「ラブ・パレード41」

<すり抜けるもの>







…ありがとう。さよなら。





2月が過ぎるのは早い。
吾郎の風邪も完治し、庭先の梅の花も満開を迎えた。

いつも通りの会話。
いつもの通りの毎日。

少女は男がそれを望んでいると思っていたし、男も少女がそれを望んでいると思っていた。
だから日々は瞬く間に過ぎた。



3月20日。


その日も、だからふたりは普段どおりだった。
終業式は昨日終わったのだと少女は言った。
そうしてほんの小さな荷物だけを持って玄関に立つ。
靴を履き、そうしてくるりと振り向いて吾郎を見上げた。
「吾郎」
「うん?」
希望は言った。
「最後に言いたいことがあるんだ。黙って聞いてくれるか?」
その言葉に、吾郎は思わず目の前に立つ少女を見下ろした。
開け放しの縁側の窓からは冷たい、けれどもどこかあたたかな風が吹き込んでいた。
3月の空は晴天だった。
旅立ちに相応しい、爽やかな陽気。


希望は吾郎を見上げている。
上がりかまちに立ったままの吾郎の背丈はいつもよりはるかに高かった。
玄関に立つ希望の背はいつもよりはるかに低かった。
その身長差に吾郎は既視感を覚えた。
出会ったころの距離。
希望もそう思ったのだろう。
少女はかすかに…そう、かすかに微笑んだ。
幼さの存分に残る頬の線を緩め、わずかに瞳を細める。
滅多に笑わない少女の笑顔はひどくやわらかかった。
笑みをかすかに頬に残したまま、少女は吾郎の名を呼んだ。
黙ったまま見下ろす吾郎に、希望は笑顔と同じようなやわらかな声でこう告げた。
「…今まで、本当にありがとう」
「…ありがとうなんて言葉はおかしいで。俺こそ…」
「黙って聞くといったろう」
先ほどの約束を反芻されるとぐうの音も出ない。
口をぱくぱくさせる男を見上げながら、希望はさらに微笑んだ。

「ありがとう」

そうして希望は踵を返す。
微笑みを浮かべたまま、扉に手をかける。


少女が開けた扉からは春のやさしい風が吹き込んできて、吾郎は思わず瞳を細めた。
やさしい、やさしい春の風。
あのときとは違う。しんと冷え込む秋の空気は今はない。
だから大丈夫だ。



「希望」

少女は振り返った。その少女に吾郎はとびっきりの笑顔を作って見せた。
旅立つ子供には一番の笑顔を。
それはずっと、ずっと前から彼が決めていたことだった。
少女が振り向かずに前へ行けるように。
それが自分に出来る精一杯のこと。


「元気でな」



希望は瞬いた。
やがてゆるゆると苦笑を浮かべ、その頭を深く、深く下げた。




それは春に近い、3月の話。




ラブ・パレード41









希望の居なくなった家は驚くほどがらんとしていた。
なんとなく窓を開け、吾郎は大きく息を吸い込む。
空は高い。
晴れてよかったと男は思った。



きなこ色の猫は、しばらくの間いなくなった少女を探しているようだった。
毎日、猫に餌を与えていたのは少女だった。寝床を共有していたのもほとんど彼女だった。
不思議そうな顔で歩き回り、主の居なくなった部屋を覗き込んではきょとんとしている。
しかし3日もすると吾郎に餌をねだるようになった。
仕方ないのう。お前で我慢してやる。
まるでそう言わんばかりの態度で吾郎の脛に頭突きをする。
「痛てっ」
そのたびに吾郎は呻いた。呻きながらきなこ色の猫を避けようとする。
しかしうまくすり抜けられ二度目の頭突きを食らった。
この猫はこういう時、希望にはじゃついていたような気がする。
足元にまとわりついては甘えたような声を出していた。
「お前、希望の時と随分態度が違うやんけ」
ぶつぶつと文句を言ったが猫はそしらぬ顔でしっぽを揺らめかせる。
そうしてぶにゃあと声をあげた。まるで、吾郎に呆れたような鳴き声だった。
吾郎は屈みこむ。
そうしてきなこ色の毛並みを撫でてやった。
大きな猫。この猫に小さな膝を占領されて、それでも必死に正座を保っている少女の姿が思い浮かんだ。
この猫は随分自由気ままな性質だったが、それでも彼女はよく可愛がっていたように思う。
つかず離れず、まるで自分たちの関係と同じように。



「なあ…きなこさん」
彼と猫はたぶん同志だった。
そんな関係も。
そしてその存在をなくして思う感情も。
「……ごめんな」
猫はまるで答えるようにぶにゃあと鳴いた。



元気かな、と思うことはあった。
会いたいと思うことは…正直言えば毎日だった。
まったくいい年をした大人が情けない。
だけど彼は自分の選んだ答えに間違いはないと思っていた。
桜が咲き始め、もうじき高校2年生になる少女のことを思い出す。
少女からの連絡はなかった。
彼から連絡もしなかった。


少女が家を出て二週間。
きっと元気で居るだろう。
幸せになって会いに来る。少女はそう言った。
いつか必ず来るその日を吾郎は信じていた。
だからそれまで、彼も誇り高く生きていこうと決めていた。
少女に軽蔑されるような生き方だけはしたくはなかった。


涼子からは一度だけ連絡があった。
結末だけを伝えると涼子はしばらく沈黙し、そうして呆れたように馬鹿、とつぶやいた。


桐野は何も言わなかった。
小さな頃から彼はいつも吾郎の意見を尊重してくれる。
しばらく黙りこんだ後、そうかと頷いた。


鈴といえば相変わらずの柔和な笑顔でこう言った。
「そうかあ…希望ちゃんの小さな頃からの夢が叶わなかったんだねえ」
「夢?」
「そうだよ。吾郎くんったらもったいないことをしたねえ。」
「……?」



4月に入って幾日か過ぎた。
よく空は晴れていた。
春一番はとうの昔に過ぎたというのに風は強かった。
薄い水色の絵の具を溶かし込んだような空に薄紅色の花びらが鮮やかに舞っている。
そんな日のことだった。



仕事が終わり、家に向かう途中に携帯が鳴った。
「もしもし、桐野?」
着信番号は幼馴染のものだった。
気安い気持ちで出ると、桐野のかすれた声が飛び込んできた。
「吾郎か。今、どこだ?」
「仕事の帰りや。家の近く。どないしたん、そないな声で」
「……」
桐野はしばらく黙り込んだ。電話の向こうからはなにやら音が響いている。
がらんとした空間に居るかのような音。そして人の声。
「桐野?」
「…吾郎。いいか、落ち着いて聞け」
吾郎は桐野のただ事ではない雰囲気に黙り込む。知らず、立ち止まっていた。
桐野の妻は出産を控えている。
まさか彼女の身に何かあったのだろうか。
しかし次いで出てきた名前は違う人物のものだった。


「…希望ちゃんが」


どくりと心臓が跳ね上がった。
嫌な気配に背中が粟立つ。
それは彼の家族の名前だった。
そして彼が大切な故に手放した…大切な故に手に入れることを諦めた少女の名前。


幼馴染は告げる。
その出来事を。
押し殺したような、かすれた声で。


「希望ちゃんが事故にあった」








すり抜けるもの








「ラブ・パレード42」へつづく






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