「ラブ・パレード39」

<やさしい過去>





「似合わん…」
午前9時。
赤谷吾郎はアパートに備え付けられてある共同洗面所の鏡を覗き込んでは呻いていた。
「駄目や…なんか変や。似合わんにも程がある。うう、でもスーツはこれしかないしなあ…」


その日、吾郎にはやらなければならないことが山のようにあった。
ひとまずは昨日、藤堂家の子供を拉致同然に連れてきたことをその親族に謝りにいかねばならない。
それから今後のことの話し合いに契約手続き。
高林弁護士が同席の上なので心強いが、それでもいろいろ面倒なことが起こるに違いがなかった。



とりあえず深夜のうちに幼馴染である少女に連絡をし、当日は子供をまかせることに決めた。



「銭湯?いいよ。あ、そうか…確かに希望ちゃんにごたごたは見せたくないもんねえ…」
鈴は深夜だというのに吾郎の頼みをこころよく引き受けてくれた。
桐野から事の顛末だけは聞かされていたのだろう。
もう心配したんだからね、と言って軽く笑った。
「でも吾郎君偉いね。そこまで考えがまわるようになったなんて、大人になったんだねえ」
電話でしみじみと語る鈴に吾郎は苦笑する。
「せやろーって言いたいけど、実はな、そういうごたごたを子供に見せるなってのは桐野がうるさくいいおってん」
「ふふ、やっぱり?まあ希望ちゃんのことはわたしにまかせて。
あ、そういえば何時までに帰ったらいいの?なんならうちに泊めてもいいけど…」
吾郎は鈴の申し出にしばらく考えた後、こう答えた。
「いや…希望も心細いやろうて、ここに帰したって。
ええと、夜の8時ぐらいまでには死ぬ気で帰ってくるさかい」


電話を切り、部屋に戻った吾郎はせんべい布団の上で眠っている子供を見やって苦笑を浮かべた。
祖父を亡くして2日。葬儀の日に吾郎に拉致されて1日。
通常では考えられないようなことが立て続けにあった後である。
もしかしたら夜は眠れないんじゃないかと危惧していたが、当の希望は実に気持ち良さそうに眠っていた。

子供用の布団もいるなあ。そう思いながらもぞもぞと布団に入る。
秋の半ば。さすがに布団なしで眠るのには辛い時期だ。
この家には吾郎の布団しかないのでやむなく一緒に寝ることになったが、希望が嫌なそぶりを見せなかったので助かった。


次の日。
目を開けた吾郎が見たものは、子供がちんまりと布団の上に座って自分を見ている姿だった。
まるで座敷わらしのようだ。そう思いながら笑みを零すと、人を見て何をへらへらしている、と叱られた。
だって寝起きの座敷わらしみたいやもんなあと思ったが、それは言わなかった。


起きたはいいものの、赤谷家には子供用の歯ブラシも着替えもなかった。
なにしろ昨日、彼が子供だけを拉致してきたのだから当然のことだろう。
希望は寝巻き代わりに吾郎が貸したTシャツを着たままさすがに困っているようだった。
でかいワンピースに見えんこともないし、今日はそのままでいいんじゃないかと言うとさらに叱られた。
子供って難しい。


そうこうしていると桐野がやってきた。
何事かと問うと今日はこれを着ておけ、ああいう場での印象は大事なんだぞ、と言って帰っていった。
渡された紙袋を見ると桐野の父親のものであろうスーツと、小さな女の子用の服が入っていた。
さらに見ると歯ブラシまで入っている。
今日はバイトなんだと慌しく去っていく桐野の背中にありがとうと告げる。
幼馴染は振り向かずに片手だけを振って見せた。



やがてやってきた鈴に希望を託して送り出し、自分の身支度を整えていた吾郎は違和感のあるスーツの裾をひっぱりながら悩んでいた。
実のところスーツを着るのは初めてである。
「うーん。これはスーツに着られているっちゅうねんな」
鏡を覗いて、ぶつぶつとつぶやいている時にその来訪者はあらわれた。



「ごめんください」
吾郎は、その聞きなれた声に3回瞬き、そうしてあわてて共同玄関に飛び出した。
「真砂子さん!」
そこには藤堂家に仕えていた家政婦の女性が立っていた。なにやら大きな荷物を抱えている。
勢いよく出てきたスーツに「着られた」青年にも驚いた様子はない。
彼女はいたっていつもの通りに淡々とした表情を浮かべていた。

「おはようございます赤谷さん。お嬢様がここに居ると伺ったのですが…」
「ああ、うん。居てます。けど今銭湯に行ってて…。あ、俺の幼馴染に面倒は頼んだんで心配はいらしまへんで」
「そうですか…」
「あの、中にどうぞ。汚くて狭いですけど」
「…ええ。ではお邪魔致します」



「真砂子さん、帰ってたんですね。旦那さんの具合はもうええんですか?」
真砂子は頷いた。そしてかすかに苦渋の表情を浮かべる。
「御陰様でうちのひとはもう大丈夫です。単なる流感だったのですから。
…それにしても、お暇を頂いているうちにこんなことになるなんて…」
「うん、俺も驚きました」
まさか師匠が、というと真砂子は首を振る。
「たしかに最近、食が細くなられていたので…」
真砂子は赤谷家に長い間勤めていた。
それなのに何故主人の具合の悪いことに気がつかなかったのか。
何故こんなときに休暇を貰ってしまったのか。
「…俺かて、最近仕事が忙しくて道場に行けんかったから…」
真砂子が悔いを残しているのはよくわかった。
それは吾郎にも経験のあることだからだ。

