「ラブ・パレード28」<願い事ひとつ> |
だけど涼子はかまわなかったのだ。 希望が吾郎のことを好きでもかまわなかった。 吾郎と別れたのはそんなことじゃない。 そんなことは理由にならない。
ラブ・パレード28
ああ、この子は吾郎のことが好きなんだな。 ひとめ希望に会ったときに涼子はそう思った。 そうして、少女がまだそのことを認識さえしていないこともすぐにわかった。 信頼という感情は大きい。 その大きな感情に隠されて、希望はまだそのことに気づいてさえいなかった。 涼子は自分が善人ではないことを自覚していた。 他人の幸せより自分の幸せの方が大切なのは当たり前だと考えている。 それに、と涼子は思う。 希望はまだ14歳の子供で、恋という言葉さえろくに理解していないような少女だった。 だからこそこう思ったのだ。 (どうせ一時の感情に決まっているわよね…) 一番身近な男の人に惹かれるのは、思春期の子供にはよくあることだ。 涼子にだってそういう経験があるのでよくわかる。彼女の場合は隣の家に住んでいた5歳年上の少年だった。 しかしすぐにそれが「憧れ」であることもすぐにわかった。 「恋」に「恋」する時期。 そう思っていた。 ―あの時までは。 「ねえ、のんちゃんはあたしが吾郎と結婚してもいいの?」 秋の初め。ふと思いついてこう尋ねてみた。 涼子にしてみればそれは本当に軽い気持ちだった。 希望は少しばかり驚いたように瞳を見開いたが、すぐにいつもの表情に戻ってこくりと頷いた。 「当たり前だ」 「…うーん、だってさ」 涼子は唸った。希望の涼子に対する態度は初めて会ったときから変わらない。 親代わりの青年の恋人。 少しは嫉妬とか、そういうものがあってもよさそうなものなのにこの少女はその感情すら持っていないように思えた。 「涼子さんにとって吾郎のことが一番なら、それでいいと思う」 「……」 「吾郎にとって涼子さんは一番なんだ。だから、二人がそう想いあっているのなら何もいうことはない」 「一番ねえ…」 「涼子さん」 「う、うん、何?」 希望は緑茶の入った湯飲みをテーブルに置くと、静かに涼子を見上げてきた。 その視線はあまりにまっすぐで綺麗なものだった。 涼子はかすかに気後れするものを感じる。 それは自分がいつの間にか捨ててきたものにひどく似ているように思えた。 「吾郎のことをよろしくお願いします」 涼子はぽかんとする。 少女の表情は真剣そのものだった。あまりに真摯で、揺るぎない。 「あいつは馬鹿だけどいい奴だから…きっと涼子さんのことを幸せにすると思う。 だから涼子さんもあいつのことを幸せにしてやって欲しいんだ」 そのとき涼子は理解したのだ。 ああ、この子は本当に吾郎のことが大切なんだと。 子供の一時の感情なんかじゃない。 心の底から、大切なんだと。 「でもね、あたしは我侭だから、自分の幸せの方が大切だったの。のんちゃんの幸せよりも、ね」 だからそのときは吾郎と別れるなんて考えていなかった。 別れたのは他の理由。希望のためではなく自分のため。それだけは嘘じゃない。 怒る?と問うと、希望は慌てたように首を振った。 予想通りの反応に涼子は微笑んだ。ああ、この子は相変わらずまっすぐなんだから。 「…そんなの、当たり前だ」 「そう?」 「ああ」 ありがと、と涼子は笑ってみせた。 「あたしは吾郎が好きだったわ。そうね、この人となら結婚してもいいって…したいって思ってた。 そうね、だからあたしは、あいつの『一番』になりたかった」 「一番…」 「でもね、それは無理だってわかったの」 希望はきょとんとした。 「そんなこと」 「わかるのよ。…あたしはきっと、女としてなら一番目にはなれたのかもしれない。 でもね、あたしにとってはそんなの意味はないの。