「ラブ・パレード35」<其は誰がための> |
「嘘には二種類のもんがあるんやで」 公園の滑り台の下には小さなトンネルがあった。 そのトンネルの中に少年は膝を抱えて座りこんでいた。 そうしてその前には若い女性がどっかりと胡坐をかいていた。 女性の稲穂のような明るい髪が、今は街灯に照らされてきらきらと金色に光っている。 少年のその眩さに顔をしかめた。いつもなら綺麗だと思う髪の色が、今はとても目障りだった。 自分の惨めさを見せ付けられるようで気分が悪い。 そう思いながら女性に目をやる。 すると女性は少年と目が合ったことを嬉しく思ったのだろう。 胸のすくような満面の笑顔を浮かべて、そうして話を続けた。 「ひとつは悪い嘘。これは自分のためだけの嘘や」 「なんだよ、それ…」 少年はぼそりとつぶやく。 自分でも可愛げのない答えだと思った。 だけども今の少年の気分は最悪で、最低だった。 しかし女性はそんなことは気にも留めずに明るく笑う。 そうしていつまでも聞いていたくなるような小気味良い口調で、さらに「続けた。 「たとえば、桐野が教室のガラスを割りました。先生が来てこれは誰がやったのかと聞きました。 せやけど叱られるのが嫌やった桐野はクラスメイトの田中君がやったのだと言いました」 「田中なんてやつ僕のクラスにはいないよ」 「こら細かいこというなや。男のくせにケツの穴の小さいやっちゃなー」 小さなトンネルの前で、女性はケラケラと笑った。 少年―桐野の目から見てもその女性は若く見えた。せいぜい20歳かそこらの幼い顔で彼女は笑う。 「わかるやろ?これは悪い嘘や。自分の保身だけを考えて、他人を犠牲にする。 あ、保身なんて難しい言葉、小学2年生にはわからんわな。あんな保身ってのは…」 「わかるよ」 「嘘!なんでわかるん?桐野、アンタ本当に吾郎と同じ年?凄いっちゅうか怖いで自分」 「…で、それが今の僕に何の関係があるのさ」 女性は機嫌の悪い子供に向かってくすりとした。 「…もうひとつの嘘はな、人のための嘘や」 「人のため?…もしかして、お父さんがついたのがそれだって言うの?」 子供はまなじりを吊り上げた。その幼い瞳には怒りが宿っている。 「よそに女の人を作って子供まで出来て、それをずっと僕に隠していたんだ。それがいい嘘だっていうの?」 「さあねえ」 女性は真面目な顔になって首を振った。 「父ちゃんの気持ちなんてアタシにはわからんよ。 せやけどアンタの母ちゃんの気持ちならなんとなくわかるんや」 「……お母さん…?」 「母ちゃんは知っとったんやろう?子供のこと」 「……」 「知っててアンタには黙ってたんや。言うたんやろ? 大きくなったら話すつもりやったって。隠しててごめんねって」 「……」 「それがもうひとつの嘘や。優しい嘘。アタシはそう思うんやけどな」 「…………」 「ぶっちゃけ父ちゃんはようわからん。アタシな、こないみえても女やし。不倫したことないし。 けど、母ちゃんは桐野のこと大事に思てるんやと思うで。せやから嘘をついてん。 多分…アンタが傷つくのを避けたかったんやないかな」 まあそれが正しいことなのかどうかはわからんけどな、と女性は微笑む。 それは実に明るい、夏の向日葵のような笑顔だった。 「…よくわかんないよ…」 桐野はそっと俯いた。 俯いた拍子にぱたぱたと涙がこぼれる。 どうして泣いているのかは、当の桐野にもわからなかった。 女性はそんな桐野の姿を眺めていたが、やがて狭いトンネルの中に入り込んでくると、泣きじゃくる桐野の身体をぎゅうと抱きしめた。 そうしてそのまま抱きしめてくれていた。 涙が完全に止まりきってしまう長い時間。 ずっと。 「落ち着いた?」 どのくらい時間がたったのか。 ようやく泣き止んだ桐野の頭を優しく叩いて女性は―赤谷真理子はやわらかく微笑んだ。 「ほれ。せやったらこないなところに隠れとらんと、早く帰ったり。…母ちゃん心配しとるで?」
ラブ・パレード34
