「ラブ・パレード4」

<小さなヒーロー>




ああ。俺は馬鹿やなあ。
薄れゆく意識の中で17歳の赤谷吾郎は思っていた。
そう。いくらなんでも5人を相手に喧嘩を売るなんて無謀だったのだ。


鈍い音が脳裏に響く。
誰かの足が腹にめりこむ。
衝撃で視界が暗くなる。
喉元から何かがせり上げてくる。
気味の悪い感触が思考を支配する。
激痛に全身が震える。
誰かの嘲笑が、聞こえた。




頭上で交わされる会話は、既にぼんやりとしか頭に入ってはくれなかった。
胸部が圧迫されて呼吸さえ上手く出来ない。酸素を求めて喉が奇妙な音を立てて震えるのがわかった。
するとふいに無防備になった背中に鋭い衝撃が走った。
たまらず頭からアスファルトに倒れこむ。今度は口内に鉄の匂いが充満した。
蹴られたのか殴られたのか。それを知ることすら儘ならずに少年は呻く。
自分の身体だというのに何一つ自由に動かせなかった。
絶え間なく響く振動と鈍い音。
鋭く鈍く、そうして長く短い痛みに脳内が痺れた。



――ナイフ



不意に軽い調子で交わされている会話の断片が耳に入り、吾郎は必死に腫れ上がった瞼を見開いた。
周囲からは先ほどよりも明るく、高い笑い声が響いている。
血と暴力に興奮した奇妙な音。その笑い声に背筋が冷えた。
視界に鈍く光るひとふりの銀の刃が映りこむ。
そうして一人の少年がそれを振りかざすのが見えた。
顔には奇妙な「笑み」を浮かべて。


――喧嘩慣れしている者の方が力の加減というものを知っている。
しかし目の前に居る同年代の少年らはそうではなかった。
そこらに普通にいそうな、ただの高校生。
喧嘩もろくにしたこともないから、人の痛みや加減も知らない。
想像することすら出来ない。
そんな若者達が集団心理を友とし「遊び感覚」で人を殺すことだって、昨今珍しいことではなかった。

…これは。

薄ら寒いものを感じて手足を動かそうとするが、もはやそれは使い物にならなかった。
いたずらに空をかく手の甲を踏みつけて少年達は楽しそうに笑う。

…ヤバイ…。

吾郎は思わず顔を青ざめさせた。
そしてこれから起こるであろう激痛に歯を食いしばる。
痺れた脳がはじきだすのは、純粋に死を恐怖する感情のみだった。









――しかし、いつまでたっても覚悟していたものは訪れてこなかった。

「……?」
代わりに手の甲を押さえつけていた重みがふっと消え失せる。
不思議に思いそろそろと瞼を開けた吾郎の瞳に、側に居た少年の身体がぽかりと宙に浮いている光景が飛び込んできた。
「…へ?」
そうして次の瞬間。
激しい音と共に眼前にそれが叩きつけられてきた。
いきなり時間が動き出したかのような感覚に戸惑う間もなく音は続く。
薄い砂塵が視界の中で舞い踊っていた。
「……」
声を上げる間は与えられなかった。。
それより先に、もうひとつの身体が空に舞う。
苦悶の声が響く中、そうしてさらにもうひとり。
そこでようやく吾郎は知った。
先ほど眼前に叩きつけられてきたのが、自分の手を踏みつけていた少年であったことを。


「な、なんだこのガキ…」
情けないほどに上ずった声が耳に飛び込んできた。
「な、な、なにをしやがった…!!」
「…喧嘩というやつだ。馬鹿ものどもが」
それに答えたのは淡々としたひとつの声だった。
偉そうな口調に落ち着いた声音。
しかしその音だけはひどく幼く路地に響いた。

吾郎は思わずぽかんと口を開けた。
薄暗い路地の真ん中に凛々しく立っている声の主は、ひとりの小さな子供だったのだ。
ぶかぶかの黄色い帽子。斜めがけした黄色いカバン。
水色のスモックの胸元には、赤いチューリップ型の名札がちょこんと付けられている。


目の前の幼女は少年達を見上げたまま、ゆっくりとその口を開いた。
「…もっともお前たちのように、大勢でひとりの者に暴力をふるうようなことを喧嘩だなんていわないが」
ふわふわとした髪に小さな顔。猫のような大きな瞳。
愛らしいとも言える容姿をしているくせに、その言葉はどこまでも辛辣で容赦がなかった。
「スネかじりの阿呆ども」
子供は凛とした瞳で一同を睨み上げる。
「喧嘩というやつが知りたいのならばこの私が教えてやる。どこからでもかかって来るがいい。ただし…」
そうして実に堂々と言い放った。


