「ラブ・パレード38」

<風邪ひき男>




飯島が吾郎という男と知り合ったのは、もう10年以上前のことになる。

当時、吾郎は16歳だった。
自分の経営していたフレンチレストランのバイトの面接を受けに来たのが始まりだったと記憶している。
通っている高校の名前を聞くと、地元にある公立高校の名が出てきた。
その高校ではバイトは禁止されているはずだ。
そうというと16歳の少年は困ったように頭を下げた。
少年は金色に近い茶髪をしていて、初見ではひどく軽い印象を受けた。
しかし近くで見ると瞳の色が薄かった。ハーフだろうか。
そう、単純に思ったのを飯島は覚えている。

金が要るんです。少年は言った。
外見に反して真面目そうな声音だった。エセ関西弁であるのも面白かった。
理由を聞いて飯島は少年を雇うことにした。
言ってみれば情にほだされたのである。
母一人子一人。生活苦のためにバイトをしたいと言われれば無下には断れなかった。


少年は真面目だった。
そのくせ明るく、きつい仕事であろうと愚痴ひとつ零すこともなかった。
聞けば少年はあっさりと答えた。
「そんなん、給料もろうとるんやから当たり前ですって」
にこにこと言われればこちらは苦笑いを返すしかなかった。
親の教育がいいんだな。飯島は歎息する。
自分にも子供がふたり居る。これは見習いたいものだ。
しみじみと、そう思った。


しかしまもなくして少年はその母親を亡くしてしまった。
風邪をこじらせて自宅で亡くなった。その母親を発見したのも少年だったという。
慌てて駆けつけると、少年は憔悴しきった蒼白な顔で頭を下げた。
すんませんオーナー。無断欠勤してしもうて。
それどころじゃないだろう。飯島は少年をどやしつけた。
まったく、育ちがいいにも程がある。



少年は高校を卒業したあと飯島の店で本格的に働き始めた。
母親を亡くした後も少年は店ではいつもどおりに明るかった。
飯島は内心安堵していたが、少年が無理をしているということはなんとなくだがわかっていた。
しかし少年がそれを隠そうとしているのなら、あえて指摘することもないだろうとも思った。
気にはかけつつ時は流れ、やがて少年が…すでに青年という年齢になった吾郎が、恩人の子供をひきとったということを聞いて仰天した。
無理をする奴とは思っていたがここまでとは。


飯島は反対した。
吾郎のためを思うなら当然のことだった。
しかし青年の意思は固かった。

…意地や同情、そんなもんやないんです。

青年はひどく落ち着いた表情でそう言った。
そうして笑う。

…ありがとうございますオーナー。心配してくれて。ほんまに俺、オーナーに心配かけてばっかりや。

でも、と彼は続けた。

…大事な「友達」のことなんです。なんとかしてやりたいんですわ。





その後。
吾郎は引っ越した先で自分が後見人となった子供を飯島に紹介した。
吾郎と何の血のつながりもない子供。
後見人になるくらいだ。
よほど吾郎に懐いているイメージがあったが、そうでもなさそうなのが印象的だった。

…はじめまして。藤堂希望といいます。

きちんと正座をして姿勢を正している姿は、まるで昔の武人のようだった。
なるほど。飯島は思った。
吾郎は同情ではないと言った。その言葉がようやく理解できた。


―こいつは本当に、「友人」として出来ることをしたかったのだ。







ラブ・パレード38








日が長くなった。藤堂希望は思った。
これからだんだん暖かくなって春が来る。
そのうち梅の香りもしてくるし、白い木蓮の花もほころびはじめる。
赤谷家の庭には木蓮はなかった。
しかし小さな梅の木が一本あって、ひっそりと春の訪れを運んできてくれている。
希望は小さな頃からその木の下に立っては梅の花を眺めるのが好きだった。
今ではその梅の花と目線は同じになった。
早く咲けば良いな。希望は思った。
この家で見ることの出来る梅の花。
…おそらく、最後の。
掃除をしていた手を止め、狭い庭を見渡していると塀の上をきなこ色の猫が歩いてくるのが見えた。
古びた家に狭い庭。そしてきなこ色の猫。
夕日に照らされたその小さな楽園を少女は心の底から愛おしいと思った。
猫がいかにも重たげに飛び降りてきてぶにゃあと鳴く。
相変わらずの可愛くない声に、希望は思わず頬を緩めた。
その時だった。
玄関から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。