あたしはあいつのすべての一番になりたかったのよ」 涼子は白い息を吐く。都会の夜空に星はない。それでもその空はぼんやりと明るかった。 そう。ネオンというものもたまには悪くない。 そう思いながら希望を見ると、少女はかすかにとまどったような表情を浮かべていた。 …この子はまだ、なにも知らない。 涼子はくすりと笑んだ。 「独占欲が強いのよね。あたし」 「……」 希望は黙り込んだ。 ふたりの間にぽかんとした静かな時間が落ちた。 けれどそれは決して居心地の悪いものではなくむしろ逆のものだったので、涼子も黙って座っていた。 「独占欲が」 缶コーヒーを1本空ける頃、やがて希望がぽつりとつぶやいた。 「ん?」 涼子が隣を見やると、希望は缶コーヒーを握り締めたまま俯いていた。 前髪の間からかすかに噛み締めている唇がみえる。 「涼子さん」 希望はゆっくりと口を開いた。 「独占欲が強いのは、私の方なんだ…」 風が吹いて、少女が巻いているマフラーがふわりと揺れた。 幾分色あせた茶色のそれを、希望がどんなに大切にしているか涼子は知っている。 「涼子さんが吾郎と別れてからいろいろ考えたんだ。そうして、ようやく気づいた。 私は吾郎が結婚して、誰かを…他の誰かを一番に見るのが嫌なんだって…」 だから、と少女は絞り出すように言葉を紡いだ。 「だから家を出ようと思った。吾郎が私のことを家族として大切にしてくれていることは知っている。 わかっている。それがどんなに有難いことかもわかっているんだ。でも…」 希望が自分の気持ちを認識をしたのは、吾郎が涼子と別れてからだった。 涼子のことが好きだった吾郎。 どれだけ吾郎が悲しんでいたのかを希望は知っている。 「吾郎が悲しいのは嫌だって思った。幸せになって欲しいと思った。今まで私の所為で得られなかった分もすべて。 なのに…だというのに…吾郎がこれから好きな人を見つけて、結婚して、たくさんの一番をつくるのだと考えたらたまらなかった…」 だって私の一番は決まっている。 それは本当に昔からで、今更変えられるほど簡単なものでもなくて。 「私は、それを側で見ているのは耐えられないと思った。だから吾郎の側から離れようと思ったんだ。 遠くからならきっと、心の底からあいつの幸せを願える。お祝いしてあげられる。そう思った」 私は我侭だ。希望はつぶやいた。 吾郎に幸せになって欲しいのに素直に喜べない。祝ってあげられない。 それはとても悲しいことだ。大切なのに。誰よりも大切な「人間」であることは間違いないのに。 それなのに、私は。 希望は手にした缶コーヒーを握り締めた。 自分の醜さに辟易する。あまりの身勝手さに、涙が出そうだった。 だって、私は本当は…。 希望は思った。ずっと、そう思っていた。 本当は「一番」になりたかった。 だからあの日に期待をした。自分が16歳になるあの日に、ちいさなのぞみをかけた。 吾郎が覚えていてくれたなら。もしかしたら。 …もしも、「一番」になれるのなら。 小さな頃に将来の夢を書けという宿題が出た。 初詣の日、神社で願い事をした。 吾郎と星を見に行った日に、必死に星に願いをかけた。 願いなんてただひとつだった。 ずっとそう思っていた。 それがどんな意味を持つなんて考えてもみなかったときから。ずっと。 星が流れきる前に願い事を。 今にも降ってきそうな星空の下。自転車をこぐ青年のうしろで子供は祈る。 流れ星は願いを叶えてくれるという。 願う事はたったひとつ。 他には多分、何も要らない。 だから、どうか。 私の、願いは―。 『…この男とずっと、一緒に居れますように…』
願い事ひとつ
「ラブ・パレード29」へつづく
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