「容赦はせん」




ラブ・パレード4







間宮桐野が藤堂希望という少女に出会ったのは、もう11年前のことになる。


11年前の桐野は18歳。高校3年生だった。
受験で忙しい時期。しかしそれにも関わらず、いきなり彼の幼馴染が古武術の道場に通いだした。
そうして、それを不思議に思った桐野が見学に行こうとしたのが始まりだった。
学校帰りに見学してもいいか。そう尋ねると幼馴染はのんきそうな表情で頭をかいた。
「ええよ。あ。でもなあ、まずは師範代をお迎えに行かなあかんねん。その後でええ?」
「迎え?」
随分と古い、小さな道場だとは聞いていた。
その師範代とやらがどこかに出かけているのだろうか。
そう訊ねた桐野に向かって幼馴染は明快に笑う。
そうして実にあっさりと、しかし大抵の者が聴けば驚くようなことを言ってのけた。

「うん。お迎えなんや。『幼稚園』にな」



「やあ」

非常ににこやかに間宮桐野は片手をあげた。
「早かったね。お昼はもう食べたのかい?」
「…はい」
朝同様、むっつりとしたままの少女に、桐野はさらに微笑んで見せた。
「まあまあ。そんなに不機嫌にならないでさ」
「…この顔は生まれつきだ…です」
桐野は藤堂希望のぎこちない言葉に一層笑む。この少女のことは11年前から良く知っている。
彼女が表情に乏しいことは重々理解していた。
「まあまあ。あ、そこに座って。ああ、敬語もいいからね」
その言葉に少女は素直に頷いた。
しかし次の瞬間、わずかに尖った瞳を教師に向ける。
「桐野。話とはなんだ」
「なんだと思う?」
あくまでにこやかな桐野に少女は小さく首を振った。
「…心当たりが山ほどある」
「だろうね」
「……」
桐野は傍らに置いてあった封筒から書類を出し、机の上に広げてみせた。
「まずこれが一番だね」
「……。お前は私の担任ではないだろう。どうしてそのことを知っているんだ」
桐野とは逆に、いっそう不機嫌になった希望の瞳が険しくなる。
「君の担任の先生とは仲が良いんだよ。まあそれは置いといてさ。これ、本気なのかい?」
桐野の声はあくまで柔らかい。
「もちろん吾郎は知らないようだけど」
「……」
「希望ちゃん。これは…吾郎と暮らすのをやめるってこと、だよね?」
「………」
希望はわずかにその顔を俯けた。


この進路相談室は3階にある。
開け放たれた窓からは、柔らかな風が流れ込んできた。
桐野は目の前の少女から視線を外し、窓の外をみやる。
空気はまだ冷たいが、あたたかな日差しは心地よかった。

「桐野」
「うん」
少女の声に桐野は目線を室内に戻した。目の前の少女と瞳が合う。
風が進路指導室に居る二人の髪を揺らして流れていく。
窓からこぼれてくるそれは、ともすれば沈黙に支配されそうな空間を優しく和らげていた。
その風に後押しされるかのように、少女はそっと言葉を吐き出す。
「…私は、狭量なんだ」
その言葉にさすがの桐野も目を瞠った。
「……。ええと、希望ちゃんが?」
少女はこくりと頷く。
「とてもとても度量が狭い。…自分でも嫌になるほどに」
少女の瞳は真摯だった。
そうしてどこか悲しげでもあった。
「だから…決めたんだ」
「…そう」
桐野は浮かべていた笑みを消した。
希望の想いは希望にしかわからない。
だから彼には半分ほどもその意味を理解できなかった。
しかしそれでも、少女の覚悟だけはひしひしと伝わってきた。
冗談や酔狂ではない。目の前の少女はあくまで本気だった。
「…吾郎とは家族じゃなくなる。吾郎と君は元々何の関係もないんだ。君があいつに会う理由さえもなくなるね」
希望の瞳がわずかに揺れる。
しかしその声だけは凛としていた。
「ああ」
「後悔はしないかい?」
わざとそう問うと、少女は苦笑に近い笑みを浮かべた。
「…意地の悪い質問だな」
「うん。そうだね」
桐野は手元の書類をひらりと振る。
「…後悔は、しないかい?」
重ねて尋ねると、少女はなにかを振り切るようにその顔をあげた。
そうしてしっかりと頷いて見せる。
「ああ」




大切な思い出がある。
大切な…大切な人が居る。


「なあ希望。これから俺らは家族になるんや。よろしゅう頼むな」

あのとき。
ぽかんと彼を見上げる自分の髪を、赤谷吾郎は無遠慮にかき混ぜた。
そうして、あっさりとこう言った。

「ほれ、一緒に帰るで」








小さなヒーロー








「ラブ・パレード5」へつづく







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