「うおーっす。希望ちゃん開けてくれえー」
その野太い声に、慌てて玄関を開けた少女はさっと表情を強張らせた。
「うっす。久しぶりだなあ、希望ちゃん」
「…うえ…ただいま。」
にかにかと笑う男の肩に掴まるようにして吾郎がかろうじて声を出す。
その顔は真っ赤で、目の焦点も合っていなかった。
「飯島さん…。吾郎、なんだ、どうしたんだ…?」
希望の問いに答えたのは吾郎ではなく、彼の肩を支えていた男のほうだった。
「風邪だとよ」
「え?」
「とりあえず寝かせてやろう。中に入ってもいいかい?」
「はい」
男はずかずかと上がりこむと、勝手知ったる程で布団に吾郎をかつぎこむ。
吾郎はその上に力なく倒れこむと、すぐに目蓋を閉じた。
「うう…寒い…」
赤谷家に余分な布団はない。
希望は慌てて自分の部屋から毛布と掛け布団を持ってくるとその身体にかけてやった。

「ふう疲れた。もうこいつは図体だけは一人前以上だから肩が凝る」
「すんまへん、オーナー…」
飯島はぜいぜいと息を吐きながらその場に座り込んだ。 飯島のの上背は吾郎のそれよりわずかに低い。
髪には白いものがぽつりぽつりとまじっているが、がっしりとした体型が男を実年齢より若く見せていた。
「…飯島さん、一体何が…?」
ストーブに火をいれ、その上に薬缶を置きながら男に尋ねる。
飯島は肩で息をつきながら希望を見上げた。
「吾郎、職場で具合が悪くなってなあ」
「え」
「倒れたりはしなかったんだがな、顔を真っ赤にしてフラフラだわ、ぼうっとしてるわで仕事にならんかったんだ。
で、熱を測ってみると40度近く熱があるじゃないか。で、ケツをぶったたいて病院に連れて行ってきたのさ」
「40度」
「医者によるとインフルエンザじゃねえそうだから安心しな。
まったく、なんだかしらねんけど無理したんじゃねえのか」
「うう…ホンマに申し訳ないです、オーナー…」
吾郎が布団の中からかすれた声を出す。
その言葉に、オーナーと呼ばれた男は布団をぼすんと叩いた。
「阿呆。謝るぐらいなら自分の健康管理ぐらいきっちりしとけ!」
「はい…」
「いいから寝ろ。仕事のことは気にすんじゃねえぞ。とっとと治せ」



飯島は吾郎の上司であり恩人である男だった。
高校生のはじめの頃から吾郎は飯島の経営するフランスレストランでバイトをしていたが、それからまもなくして母親を亡くしてしまった。
当然のごとく金銭面で余裕の無くなった吾郎だったが、なんとか路頭に迷うことなく暮らすことが出来た。
それは母親の残してくれた保険金と、オーナーである飯島のおかげであったと希望は聞いている。
「金がのうてメシも食えんことがあってん。せやけどな、オーナーがよく奢ってくれてなあ。
口は悪いし怒るとめっちゃ怖いけど、いろいろ面倒見がよくて人情味があってな…ほんまにええ人やねんで」
吾郎は希望にそう語ったことがある。
「高校を卒業した後も正職員として働かせてもらうことができたし。ホンマ、ありがたいこっちゃなあ」
しみじみと語る吾郎はそれでも嬉しそうだった。
仕事も、そして飯島という人間のことも。
吾郎は本当に好きなのだな。
そう思った。




「本当にありがとうございました」
少女は飯島にむかって律儀に頭を下げた。
「…飯島さん、仕事は…」
「ああ、俺は今日早出だったんだよ。希望ちゃんが気にすることじゃないからな」
飯島は希望の出してくれた茶をすすると、ちらりと吾郎の部屋に目を向けた。
「それにしても駄目な大人だな、あいつは。希望ちゃんに心配をかけてなあ」
「…いえ」
希望は首を横に振る。飯島はポケットを探ると煙草を取り出した。
火をつけようとし、そこであわてて希望を見る。
「あ、ごめんな希望ちゃん。煙草、吸ってもいいか?」
「はい」
希望が頷くのを見て、飯島は笑って火をつけた。
煙草の匂いと煙が部屋に満ちる。
するといつの間にか側で寝転んでいた猫が瞳を開け、ひげを震わせてくしゃみをした。
「あはは。こいつ、煙草が苦手なんだな。ごめんごめん」
ぶにゅう。猫が迷惑そうに鳴く。
そうしてのそのそと希望の膝の上に登ると、その服に鼻先をうずめた。
しっぽをぱたりと振る。
飯島はしばらく、そんな平和な光景に目を向けたまま黙って煙草をふかしていた。
紫煙が部屋の中に薄く漂っていく。
しかしやがて、躊躇う様にその口を開いた。
「…希望ちゃん。ちょいと聞きたいことがあるんだがよ」
「はい」
「なあ…希望ちゃんは、吾郎のこと嫌いじゃねえよな」
「……」
目の前の少女はきょとんとして飯島を見上げた。
飯島は希望の膝の上の猫に目をやったまま息を吐く。
猫のしっぽがもうひとつ揺れた。
「いや…希望ちゃんが出て行くってのを聞いてな。吾郎のことが嫌になったんじゃねえかと不安になっちまってよ」
飯島はよくも悪くも昔かたぎの男だった。
表現はストレートで、まわりくどい表現を実に苦手としていた。
「おれも娘が居るんだけどなあ、こう、最近は可愛くねえわけだ。
思春期の娘ってのはみんなこうかもしれねえけどな、父親をうっとおしいと思うもんらしい」
「……」
「ええと、何が言いたいかというとだな。あいつは…吾郎は希望ちゃんのことを大切にしてるってことだ。あいつなりにな」
「はい」
やはり少女は素直に頷いた。


