「ラブ・パレード40」

<最後の約束>






覚悟はとうに出来ていた。

それは離れる覚悟。
手放す覚悟。


いつもの日常を。当たり前のようにある日常を。

側にいる存在を。何よりも愛しい存在を。


引き換えは希望という少女の未来。
それは、決して悪くない取引。


だから男は思う。
空を見上げれば舞うのは薄紅色の欠片。



男は思う。
苦笑を浮かべ、空を仰ぐ。


……幸せになってさえくれれば、自分のものにならなくたってかまわない。



まるで自分に、言い聞かせるかのように。









ラブ・パレード40










驚くべきことに、赤谷吾郎は次の日には全快していた。

朝早くから風呂に行ったのだろう。
実にさっぱりとした表情で台所に立つ希望の前に姿を現した。
「おはようさん、希望」
「おはよう。もう、いいのか」
「おかげさまで。いやあ、むしろ余計に元気になったというかなんというか」
吾郎は軽快に笑った。
「で、朝ごはんは何?俺は卵焼きが食いたいなあ」
「駄目だ」
ぴしゃりと希望は答える。
そうしてぐつぐつ音を立てている小さな土鍋を指し示した。
「一応病み上がりなのだから、今日は粥にしておけ」
「えー…」
「……」
「いや、もちろんお粥もおいしいんやけどなあ。こう、なんというかお粥って腹に溜まらんやろ?
せやからすぐに腹が減るなあ〜なんて…」
「……」
あからさまに肩を落とす男を希望はしばらく眺めていたが、やがて軽く息を吐いて冷蔵庫を開けた。
「…卵を落としてやるから、それで我慢しろ」




「そういえば」
希望は吾郎が美味しそうに粥をすする様を見ながらつぶやいた。
「寮に入れる日が決まった」
吾郎はきょとんと瞬いた。
そうして再び粥に眼を落とし、そうかと頷く。
「いつなん?」
「早くて3月の20日。一応、その日にこの家を出ようと思う」
「…荷物はその日に運ぶん?俺、休みとるで」
いや、と希望は首を振った。
「一人で運べると思う。寮には備え付きのベッドやクローゼットがあるんだ。
食事も学食で食べることになっているし、一応共同キッチンもある。だから、荷物は本当に少なくていい」
「でも」
「…友人も手伝ってくれるといってくれているんだ。だから、心配要らない」
「ああ…そっか。せやな」
吾郎は頷く。
そうしてしばらく黙りこんでいたが、やがておもむろに切り出した。

「なあ、希望」
「なんだ」
吾郎は空になった椀を傍らに置き、困ったように微笑んだ。
「お前、ここにはもう二度と帰ってこん気なんやろう?」
「……」
希望は瞬いた。 自分の覚悟。 それを見抜かれていたことに驚き、咄嗟に声がでなかったのだ。
俯いていると、目の前の吾郎が立ち上がる気配がした。
怒ったのだろうか。そう思っているとすぐに戻ってきて希望に何かを差し出した。
「…これは…?」
「お前名義で作っとったんや。こっちの新しいのに毎月の生活費は振り込んどくから、学食以外でもしっかり栄養のつくもん食べんとあかんで」
「…………」



希望は目を見開いて2冊の通帳と判子をみつめた。
表にあるのは自分の名前。そのうちの1冊は随分古い。
そうっと古いほうのページを捲ると、そこには想像以上の金額が並んでいた。
毎月きちんと振り込まれている額にさらに息を飲む。
何故、と思うと同時にこれは定期預金というものなのではないかと思った。
いつも吾郎は安月給だと言っていた。
車が欲しいと常々言っていたくせに。
欲しいものもろくに買いもしなかったくせに。
それなのに…これは。





