「ラブ・パレード32」

<告白>



「私もそう長くない。」

祖父の声が聞こえて、当時6歳だった子供は立ち止まった。

紫陽花の咲く庭。
雨上がりの空の色。
縁側に座るふたり。


希望はそのときのことを、今でもはっきり覚えている。


「本来ならお前のような青二才になんぞ頼みたくはないのだ。しかし他に頼めるものがおらん。
他のやつらは軟弱すぎるやつばかりからな」
何の話だろう。子供はきょとんとして、縁側に座っているふたりの背中を眺めた。
ひとりは自分の祖父。
そしてもうひとりはいつの間にやらすっかり藤堂家に馴染んでしまっている青年だった。
ふたりの表情はよく見えなかったが、それでも声はよく聞こえた。
「…希望を、頼む」


……私?


子供は突然出てきた自分の名前に戸惑った。
青年もそうだったらしい。かすかに驚いたような気配が伝わってきた。
青年はしばらく黙って祖父を見ていたが、やがて姿勢を正すときっぱりとした口調で頷いた。
「はい」
「……。恩にきる」
「うわ、やめて下さいよ。別に恩やなんてことはこれっぽっちも…」
「うむ。そうか」
「はい」


子供はただ驚いて、その光景をみつめていた。
このような雰囲気の祖父を見るのははじめてだったのだ。


しばらく沈黙がふたりを包んだが、すぐに青年がその空気を変えるかのように明るい声をあげた。
「しっかし頼む、かあ〜。正直どっきりですわ。まさか師匠からそないな申し出があるとは…」
「なにがだ」
「希望を頼む、ってことはあれでしょう?希望を俺のお嫁さんにしてもいいってことなんでしょう?」
「……なんだと」
「いやあビックリ。でも嬉しいなあ。うん。ほな師匠の許しをもらったんやからあとは希望が結婚できる年まで待って…」
うんうん、と青年は実に楽しそうに頷いている。
顔を見なくてもわかる。それはいつもの青年の姿だった。
実に楽しそうに笑っているに違いがなかった。
「今はまあちんちくりんで乳臭い子供やけど、成長すればなんとか色気もでるやろし」
「……ちょっと待て」
祖父の声に慌てたものが混じる。
しかし青年は縁側に立ち上がると拳を握り締めて宣言した。
「師匠!俺、希望さんを一生シアワセにしますからっっ!」
祖父は満面の笑顔の青年をしばらくぽかんと見あげていたが、やがてその面にはゆるゆると怒りの表情が浮かんできた。
次いで一喝。

「調子に乗るな!この馬鹿者がっ!!」



「……」
子供は激怒する祖父と、そんな祖父に思い切り叱られている青年に背を向ける。
そうしてそのまま台所に向かって歩き出した。
このふたりのやりとりには慣れている。
そんなことよりも今は気になることが出来た。
だからその言葉の意味を尋ねる為に、真砂子さんのもとに向かう。

…オヨメサン。
…ケッコン。


先ほどの青年の言葉が頭から離れなかった。
おそらく知らない言葉だったが、何故だかひどく気持ちがふわふわする言葉のように思えたのだ。





―そうか。私は大きくなったらあいつのお嫁さんになるのだな。


そうして家政婦の真砂子さんにふたつの言葉の意味を教えてもらったあと、しばらくはそう思い込んでしまっていた。
お互いにお互いのことが「一番」大好きな男女が「ずっと」一緒にいることだと、真砂子さんは言った。

ずっと、一緒に。

……吾郎と、私が。


それは決して嫌なことではなく、むしろ嬉しいことのような気がしていた。
そのことを思い出すと胸の奥がじんわりとあたたかくなるような、そんな感覚だった。



もちろん今となっては、それが冗談にすぎないことであったということはよくわかっている。
そうして、その冗談を言ったことでさえ覚えていないだろうことも。
何気ないほんの日常の延長。
いつもの日常にまぎれこんだほんのささやかな言葉。



―でも…それをもし、吾郎が覚えていてくれたのなら。



16歳になるその時まで、その言葉は子供にとって何よりも大切なものだったのだ。





ささやかな、祈りにも似て。




ラブ・パレード32









吾郎は希望の顔を見下ろしたまま目を見開いた。
希望の手は吾郎の左の袖口をゆるく握っている。
振りほどこうとすれば簡単に出来るほどの力だというのに、何故かその場に縫いとめられたように動けなかった。

希望はまっすぐに吾郎を見上げている。
潔いほどにまっすぐな瞳。小さな頃からその瞳は変わらなかった。
この少女に「助けられた」時のことを思い出す。
路地裏。
そして――去年の、11月。


「伝えて、おきたいこと?」
かろうじて声を出すと、少女はこくりと頷いた。
「ああ」
「…とりあえず中に入らへん?お前冷えきっとるし」
「いや…」
しかし希望は首を横に振る。
「今、言っておきたい」
それは頑なな声と態度だった。


そうか、と吾郎は思った。
きっと先日の、涼子の件のことだろう。
真面目の塊のような希望のことだから、きちんと自分にも謝罪を入れたいのかもしれない。


……そんなん、俺に謝ることなんかやないし…むしろ謝るのは俺のほうなんやけどな…。



吾郎は内心そうは思ったが口には出さず、うんと頷いてみせた。
それで希望の気が晴れるならそれでもいいと思ったのだ。
この少女と過ごせる時間はあと一月にも満たない。
そのあとは希望の未来になる。
そこには新雪のようにまっさらな、綺麗な道が伸びていることを吾郎は信じて疑っていない。
だからこそ思う。
この家に、自分に、未練など残さないようにしておきたい。


「ええよ。何?」

だからできるだけ、いつものように笑いながら答えた。
希望は吾郎から瞳を逸らさなかった。
掴んだままの袖口にかすかに力が入るのだけがわかった。


「吾郎、私は…」


吾郎は笑顔で頷く。
希望の瞳を覗き込んで、そうしてさらに微笑んで見せた。
「うん」
「……」
希望が一瞬だけ息を呑んだように見えた。
何かにひるんだように身を引いたが、しかしそれでも吾郎の袖口から手は離さなかった。
「…希望?」
「……」
希望は答えなかった。

しかしすぐにゆっくり瞬いて、吾郎を見上げてきた。

…ああ、綺麗やな…。


吾郎はふいに胸中に浮かんだ言葉を噛み締めた。
瞳も仕草も。その、すべてが。
ああわかった。素直に認めよう。
この「少女」は綺麗になった。



「吾郎」
その「少女」はもう一度自分の名を呼ぶ。
それに吾郎は同じように頷いた。
「ああ」


袖口にある手に力がこもる。
瞳が玄関の灯りを反射して水面のように光っている。
今まで見ないようにしていたもの。
今まで彼が目を逸らし続けていた「希望」という少女が、自分に向かって唇を開く。
「吾郎、私は…」


そうして希望は、吾郎に告げた。



「私はずっとお前の…『お嫁さん』になりたかった」












告白








「ラブ・パレード33」へつづく





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