なあ…真理子さん。 貴女の息子は、やっぱり大馬鹿野郎だよ。 間宮桐野がその公園で吾郎を見かけたのは2月も半ばのことだった。 時計はすでに23時を指していた。 上司との飲みの帰り、急ぎ足で家路に向かうところだった。 その児童公園は小さなもので、遊具といえばトンネルの付いた滑り台にブランコしかない。 少し離れたところに古びたベンチ、小さな砂場の脇には水飲み場がぽつんとあるばかりだった。 その前を通りかかった桐野の耳に水の流れる音が飛び込んできた。 ―誰かが水道を出しっぱなしにして帰ったのか…。 気づいてしまった以上そのままにして置くわけにもいかず、公園の中へと踏み込んだ桐野は思わずその目を見張った。 「……何をやってるんだ。吾郎」 そこには彼の幼馴染が出しっぱなしにした水道の水に頭を突っ込んでいる姿があった。 「そうか…希望ちゃんがそんなことを…」 間宮桐野はさすがに驚いたようにつぶやいた。 腰掛けたベンチの隣では、渡したタオルを被ったままぼうっとしている吾郎の姿があった。 あんなところで何をしていたんだ、と問えば頭を冷やしていたのだと答えた。 頭を冷やすってお前ね、中学生じゃないんだから時期と場所を考えろ。 そう言うと、吾郎はそりゃそうだと苦笑を浮かべた。 ずぶ濡れになった頭からぽたぽたとしずくが落ちて、いかにも寒そうだった。 冷静に考えなくても今は2月。何かがあったことは一目瞭然だった。 問うと吾郎は案外あっさりと答えた。 ほんの、1時間前にあった出来事を。 「告白というより…それは完全にプロポーズじゃないか。さすが希望ちゃん。男前だね」 いつも仏頂面で姿勢のいい少女のことを思い出す。 私は言わない。進路相談室でそう言っていた少女。 何があったか知らないが、少女は自分の後見人に想いを告げることにしたらしい。 桐野はそれを意外に思いながらも喜ばしいことだと感じていた。 桐野としてはこのふたりが―吾郎と希望がお互いに別れを望むならそれに干渉するつもりはなかった。 例えそれが相手を思いやってのことだろうとも。 しかし話は変わってきた。嬉しい誤算だ。そう思った。 …しかしまさか希望ちゃんの方が動くとはね…。 桐野は隣に目を向けた。 隣では彼の幼馴染が、どこか呆けたような表情で電柱に寄りかかっている。 「で、お前は何て答えたんだ?吾郎」 「…答えるも何も」 「だってそれは希望ちゃんの告白じゃないか」 「告白って、お前なあ…」 吾郎の顔に苦笑が浮かんだ。 「あれは希望の…勘違いってやつや」 「勘違い?何を根拠に、お前…」 「根拠はあるんや。情けないことにな。俺の所為やねん。 俺のうかつな行動が…希望の勘違いを生み出してしもたんや。しかも…」 吾郎はそこで一瞬言葉を途切れさせた。手のひらに視線を落とし、それを握りこむ。 そうして俺は馬鹿や、とひとりごちた。 桐野は笑みを消して黙り込む。 吾郎の表情は、彼が想像するよりもずっと、ずっと硬いものだったのだ。 「吾郎…」 思わず寄りかかっていた塀から身を起こして吾郎をみやると、幼馴染は苦笑を浮かべたまま夜空を見上げた。 そうしてぽつりと本音を洩らしはじめた。 「…なあ桐野。俺な、多分やけど希望のことな…一人の「女」としても、惚れてるんやと思う」 そのきっかけは去年の11月。 ほんの3ヶ月前の出来事。 自分が欲しいものを、欲しがっていたものをいとも簡単に与えてくれた。 「そりゃあ俺やって男や。希望があないなことを言うてきたらぐらぐら揺れたで」 「……」 「それをそのまんま受け入れたら、希望はずっと、ずっと一生、俺と一緒に居てくれるんやって思た」 「……」 「俺の望みどうりに。ずうっとな」 「……」 でもな、と吾郎は続けた。 「…俺は希望のこと、「人」としても惚れとるんや。これはな、もっと昔からや。 多分、はじめて会ったときから」 自分を助けてくれた、まるで物語のヒーローのようだった子供。 生きることに不器用なくせに、そのくせどこまでもまっすぐな子供。 大切なんや、と吾郎はつぶやいた。 「ほんまに、ほんまに大切やねん。ほんまにほんまに、幸せになって欲しいって思うんや。 せやから、そんな勘違いをさせたまま、俺の都合だけで、俺の望みだけで、俺につなぎとめておくのは間違いやって、そう思てん」 「……」 「せやから嘘をつくことに決めた。昔、母ちゃんが言ってたんや。 人のためになる嘘ならそれはついていい嘘なんやって」 それは吾郎が一日前に決めたことだった。 他でもない。自分の「心」につく嘘。 自分の感情を偽ること。 吾郎は思う。 ―希望にそんなことをさせるよりは、ずっといい。 「…良い嘘、か?」 桐野がふいにつぶやいた。その表情は夜の闇に紛れてよくは見えなかった。 吾郎は頷く。 そうして小さく笑みを浮かべてみせた。 「せやで。とびっきりの嘘や」 だから彼は答えたのだ。 希望に、大切な少女に。 誰よりも大事に思うが故に。 彼女の、為に。
其は誰がための
「ラブ・パレード36」へつづく
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