「…やっぱ大学とか行くのには足りへんかな」
「そ、そういうことじゃない」
吾郎の困ったような声に希望はあわてて首を振った。そんなことじゃない。
この男は馬鹿だ。やっぱり大馬鹿だ。
こんなもの貰うわけにはいかない。
「これは受け取れない。生活費なら奨学金でなんとかなると思うから大丈夫だ。
バイトだってしようと思っている。だからこんなこと、お前がする必要は無い」
突き返すが青年はそれを受け取らなかった。
ひどく真面目な表情で首を振る。
「お前ってしっかりしてるようで甘ちゃんやなあ」
「何を…」
「ここで問題です。学生の本分は何でしょう」
「…学問」
はい。よくできました。
吾郎はにこりと笑う。
「学校はな、自分の将来の為の大事な栄養分なんや。もちろん学校生活もやけどな。それを疎かにしたらアカンの」
「しかし…」
「俺は藤堂希望っちゅう子供のなんでしょう」
「…後見人」
「近いけどはずれ」
男は笑い、そうして手を伸ばして少女の髪をわしわしと撫でた。
「お前ときなこさんは俺の家族や。何があってもな」
わざと乱暴にかき回す。
「それにこうみえても俺は一応大人やねん。大人っちゅうのはな、子供の生活を守るのが役目や。
せやから俺は当然のことをしとるだけや」
「……」
「俺はたいがい情けない奴やけど」
吾郎は照れたように琥珀色の瞳を細めた。

「少しは、大人らしいことをさせてくれへん?」




希望は震えそうになる唇を噛み締めた。
そうして、耐え切れずに俯く。
髪をかきまわす手は、ひたすら大きくてあたたかい。



ああ、と希望は思った。
この男は変わらない。そう思うと知らず胸が詰まった。
本来なら誰にでも当たり前に与えられる揺ぎ無いもの。
それをこの男は今でも自分に、そんな義務などどこにもないのに与えようとしてくれている。
馬鹿だな、と思う。
家を出る「他人」にまで。

「……」


希望は思う。
昨日ずっと考えていたこと。
大切な…誰よりも大事な存在に自分が出来ること。
多分それは、たったひとつ。





やがて俯いていた希望が小さく口を開いた。

「…いつか…」
「うん?」
「いつか…必ずここに遊びに来る。来ても、いいだろうか」
「そりゃあ」
吾郎は慌てて頷いた。
「当たり前や」
「…うん。ありがとう」
希望が顔を上げる。そうしてふわりと微笑んだ。
それは吾郎でさえ始めて見る、16歳の少女らしいあどけない素直なものだった。
思わずぽかんとする男を見上げて少女は言う。
「約束する」



いつか。必ず。
希望はそっと胸の中でつぶやいた。
いつか胸を張って―心の底から幸せになったと言える時がきたら会いに行く。
もっと大人になって、吾郎の幸せと自分の幸せを心の底から祝えるようになったら、必ず。
多分これが吾郎にとっての一番の恩返しになるはずだから。
お人よしの男が願うのは、きっと自分の幸せより家族の…私の幸せだと思うから。
だから私は全力で幸せになろう。
だから、必ず。
―必ず、約束は守ろう。


「…指きり」
希望は右手を差しあげた。
軽く指を曲げ、小指を男の眼前に突き出す。


これもこの男が教えてくれたことだった。
教わったことは本当に数え切れない。
その大部分がたとえくだらないことばかりだったとしても、そのひとつひとつはやはり楽しく、興味深かった。
そう。吾郎のようにささいな日常を楽しく感じることができたら人生は今の10倍は楽しくなるに違いない。
そう、思った。




希望は赤谷吾郎という青年のことを尊敬していた。
馬鹿だとも思うし鈍感だとも思う。
腹立たしいことだってあるし情けなく思うこともある。
だけども彼は尊敬に値する人間だ。希望はそう思っていた。
少なくとも彼は他人の気持ちを自分のことのように考えようとすることのできる人間だった。
それはとても稀有なことで見習わなければならないこと。


今にして思うと初めて会った時からこの男はそうだった。
ぼろぼろの姿で笑っていた。随分な貧乏くじを引かされたのにそんなこと気にもしていなかった。
小さかった自分は驚いた。なんて馬鹿な奴なんだろう。そう思った。

だけれど―その時から、きっと恋ははじまっていた。


あのときの子供の自分も、今の希望も思っていることがある。


―私もこの男に負けないように誇り高く生きたい。


そう、いつか。
大きく胸を張って、笑顔で会いに行けるように。




小指を目の前に出された男は、しばらくの間呆けたように希望をみつめていた。
やがて苦笑を浮かべると、その指を少女の小指にからめた。
からめた指に力を入れ、男は希望の好きな笑顔で笑う。


「ああ―約束な」













最後の約束








「ラブ・パレード41」へつづく






・・・・・・・・・・・





戻る