なにか出来たのかもしれない出来事。
そうしてなにも出来なかった自分。



「赤谷さん、これを」
「はい?」
吾郎は渡された大荷物をきょとんとした表情で受け取った。
家政婦はその顔を見てお嬢様の荷物です、と答える。
そうして続けた。
「先ほど弁護士の高林先生にお聞きしました。貴方、お嬢様を引き取られるそうですね」
「はい。あ、言うとくけど、本気ですよ」
「ええ。わかっております」
意外にもあっさりと真砂子は頷いた。そうして深々と頭を下げる。
「お嬢様をよろしくお願い致します」
「え。えええ…?ま、真砂子さん、頭をあげてくださいよ…」
慌てる吾郎に向かって、真砂子はさらりと続けた。
「貴方は若造で口の利き方もしらない無礼者ですが」
「へ」
「私は貴方を信用しております」
「……」
「…お嬢様は、玄隆さまにそっくりですから…」
真砂子はほんの少し声音をやわらげた。
「頑固で、可愛げがなくて、意地っ張りで、融通がききませんけれど…」
「……」
「でも、人の気持ちを自分の気持ちのように考えることの出来る子なのですよ」
「……はい」
吾郎は頷いた。真砂子は顔を上げない。
もしかしたら泣いているのかもしれなかった。
「…真砂子さん。俺はね、希望のことを可哀想だとか哀れだとか、そんなことでひきとることにしたんやないんです」
「……」
「俺は単純ですから。単に希望と一緒に居たかったんですわ」
だから、と吾郎は続けた。
「希望が俺を必要としてくれるんならずっと、希望の側に居ようと思うとるんです」
真砂子は顔を上げた。
大荷物を抱えたままの青年は、どこか照れたように頭をかく。


「希望がいつか自分の一番好きな奴を見つけて、俺を必要としなくなるときまで」




真砂子は顔を上げた。
青年の顔を見てそうして初めて微笑みを浮かべた。
それは吾郎が始めて見る、家政婦でない真砂子の顔だった。


「お嬢様を…希望さんを…よろしくお願いします」





ラブ・パレード39








赤谷吾郎は瞳を開けた。
見上げる天井は見慣れた一軒家のもので、そこでようやく自分のおかれた状況を悟った。

(…夢や…希望を連れて帰った次の日の…)

もう何年になるだろう。とても懐かしい夢だった。
今にして思うと、自分も希望も本当に幸せなやつだなあとしみじみ思った。
良い人たちに恵まれた。これは実に幸運なことだ。


ぼんやりとしたまま瞬くと、額からひんやりしたものが滑り落ちた。
それを目で追うと希望が―あのときの小さな子供ではない希望が自分の側に座っているのが見えた。
今でも小柄な為か、やはりちんまりとして見えるのがなんだかおかしい。
思わず笑うと仏頂面のままの希望は口を開いた。
「目が覚めて早々、何をへらへらしている」
「いやだって座敷わらしみたいで…」
「なんだと」
「いや、なんでもないです」



オーナーに職場から抱えられて帰ってきたことは覚えている。
しかしそこから綺麗に記憶がなくなっていた。
時間を聞くと夕方だと答えた。つまりは吾郎は丸一日眠っていたことになる。
身体がだるくて頭が重い。
食欲はなかったが、ただ喉だけが猛烈に渇いていた。
「希望、学校は?」
「…休んだ」
「げ。それはスマンかったなあ。…大丈夫なん?」
「私の心配するくらいなら風邪などひくんじゃない」
仏頂面のまま紡がれる怒ったような言葉。
しかしその瞳は真っ赤だった。徹夜で看病してくれたのかもしれない。



ひんやりとしたやわらかな手が吾郎の額にあてられる。
そうっと髪を払いのける仕草はひどく優しかった。
「まだ少し熱があるな…」
「……」
吾郎はなんとなく希望をみつめた。
そうして思い出した。
少女がこの家からいなくなってしまうことを。


「……」
「どうした」

寂しいとか悲しいとか愛しいとか。…もしくはそれ以上のものとか。
そう思う資格などないくせにその感情はとめどなく溢れてくる。
「いや、なんでもない」
しかし吾郎は笑った。
押し殺すのは得意じゃない。だけど悟られてはならない。
もう二度と、勘違いなんてさせない。
だからあえていつもの通りに笑おうと努めた。
「それよりお前もいい加減寝たほうがええで。俺のほうはもう大丈夫やから」
「……」
徹夜を見抜かれてバツが悪いのか、希望がいっそう顔をしかめた。
「何が大丈夫だ。熱がまだあるくせに」
「でも大分楽やねんで」
「…わかった。じゃあ、お前が何か食べて、薬を飲んだら寝る」
「うう。まだ食欲ないんやけどなあ」
「なら私も寝ない」
「…わかりました」
観念したように吾郎がいうと少女はかすかに目元を緩めた。
粥を作っているからそれを温めてくる。
希望がそういって部屋を出て行くのを吾郎は見送り、そうして深く息を吐いた。










やさしい過去








「ラブ・パレード40」へつづく






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