「ラブ・パレード24」

<すれ違う感情>









吾郎の言い分はとてもよく分かっていた。
自分は子供で、涼子と吾郎のことなど何一つわかっていない子供で。
それなのにひとりでじたばたして、結果的に涼子さんに迷惑をかけてしまった。
吾郎が怒るのも無理はなかった。
だが、と希望は思ったのだ。
ではどうすれば吾郎は「幸せ」になれるのだろう。
希望にはわからなかった。
ただ自分が居る以上、吾郎は自分の幸せを後回しにしてしまうことはわかっていた。
ならば自分が居なくなるしかない。
それしかないのだ。
そう思うと胸が締め付けられるような想いだった。
…自分の幸せを考えてくれ。
そう言ったのは本心からだった。
お願いだから。もう、私のことはいいから。
あのときお前に出会えて、そうしていままで一緒に居られて。
私はそれで満足だから。そう思うから。
だから。
せめてこれからは。

そういった瞬間、吾郎の顔から表情がすうっと消えうせたのを希望は見た。
ガラスのような薄い色の瞳が、ただまっすぐに自分を射抜いている。
その、一瞬。

そして次の瞬間。
希望は吾郎に―抱きすくめられていた。
強かった。
強い力だった。
ぐんと引っ張られた身体はあっけなく吾郎の胸に押し付けられた。
数メートルあったふたりの距離。
その間の距離などあっという間に縮めて、青年は希望の身体に腕を回していた。
その力の強さに、激しさに息が詰まった。
何が起こったのかわからなかった。
頭内の思考がぐちゃぐちゃになったまま、ひたりと停止する。
混乱のあまり動けない。
…まったく、動けない。


それはほんの一瞬のことだったのかもしれない。
けれど希望にはそれは1時間も2時間も…いやそれ以上長い時間にも感じられた。
心臓が苦しかった。
うんと我慢しなければ涙が零れそうだった。
そうして、しばらくして。
馬鹿、と押し殺したような声が耳に届いてきた。
吾郎は希望の髪に顔を落としていた。
いつもよりうんと近い位置でささやかれる声に何故だか身体が震えた。
…馬鹿。考えられるわけないやないか。
声と共に吐息がかすめる。
馬鹿、と再度絞り出すように紡がれる声とともに、いっそう身体を引き寄せられた。
力の限り。


苦しかった。
呼吸も心臓もひたすらに苦しい。
胸の奥からなにかが溢れてきて息が出来ない。
だから、あと一瞬でも吾郎が離れるのが遅かったら本当に泣いていたのかもしれなかった。


「……」
吾郎は身を離すと、希望の顔を見おろした。
薄い色の瞳は今まで見たことのないような色を浮かべていて、それにいっそう混乱した。
しかし吾郎はその瞳をすうっと逸らした。
そうしてごめんとつぶやく。
何も答えられない希望の肩にコートをかけると、静かに帰りを促した。
やはり希望はなにも言えなかった。
吾郎の身体が離れたあとの空気はひたすら冷たかった。

希望は前を歩いていく吾郎の背中を見た。
追わなければ離れていく。その背中はひどく遠く感じられた。
だからコートを握り締め、唇を引き結んだ。そうしなければ本当に泣いてしまいそうだったからだ。
何かを言わなくちゃいけないと本能で感じたが、何をいえばいいのかわからない。
名前いいかけた言葉はやはり紡がれず、ただ喉の奥が震えただけだった。


そうして希望を家につれて帰ったあと、吾郎は玄関にさえ足を踏み入れなかった。
小さな軋みを立てて閉じられる扉の音。
その音に希望は振り向いたが、そこにはもう誰の姿もなかった。


希望はひとり、家の中に入ると廊下にぺたりと座り込んだ。
すると闇の奥からきなこ色の猫がやってきて、希望の膝にそうっとその前足をのせた。
希望はのろのろと目線をあげると手を伸ばした。
そうして家族である巨大な猫を抱きしめる。
するとそのあたたかさに耐えていた何かが外れた。
無意識のうちに涙が零れ出て、きなこ色の毛並みを静かに濡らす。
猫は大人しく、声も出さずに涙を零す少女の腕の中に収まっていた。


