「ラブ・パレード43」

<ただひとつ確かなこと>




白い吐息が空へ昇っていく。
藤堂希望はそれを見送りながら暮れていく空を眺めていた。
1月の空はどこか薄い色をしている。冬至を過ぎ徐々に陽が落ちるのは遅くなり始めていた。
もうじき冬が終わる。

希望は葉の落ちてしまっている桜の木の下で大きく息をついた。
1月の12日。
今日は自分の、16歳の誕生日だった。


学校が終わるとこの場所に直行した。
後見人の男はいつ帰ってくるのかわからない。
けれども今日だけは、家で待ってなどいられなかった。
だから職場からの帰り道に、吾郎が必ず通るこの場所で待っておくことに決めた。
1月の桜の木は丸裸で、いかにも寒そうに見えた。
春になると満開の桜が咲くそこは、男も、そして希望自身もとても気に入っている場所だった。





希望は倒れそうなくらい緊張していた。
心音が五月蝿い。
ひどく心細くて、今にも逃げ出したい感情が溢れてくる。
(…だが)
自分で決めたことなのだ。
希望は思った。
自分の感情がどうやっても変わることがないことは、とうの昔に理解してしまっている。
そうして自分の出来ることはただひとつしかないことも。
今から行うこの行為は、そのきっかけを作ることだけなのだろうことも理解している。
要するに自分は「踏ん切り」が欲しいだけに過ぎないのだ。


あの幼い日の約束でもない戯言を、吾郎が覚えているはずがなかった。
だというのに。
痛いぐらい分かっているはずだというのに。
心のどこかで、奇跡を必死で祈っている自分が居ることも事実だった。
情けない。
少女は小さく息を吐いた。
本当に自分は情けない。



しんしんと夜はやってくる。
どれくらい時間が経ったのか分からない。
しかし手も足も、髪の先まで凍えてきたところで聞きなれた声が自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。


希望は強張った顔を上げる。
坂道の途中。
両手をジーンズのポケットにつっこんだまま、驚いたように自分を見ている男の顔が視界に飛び込んできた。


男は驚きながらも相好を崩す。
そうして冬の夜に不釣合いなほどの明るい笑顔を浮かべた。
何をどう言えばいいのだろう。
心臓の音が五月蝿かった。何故か恐怖に身体が震える。
考えていた言葉たちが消えていく。
頭が真っ白になった。こんなことは初めてかもしれなかった。
しかし希望の状態など知らない男は、あっさりと希望の前まで歩いてくる。
青年の不思議そうな顔がいつもの距離で視界に飛び込んできた。
近くもなく遠くもない、いつもの距離。

その瞬間―何故だか胸が詰まった。

まったく、全然。
何も考えられない状況だった。
だけども何かを伝えたかった。
だから希望は必死で口を開いた。


「……今日」

そうして零れ出たのは、あまりにも言葉足らずで曖昧な言葉だった。
だけどもそれは希望が今まで支えにしてきた、あらゆる想いを詰め込んだ言葉だった。



「16歳に、なった」







ラブ・パレード43








俺もその場にいたんだ。
桐野は言った。

「交差点で子供が飛び出してきた。赤信号だった」

「俺は動けなかった。一瞬のことだった。次の瞬間には子供は歩道に転がっていて、希望ちゃんが車道にいた」



桐野の声は掠れていた。
携帯電話の向こう。
表情など見ることができないはずなのに、吾郎には桐野の浮かべているものがはっきり見えるような気がした。


「希望ちゃんが車に撥ねられるのが見えたよ。俺は…」

何も出来なかった。







―嘘だ。
そんなこと、あるはずが、ない。



それはどう考えてもおかしい。
だってそれは…おかしいだろう。
そんなことは一度だって考えたこともなかった。
…そうだ。
逆のことならば考えたことが、ある。



もしも自分が誰かの命を救うことができて。
その上で自分の命が無くなったとしても、きっと悔いはない。


何故ならそれは希望に・・自分の尊敬する人間に胸を張れることだからだ。
自分がなりたかった人間に少しでも近づけることだからだ。

「よくやった」

あの少女ならそう言うだろう。
泣きながら、怒りながら。
それでもきっとそう言ってくれる。
あの誇り高い少女なら、きっと。


だが自分は違う。
そんなことで喜べない。
自分は卑小でどうしようもないくらい自分のことしか考えていない。
だから喜べない。
少女を褒めてやれない。



なあ…嘘だろう、希望。

俺は、こんな未来の為に送り出したんじゃない。





吾郎はただ、その場に立ち尽くしていた。

手にしたままの携帯電話からは親友の声が続いていたが、既に頭には入らなかった。
思い浮かぶのはただ一人。
自分が手放した、ひとりの少女。

「16歳になった」



思い出すのは数々の言葉。


「私は気づいてしまった。…気づいてしまったから…もう、側にいることすら、出来ない……」


思い出すのは数々の表情。


「涼子さんと家族になりたがっていたじゃないか。あんなに、惚れていたじゃないか。わかっているのか?
私が居なければ、お前はきっと、もっと早く自分の望むものを手に入れることが出来たはずなんだ。」



彼が思い込んでいることとは違うこと。
けれどもそこにきちんと隠されていたもの。



「私はずっと」



少女は真摯な瞳で青年を見上げる。
誰よりも真面目で、結局のところ単純なだけの少女は嘘をつくことなど知らない。


「私はずっとお前の…『お嫁さん』になりたかった」


そうだ。
それは自分が一番知っていたはずだった。


希望は、嘘だけは……。


携帯電話が男の手から滑り落ちた。
アスファルトにぶつかったそれは、乾いた音を立てて道の端へと転がっていく。
吾郎の顔は蒼白だった。
薄い色の瞳が驚愕に見開かれる。
やがてその喉からは、掠れた声が絞り出された。

「…希…望……」



そうして次の瞬間。 吾郎は弾かれたように踵を返した。







ただひとつ確かなこと








「ラブ・パレード44」へつづく










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