「ラブ・パレード31」

<2月の決意>





…まだ、宴は始まらない。




ラブ・パレード31







2月の夜風は身を切るように冷たい。
しんと冷え込む闇の中、吾郎は3日間空けていた家の前に立ったまま盛大に息を吸い込んだ。
すでに草臥れてしまっているスーツの襟元を正し、そうして琥珀色の瞳を細める。
たかだか「自分の家」に帰るだけ。
だけども今の彼にとってはそれは何よりも勇気のいることだった。



しかし、覚悟を決めて「家」に戻った吾郎が家族である少女に会うことはできなかった。
すでに時計は21時を指している。
吾郎が手探りで電気をつけていると、真っ暗中を暖かいものが擦り寄ってきた。
吾郎と目が合うと、抗議するようにぶにゃあと可愛くない声をあげる。
「ただいま、きなこさん…なあ、希望知らへん?」
腰を屈めて尋ねるも、猫はそ知らぬ振りでズボンに纏わりついている。
しまいには脛に頭突きを始めてしまった。
「うわ、やめえや。これ一応一張羅やねんで。ああ、そっか。ゴハンやな」
電気をつけると部屋の中はがらんとしているように感じた。
片付いた部屋に人の気配はない。
「……」
吾郎は猫に夕食を与えると大きく息を吐く。肩の力がすとんと抜けたように感じた。
てっきり希望はこの家に居るものだと、自分の帰りを待っているのだとばかり思っていた。

昨日の希望の姿が脳裏に浮かぶ。
赤い半纏を羽織って外に佇むぽつんとした姿。
おそらく自分を心配して、待っていてくれてであろう彼の「家族」。

そうして2日前の少女の姿も。
少女の気遣いも優しさも。分かっていながら感情にまかせて手を伸ばした。
驚愕に開かれた大きな瞳。
混乱させてしまったことに対する罪悪感だけが募っていく。


2日前の自分の行動への言い訳。
2日間家に戻らなかったことに対する言い訳。

いうべき言葉を、考えてきた台詞を使わずにすんだ。
心のどこかでほっとしている自分を自覚した吾郎は自嘲気味な笑みを浮かべる。
まったく自分は意気地がない。

「けどこんな遅くまでどこに…」
ぼそりとつぶやくと同時に、ポケットの中で携帯電話が震えた。




希望は白い息を吐いた。
目の前にあるのは見慣れた家で、しかしその中に入るのには自分でも驚くほどの躊躇いがあった。
家には灯りがともっている。
吾郎はすでに…帰ってきている。
あんなに会いたかったというのにおかしなものだ。
希望は内心自嘲する。


家の前で立ちすくんでから、既に30分は経過していた。
涼子と別れての帰り道。
あれほど考えて出した答だというのに、いざ目の前にするとその恐ろしさに身がすくんだ。
怖いと思った。答えを聞くのが怖い。
だから言いたくはなかった。告げたくはなかった。
だけど。
希望は思う。
それでは…なにも変わらない。



「あとは、のんちゃんが決めなさい」



涼子の言葉が脳裏に蘇る。
そうだと希望は思った。
私は決めた。逃げることなんてしない。

なぜなら、私はあいつを…「大切」に思うことを誇りにさえ思うのだから。
だから、逃げない。
もう決めた。




「…希望?」
懐かしい声に希望は我に返った。
気がつくと吾郎が玄関から出てくるところだった。
「お前こんな遅くまで何してんねん。
かなり前に涼子から電話があったんやけどなかなか帰ってきいへんから心配…」
吾郎は立ちすくむ希望の前まで来ると手を伸ばそうとし…しかしすぐにそれを引っ込めながら苦笑を浮かべた。
「まあ、俺が言えることやないわな」
「…本当だ。馬鹿者」
なんとか言葉を紡ぎながら希望は吾郎の顔を見上げた。
いつも通りの、暢気そうな笑顔。
ああ、と希望は思った。
そうだ。会いたかった。
私は会いたかったんだ。
「うん。ごめんな」



私はこいつに会いたかった。
道場で。道端で。雪の上で。星の下で。
会いたいときに、側に居て欲しい時に居てくれた。


本当は心細かった。
本当は寂しかった。
本当は悲しかった。


あの時、道場で。
どうすればいいのかわからなかった。
祖父が亡くなって。でも誰も悲しんでいないようにみえて。
自分ひとりが悲しいように思えて。
その事実こそが辛くて。悲しくて。
だから何も気づかないふりをしていた。気づかないようにしていたのだということが今では分かる。


「誰か」と、やっぱり単なる子供だった私は思っていた。


誰か。
誰か。
誰か。

……助けて。



答える声はあまりにあっさりしていた。


「ほれ、一緒に帰るで」




希望は顔を上げた。
会いたかった青年の顔を見上げて、そのまま右手を伸ばす。
袖口を掴まれた男はぽかんと希望を見下ろしてきた。


すまない吾郎。
お前が困るのは分かっている。
お前との関係が壊れてしまうのもわかっている。
だけどこのまま何も伝えずに会えなくなるのは辛い。
二度と会えないのにお前がくれたこの感情を伝えられないのは…とても、とても悲しい。
だから吾郎。
これだけは、言わせてくれ。


「吾郎。…お前に、伝えておきたいことがある」












2月の決意








「ラブ・パレード32」へつづく





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