飯島は内心、胸を撫で下ろしていた。。
言葉では表さないが、吾郎がこの少女のことを大切にしているのは重々承知している。
だからこそこの少女が吾郎の家を出て行くと聞いて驚いた。

―まさか希望ちゃんに嫌われたんじゃねえだろうな。

そう尋ねた飯島に、吾郎は苦笑を浮かべただけで答えなかった。
そのときの表情を思い出すだと柄にもなく胸が痛くなる。
だからこそ何も言わずにはいられなかったのだ。

しかし、と飯島はポケットを探りながら思った。
希望の言葉に吾郎に対する嫌悪感は感じられない。むしろ真逆のもののように、飯島には思えた。
思わず笑みになりながら取り出した携帯灰皿を開く。
そうしてそこに短くなった煙草を押し付けながら言葉を続けた。
「吾郎はさ、いい奴だよ。まあ、馬鹿なヤツではあるけどな」
「はい」
「なんせ外国行きを蹴っちまうくらいだからなあ」
「…え」
希望の声にかすかに戸惑の色が混じる。
しかしこの時の飯島は、そんな希望の変化には気づかなかった。
「ん?聞いてるだろ?1年前にあったフランスへの転勤の話だよ。
提携しているパリの老舗からいい話があってな、吾郎にその話を持っていったんだがあいつあっさり断りやがってね」
「……」
「まあフランスだしなあ。あいつは何もいわなかったけど、希望ちゃんをひとりには出来ないってとこだろ。
それくらいあいつは希望ちゃんのこと考え…」
「……」
飯島はそこでようやく目の前の少女の変化に気づき、言葉を途切れさせた。
「…あ、あれ。もしかして、知らなかった…のか?」
希望の蒼白な顔を見て、飯島は思い切りうろたえた。
慌てて言葉を重ねる。
「い、いや、もう1年も前の話だし、な。希望ちゃんが気にすることじゃねえんだよ。な?」
「……」
「ええと…」
「………」




希望は静かに襖を閉めると、吾郎の側に座り込んだ。
薬が良く聞いているのだろう。吾郎はよく眠っている。
しかし氷水に浸した布を額に置くとかすかに瞳を開けた。
熱のためか色素の薄い瞳が潤んでいる。黒い瞳孔がくっきりと見えた。
「…あれ、希望…。オーナーは…?」
「先ほど帰られた」
「そうか…ああ、また迷惑かけてしもうたな…」
声にはいつもの張りがない。
「いいから、寝ろ」
「希望にも迷惑をかけたなあ。ごめんな…」
「…いいから」
「……」
「いいから…」
希望は繰り返しつぶやいた。言葉が詰まって、それ以上は何も言えなかった。
「…いいから…」
「……ああ」
吾郎はにこりと笑って瞳を閉じる。
ほどなくしてよどみない寝息が洩れてきて、希望は瞬いた。
ストーブにかけてある薬缶がしゅんしゅんと音を立てている。
それはやさしく、部屋に広がっていた。






いろんなものを自分の為に犠牲にしてきた吾郎。
私は…何ができるのだろう。
希望は吾郎の寝顔を見ながら考えた。
青年の汗で張り付いた前髪をそっと払う。


…多分。

希望は思った。

多分私はこの男のことを嫌いになることなど一生できないのだろう。
この思いが恋というなら。きっと…ずっと。
人生を終えるその時まで、この男に恋をしているのかもしれない。

なら、私ができることは…。



静かでやさしい部屋の中、希望はずっと吾郎の寝顔をみつめていた。











風邪ひき男








「ラブ・パレード39」へつづく



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