「ラブ・パレード25」

<嘘つきの大人>






「嘘はいかん」
希望の祖父の藤堂玄隆は常々そう言っていた。
「真実を偽ること。自分の心に間違いがないのならばそんな事をする必要などどこにもない」


「はい」
だから希望もそう思っていた。
祖父が教えてくれた武道家としての道。
その根本となるもの。
それは実のところ、あまりにも単純で明快なことだった。
それは多分、人として当たり前のこと。
だからこそ幼かった子供にも良く理解できていた。


弱きものを守ること
欲に溺れないこと
礼儀を尽くすこと
人を思いやるということ

―そうすれば、嘘などつく必要はない。


だから希望は嘘をついた事が一度としてなかった。
嘘は嘘を呼ぶのだという。
真実を捻じ曲げてしまうのだという。
だから希望は自分を恥じたことはあっても、嘘だけはついたことはなかった。





そのことに吾郎が気づいたのは、再会してすぐのことだった。
「へえ〜そうなんや。凄いな、お前」
「別に凄くなどない」
「いやあ、凄いと思うで」
「凄くない」
子供はまっすぐに前を見たまま答える。
「ただ怖いんだ。嘘は本当のことすら捻じ曲げていくのだそうだ。それは嫌だ。
だからわたしは嘘はつかない」
「……そうかあ」


嘘は真実を捻じ曲げる。
確かにそうかもしれないな、と当時19歳の青年は思った。
けれども彼はひとつだけついても良い嘘があることを知っていた。
…それでも。

「まあ、お前はそれでええと思うで。」
そう言って頭を撫でると、目の前の子供はほんの僅かに怪訝そうな表情を浮かべた。





ラブ・パレード25







希望が家の前に佇んでいるのを見た後に彼は思った。
ああ、今こそ「嘘」をつくときなのだろう。
そう、思った。



「吾郎、お前昨日家に帰らなかったのか。」
昨日飲み屋で夜を明かしそのまま職場に向かった吾郎は、職場のオーナーである飯島に開口一番そう言われてしまった。
「スーツってだけでも珍しいのになんなんだその顔は。二日酔いか?いつもは無茶苦茶健康優良野郎のくせに」
「健康優良野朗?」
「お前ん家には希望ちゃんがいるだろ?その子にあわせて恐ろしいぐらい健全な生活を送っているじゃないか」
「うーん…いわれてみればそうかもしれんですけど」
「毎日、朝何時起きだったっけな?」
「6時半です」
吾郎の答えにその場に居た誰もがおののいた。
この職場の営業時間は深夜23時まで。自宅に帰れるのは0時を越えることも少なくない。
「しかもその子を送り出した後こいつ、筋トレまでしているんだからな。アホだ。アホ」
筋トレ、とさらにおののく一同。
「それにしても子供って…吾郎さん結婚してたんですか!?」
新しく入ったばかりの青年が驚いたように吾郎を見上げる。
かわりにオーナーがその手を振った。
「違う。違う。知り合いの子供を引き取って育ててるんだよ、こいつ」
「知り合いの?」
「希望ちゃんっていうんです。ちっちゃくて可愛いんですよ」
側に居た後輩の少女が嬉しそうに付け加える。
「その子の後見人って奴になったんだよな。
で、それからというものこいつはその子供のために実に規則正しい生活を送ってるってわけだ」
なのになあ、とオーナーは吾郎を見やった。
「今日は珍しく、若者らしい生活を送ったようじゃないか。
なんだ、希望ちゃんと喧嘩でもしてうちに帰れないのか?」
「うーん、喧嘩っちゅうか、なんちゅうか…」
しわくちゃになったスーツを脱ぎながら言うと、オーナーは目を見開いた。
「え。本当だったのか、珍しいな」
「まあ…ははは」
「……」
オーナーは苦笑を浮かべる吾郎をしばらくみやっていたが、やがてその肩を軽く叩いた。
「…何があったかは知らんがきっと希望ちゃんは心配しているぞ。今日はちゃんと帰ってやるんだな」







