「ラブ・パレード37」

<友達>





2月の夜。

頭をぐっしょりと濡らして帰ってきた吾郎は、希望の部屋の前で足を止めた。
そうしてその中からかすかに…ほんのかすかに聞こえてくる「声」に、壁に頭を打ちつけたくなった。
押し殺した、ひそかなひそかな嗚咽。
この少女が泣いたことなど今までなかったのに。

吾郎はそう思い、そうしていっそう自己嫌悪にかられた。
誰よりも泣いて欲しくない相手を泣かせているのが自分自身だということが痛かった。
髪をかきむしりながらひそやかに息を吐く。
その時、ふと彼は思い出した。
希望が泣いた事は今が初めてではなかったことを。


たしかに吾郎には覚えがあった。
あれはほんの少し前のこと。
当の少女の誕生日の日。
挑むように吾郎を見上げて、そうして涙をこぼした。



ふと、違和感が脳内をかけぬける。

…そうや。

その感覚に彼はかすかに呆然とした。
本当は考えなければならなかったこと。
それは今まで、考えることを放棄していたことだった。

…あの時希望は、なんで泣いたりなんか…

しかしその時。
足元から悪寒が這い上がってきた。
濡れた髪で冷え切った全身が震えてくる。
吾郎は考えを断ち切るとあわてて自分の部屋へと戻り、そこで盛大なくしゃみをした。







ラブ・パレード37








次の日。

希望はいつもの様に朝食を作っていた。
出汁の良い匂いが台所いっぱいに満ちている。
そして卵の焼ける美味しそうな音も。
「おはよう」
思わずその後姿をぼうっと眺めていると、希望が仏頂面を向けてきた。
「何を呆けている。早く顔を洗ってこい。もうすぐ出来るぞ」
それはあまりにいつものとおりの希望で、いつものような朝だった。
だから吾郎も躊躇なく笑って見せた。
「おはよーさん。うーん、ええ匂いやなあ。もしかして卵焼きか?」
「今日は目玉焼きだ。もう卵がない。明日作ってやるから我慢しろ」
「ええ〜」


いつもの朝。
いつもの空気。
昨日のことはまるでなかったかのように。


吾郎にはわかっていた。
今の希望が一番望むのはその「普通の日常」だということに。

ここに居るあとほんの少しの間、いつものように暮らしたいということに。

だから吾郎もいつものようにのんきに笑ってみせる。
昨日感じたささやかな違和感には、気づかないふりをして。









「とっ藤堂っっ。おはよう!」
大きな声に藤堂希望は振り向いた。
「おはよう。二ノ宮…どうしたんだその顔は」
希望は友人の顔を見上げながら瞬いた。
背の高い友人の目蓋は赤く腫れている。
「そっそんなことより藤堂、お兄さんは帰ってきたの?」
「ああ」
「そ、そっか。仲直りはした?」
「ああ」
希望は頷き、そうしてほんの少し考えるそぶりを見せた後そうか、とつぶやいた。
「そうか…すまんな二ノ宮。私は心配をかけてしまったんだな」
その目も私の所為か。
そう問うと夏美はあわてたように首を横に振った。
「違う違う。あたしってほらね、涙もろいのよ。昨日は映画で号泣しちゃってさあ」
「…そうか」
希望は頷いた。
しかし、なんとなしにだがそれが夏美の嘘であるということはわかってしまった。
友人というものは、本当に有難い。そう思った。
だから希望は、そんな友人の顔をきちんと見上げる。
「二ノ宮。私はもう大丈夫だ」
「へ?」
夏美は唖然とした表情で、間抜けな声をあげた。
希望は下駄箱に靴をしまいこみ、そうして夏美に向かってほんの少しだけ表情をやわらげて見せた。
「…昼休みに、話す」



「…そ、そんなあ…」
昼休みに昨日の一部始終を聞いた夏美は、持っていた紙パックの牛乳を取り落とした。
そうして、屋上の床に倒れているそれを拾いもせずに言葉を重ねる。
「と、藤堂、振られちゃったってことなの?」
それはあまりにストレートな物言いだった。
希望は思わず苦笑混じりに頷く。
「ああ」
そうして夏美の取り落とした牛乳を拾い、夏美の手の上に置いた。
幸いにもこぼれてはいないようだったが、当の本人はそれどころではないようだった。
「そんな、そんな…藤堂はそれでもいいの?」
「それでもいいもなにも」
希望はあくまで冷静だった。
「それが吾郎の答えだからな」
「えええええ、で、でも…」
この友人は表情が豊かだ。
いまにも泣きそうな顔で唸っているようすを見ていると、希望はふいに有難い気持ちでいっぱいになった。
「ありがとう二ノ宮。でも私ならもう大丈夫なんだ」
「えええ…」
「…いや…本当のところをいうと、昨日は泣いてしまったがな…」



