「ラブ・パレード44」

<前夜T>








あれはいつのことだったろう。
随分昔のことのような気がする。
まだ、希望は幼稚園に通っていた。
あの頃から希望は同じ年頃の子供に比べて小さかった。
そのために黄色い鞄がいかにも重そうに見えていたことを覚えている。

吾郎は藤堂玄隆のもとに弟子入りしてからすぐに希望の送迎をかってでていた。
だから毎日のようにその姿を目にしていた。
晴れの日も雨の日も。
毎日、毎日。

希望という子供は無口で無表情だが、感情がないわけではなかった。
むしろ情緒豊かな方で、季節の移り変わりにより変わっていく草花や空の色には関心が高かった。
だから時にはふたりで河川敷に寄っては空を見上げたり、よその庭先に咲く花を眺めたりしていた。
それまでの吾郎は花になど関心の欠片も持っていなかったが、子供との時間は面白かった。
思えば、母親を亡くしてからの日々は慌しかった。
いや…ひょっとすると無意識のうちに、忙しさで感情を埋めようとしていたのかもしれない。
無口な子供とのんびりと空を眺めながら、吾郎はふいに思ったものだった。



そうして春の嵐が通り過ぎた次の日。
通い慣れた路地にある桜の花が全部、地面に落ちてしまっていたことがあった。

「ああ、残念やなあ。おとといが見納めやったんやな」
吾郎は裸になってしまった桜の木を見上げながらつぶやいた。
新しい芽が吹くのは良いことだ。
しかしやはり桜の花が散ってしまったのは残念に思えた。
「すごい…」
しかし、傍らからぽつりと洩らされた声は感歎の色に染まったものだった。
吾郎はきょとんとして目を向ける。
傍らの子供は大きく瞳を見開いて路地をみつめていた。
「すばらしいな…咲いているのも充分きれいだというのに、散ってしまってもきれいだとはおそれいる」
物々しい言葉遣いに吾郎は思わず噴き出した。
「なんだ」
「いやいやなんでもない。うん、でもそうやなあ…確かにそうやな」
言われてみれば足元には薄紅色の絨毯が広がっていた。
それはふんわりと優しく辺りの景色を染め上げている。
傍らの子供は相変わらずの仏頂面だが、それでもどことなく嬉しそうに思えた。
「お前、桜が好きなん?」
問うと希望は素直に頷いた。
「ああ。じいさまがお好きなんだ。だから私が一番さいしょに覚えた花の名前もこれだった」
ああ、らしいなあ。そう思うと余計に笑みが洩れた。
無愛想な祖父と孫。
そんな二人が桜を愛でている姿を想像するとおかしいやら微笑ましいやらで仕方がない。

「さっきからなんだ。にやにやしおって」
「いやいやなんでもないって」
吾郎は笑う。
そうしてふと思いついた。
「せやったらいつか…そうや!お前が20歳になったら桜の花をお祝いにプレゼントしたるわ」
希望は驚いたようだった。
子猫のような瞳をさらに大きくして吾郎を見上げてくる。
「…20歳」
「ああ、20歳」
「……」
小さなつむじ風が薄紅色の花びらをさらさらと滑らせていく。
希望は足元に広がる花に瞳を落とした。
そうなると吾郎の目線からは希望の表情が伺えない。
気に入らなかったのだろうか。そう思っていると子供が小さな声を洩らした。
「…吾郎」
「うん?」
「こういう桜は多分無理だから、匂い桜でいい」
「ん?そういう種類の桜があるん?」
「ああ。あと…そのときには、じい様の分も用意してくれないか?」
どことなく遠慮がちに紡がれた言葉は、それでも祖父への思いやりに満ちていた。
希望の髪をかき混ぜながら吾郎は笑う。
この子供に出会えた事を、心の底から嬉しく思った。


「ええで。両手いっぱいの桜を用意したる!」



ラブ・パレード44






高林弁護士は墓前に供えられた花に目を向けた。

彼は花の種類に明るくない。
だから、青年がその腕いっぱいに持ってきた花のことも知らなかった。
その名前を尋ねると、青年は笑みを浮かべたまま答えた。
「これはね、匂い桜ていうんです」
今年33の齢を数える青年の表情は穏やかだった。
「本当は希望と約束したかったのは桜…あの、お花見とかするやつやったんですけど、
あの桜の木はあんまり折ったりしたらアカンらしくて」
「そうなんですか。知らなかったな」

薄紅色の花弁は、桜に良く似ていた。
違いといえば香りだろうか。この花の方が桜よりも香るような気がする。
「桜の木は繊細やから、途中から折ってしもたらそこから弱ってしまうこともあるらしいんですわ。
それを多分、希望は知っとったんや思うんです。それでこの匂い桜でいいって言うて…」
そこで青年は昔を懐かしむように琥珀色の瞳を細めた。
はんなりと香るのはやさしい過去を持つ花のもの。
高林はその墓の主に向かってもう一度手を合わせた。

「赤谷さん」
「はい」
「これはあくまで僕の主観ですが…」
高林弁護士は空に目を向ける。
「…許してくれていますよ。きっと」
風に舞う薄紅色の花びらは、薄い空に滲むように綺麗だった。


「…きっとね」



前夜T








「前夜U」へつづく














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