その日の夜、のろのろと家路に向かっていた彼は、古びた玄関の戸が軋んだ音を立てて開くのを見てその足を止めた。
反射的にいまにも曲がろうとしていた角の陰に身をひっこめる。
曇天の空に星はない。夜はしんしんと深く暗かった。
そんな空からぼたん大の雪がゆるゆると落ちてくる。
とても静かな世界に、玄関からちいさな人影が出てきた。
その人影は赤い半纏を着ていた。
半纏の下は白いパジャマ一枚きり。
いかにも寒そうな格好だった。
裸足のあしに無造作にスニーカーを履いた人影は、闇の支配する道路に出てくると左右を見渡した。
人影の吐く白い息がかすかな玄関灯の淡い光に薄く溶ける。
やわらかなくせっ毛の髪は洗いざらしで乾かしてもいない。
濡れた髪はいつもより艶やかに彼の瞳に飛び込んできた。



人影は彼の姿には気づかないようだった。
だから彼は息を殺してその姿を見ていた。
雪は降る。
人影は白い息を吐き、そうしてちいさくくしゃみをした。あんな格好で外にでるからだ、と彼は思った。
人影はしばらくぼうっと立ち尽くしていた。
空を見上げたまま動かない。
空からはあの日のように雪が舞い降りていて、それが洗いざらしの髪に飾りのようにくっついていく。
彼も動かなかった。動けなかったのだ。
今ここを出てしまうと何かが壊れてしまう。
そう感じて動けない。
静かな夜だった。
雪はいつだってすべての音を飲み込むように落ちてくる。
「……」



赤い半纏が玄関に消えてしまう長い間、彼はそこに立ちつくしていた。
やがて大きく息を吐き、側に建つ壁に背中をあずけてもたれかかった。

白く息が立ち上る。
冷気に凝るそれを見ながら、吾郎は思った。

「…まったく…馬鹿やなあ…」

希望はいつだって泣くことも甘えることもしない。
何かが起こっても、それを他人の所為にしようなどと考えてもいない。
だから今回のこともおそらく自分を責めているに違いがなかった。
吾郎にはそれが痛いほどによくわかっていた。
「…いやホンマに…馬鹿なのは俺や……」
希望がそう考えるだろうことは分かっていたのに、あのとき家には戻れなかった。
優しい言葉ひとつ、かけてやることが出来なかった。
何も言えなかったのだ。
あのときの自分では口を開いた拍子に、胸の奥深くに閉じ込めていた本音が零れてしまったであろうから。

彼は壁にもたれたまま空を見上げる。
曇天の空から零れてくる白い結晶はあまりにも綺麗だった。
その清らかな冷たさに頭が冷えてくる自分を感じていた。

「…なら、俺にできることは……」

誇り高くて強いくせに、意地っ張りで寂しがりやで…そのくせ人に甘えることも知らない不器用な子供。


「幸せにしたい」とは思わなかった。
自分には出来ない。
それは出来ないことだった。してはならないことだった。
望んではいけない。それは希望を縛ることになる。
子供の未来を狭めることになる。
幸せになるのは希望自身だ。
そして希望が幸せになるのを手助けしていくのが自分の役割だと、吾郎はあらためてそう思っていた。


まったく、自分の感情をもてあますなんて10代の子供のすることだ。
自分は希望に比べれば大人で、子供に比べて感情を抑える術を知っているはずなのに。
だが、と彼はひとりごちる。
もう大丈夫だ。
吾郎は思った。
大丈夫だ。
いつだって、俺の大切なのはたったひとつなのだから。


脳裏に浮かぶのは小さな子供の姿だった。
自分を助けに来てくれた幼稚園児。
祖父の葬儀で泣くこともできなかった子供。
一緒に暮らすようになって出来たたくさんの思い出。
忘れたことはたくさんあっても、それでもひとつひとつのそれは大切なものだった。

「…うん」
ふ、と彼は笑んだ。
何かが吹っ切れたような気がしたのだ。
誰よりも大切な「存在」。
それだけは何があっても変わることはないのだろう。
だからこそ自分のするべきことが分かった。そう思った。
「今が…その時なんやろうな」
大切な存在を悲しませないためになら全てを偽る事だってかまわない。

「…嘘をつく時や」


だからその日。
空を見上げたまま男は決意を固めた。

それが大人と子供の決定的な違いだった。






嘘つきの大人








「ラブ・パレード26」へつづく





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