昨日の夜。吾郎がふらりと外に出て行ったのを見計らって希望は泣いた。

…くそ。最近の私は涙腺が弱すぎる。

そう思いながらも布団の中で思い切り泣いた。
何故泣くのかといえば自分でもよくわからなかったが、それでも泣いているうちに気持ちは落ち着いてきた。

…俺は泣いてもええと思うけどな。

いつだったか吾郎が言った言葉を思い出し、「そうか。涙にはこういう作用もあるのだな」とも思った。

そうだな…泣くのも、悪くはない。



「藤堂…」
「二ノ宮。私は吾郎で良かったと心の底から思うんだ。
この結末でも私はまったく後悔などしていない。それは素晴らしいことなのではないかと…そう思う」
想いはそう簡単には消せないだろう。だけどもそれでもいいと希望は思っていた。

それでもいつか。

きっと…いつかは。






糸井は思い切り顔をしかめた。
授業が終わり教室を出た途端、視界に飛び込んできたひとつの影。
それはすっかり見慣れてしまった、背の高い下級生の姿だったからだ。
「いとやんお疲れ!」
「くそ、馬鹿女。いとやん言うな」
夏美はにこにこと笑ったまま、そのまま図書館に向かう糸井の後をついてきた。
糸井は振り向きもせずに舌を打つ。
「何の用だよ」
「うん、昨日のお礼を言っておこうと思って」
「何の」
「背中を貸してくれたお礼」
ぐ、と糸井は言葉に詰まった。
昨日のなんとも恥ずかしい光景が思い浮かぶ。
なかなか泣き止まない夏美に付き合って、結局1時間は寒空の下で突っ立っていた。
「カゼひかなかった?ゴメンね」
「う、うるさい!」
「もういとやんの怒りんぼ〜」
夏美はいつものようにけらけらと笑う。
そのあまりに普段どおりの笑顔に糸井はかすかに安堵していた。
昨日のこいつはこいつじゃないみたいだった。
やっぱりこいつは笑顔の方がマシだ。そう、漠然と思った。
「ねえいとやん。藤堂ね…」
その時、夏美がふいに彼にとっては聞き捨てならない「名前」を出した。
足を止め、くるりと向き直る。
「姐さんがどうかしたのか!?」
「うわあ。その態度の違いってばひどいよ〜。いとやん」
言葉とは裏腹に夏美が面白そうに笑う。
糸井はそんな夏美をじろりと睨み上げた。
「うるさい。最近のお前が妙なのも、姐さんのことがからんでるんだろうが」
「…おお、推理力が凄いやいとやん。あれかな?外見は子供!中身は大人!名探偵…」
「この、ふざけるな!」
「…うん。ごめんね」
真面目な謝罪に怒りはするりと空回りする。
糸井は舌打ちをした。この女はやっぱり苦手だ。
「あのね、あたしからはいろいろ言えないけど、今ね、藤堂少し落ち込んでるの」
「あ、姐さんが?」
「うん。それでさ、あたしたちで藤堂を励まそうと思って」
「あたしたちってなんだよあたしたちって」
「え、だっていとやんだって藤堂の友達でしょ」
「…そ、そうだけどさ…」
「あ、いとやん今照れた?」
「……」
「うわー可愛いっ。いいもの見ちゃった!ラッキ〜」
「う、うるせえ!」


その時。
廊下でぎゃんぎゃんと騒ぐ二人に、やたらと爽やかな声がかけられた。

「やあ二人とも仲がいいね」
「あ、間宮先生こんにちは〜。もう、そんな本当のことを言われたら照れちゃ…」
「誰がだ!」
楽しそうな少女とそれに憤怒する少年をまじまじと眺めやって、教師はさらに微笑む。
そうして実に怪しい台詞をあっさりと言い放った。


「二人とも、少し僕とお話しないかい?」











友達








「ラブ・パレード38」へつづく




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