのだ。
馬鹿馬鹿しい、こどもの願いだ。
充分に、本当に充分にわかっているはずだというのに。
それでもずっと。


けれども吾郎はその言葉のことなど覚えていなかった。
細い祈りはやはり届かず、それでようやく察した。

いままで目を背けていた、自分がやらなければならないことに。


古い家の中では優しい音が響いている。
少女の「家族」の音だ。
自分を受け入れてくれた、底抜けにお人よしの男の創る音だ。


「…あいつがそれで…幸せに、なれるなら…」
それは決して悪くないことだ。
とろとろとしたまどろみのなかで、少女はそう思った。

だから、そのためなら。


希望は、眠りに落ちる寸前にその言葉を脳裏に刻みつけた。
それは本当なら1年前にしておかなければならなかったこと。
自分がやらなければならないことは実はひどく単純で明快なことだった。

―それであいつがずっと望んでいた「幸せ」を得られるなら。私は。



この手で自らの「楽園」を壊すことだって…厭わないのだろう。









途切れなかった祈り








「ラブ・パレード9」へつづく








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