その夜は猫を抱き、廊下に座り込んだまま朝を迎えた。








ラブ・パレード24









朝の光が差し込み始めたのを認め、希望はそこではじめて立ち上がった。
猫を開放するとその頭を感謝をこめて撫で、その朝ごはんを用意する。
猫は嬉しそうに可愛くない声をあげた。
希望はかすかに笑う。そうして静かに台所の電気をつけた。
朝御飯は希望の仕事だった。遠い昔の、優しい約束だった。
あのとき、吾郎は笑った。
笑いながらあっさりと希望に告げた。
「お前さんは俺に、毎日朝ゴハンを作ってくれるんや。代わりに俺はお前さんに居場所を提供する」
どうや?
彼は笑う。
なんでもないことのようにさらりと言う。
それは彼の思いやりだった。
希望に気づかれないように吾郎はいつも先回りをする。
あのとき欲しかったものを彼はすべて与えてくれた。
居場所も、心も。
いつだって希望に気づかれないように、こっそりと。


白い湯気と味噌汁のあたたかな匂いが台所に満ちる。
いつものように朝御飯を作ったが、しかし吾郎は帰ってこなかった。


昼になっても夜中になっても、やはり吾郎は帰ってこなかった。


勉強をするつもりで広げた教科書を前に希望は起きていた。
携帯に電話してみようか、と考えてみたが結局出来なかった。
自分にそこまでの権利はない。

…会いたい。


ぽつりと浮かんだ想いに、知らず手が震えた。


会いたい。
会いたい。
…声が、聞きたい。


「馬鹿者」
希望はつぶやいた。
「どうして帰ってこないんだ」
自分がここに居られるのはほんの少しなのに。もう会えなくなるのに。
だからせめて、少しでも長く側に居たいのに。
それになにより。
「帰ってこないと謝ることもできないじゃないか…」
震える手で教科書を閉じる。
そうして顔をしかめた。
…違う。それは詭弁だ。
思うことはただひとつ。
たった、ひとつ。
ひとつきり、なのに。


夜中の2時を過ぎたときに一度だけ玄関から外へ出てみた。
身を切るように冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。
半纏の前をかき合わせて道路に出ると左右を見渡した。
しんとした静寂が耳に痛かった。
前にもこんなことがあったな、とぼんやりと思った。
ずっと昔のことだ。はじめての、クリスマスの夜。
必ず帰ってくるといった吾郎を外で待っていた。
そう。自分は、吾郎に会いたかったから待っていた。
あのときは吾郎は約束通りに帰ってきてくれた。
仕事で忙しかったろうに駅から走って帰ってきてくれた。
外で待っている希望をみつけて、そうして目を丸くした。


けれども今日は吾郎は帰ってこない。
希望はその場に立ち竦んだ。
でも。もし。
あのときのように、こうして外で待っていたら帰ってきてくれるなら…。

ならば、待つのに。
会うことができるならどれだけだって待つのに。


祈るように、そう思った。










・・・・・・・・・・・・






「おっはーおっはー!今日も寒いね藤堂っ!」
二ノ宮夏美は下駄箱の前で佇んでいる小さな背中に声をかけた。
あれからずっと気になっていたので朝一番に会えたことが嬉しい。
うふうふと笑いながら下駄箱の蓋を開ける。
「……」
しかし希望からの返事はなかった。下駄箱を開けたままぼうっと突っ立っている。
夏美はきょとんと希望を見下ろした。
「藤堂?」
「……」
やはり希望は答えなかった。
不思議に思って希望の顔を覗き込んだ夏美は、それこそ目が飛び出てしまいそうなほど驚い た。
希望の顔色は真っ青だったのだ。
ただでさえ白いその顔は蒼白で、瞳は赤い。身体は小刻みに震えてさえいた。
「と、藤堂……」
こんな希望をみるのは初めてだった。
「…ああ、すまん二ノ宮。おはよう」
希望はそこではじめて夏美に気づいたようだった。靴箱の扉を締めると上履きに足を入れる。
しかしやはりその表情は硬かった。
「ねっねえ、藤堂…大丈夫なの?」
「平気だ」
そういう声音もかすかに震えている。
夏美はむ、と唇を引き結んだ。
「大丈夫には見えない」
「調子が悪いわけじゃない。大丈夫だから…」
「大丈夫だから、じゃないの!」
夏美はぴしゃりと言った。
その有無を言わせぬ迫力に、呆気に取られたように希望が見上げてくる。
「保健室行こう!」
夏美はその瞳を見返しながらきっぱりと宣言した。




保健室に教師はいなかった。
きっと朝礼だからだね、といいながら夏美は希望をベッドに寝かしつけた。
希望が大人しくベッドに潜り込むのを見届けて、夏美は横のベッドによいしょと座り込む。
それを見て希望が眉を寄せた。
「おい、二ノ宮…」
「硬いこと言わない言わない。朝礼ぐらいさぼったって大丈夫だよ」
夏美はあっけらかんと手を振って見せた。
だって友達の方が大切だし、と心の中でつぶやく。
「それよりどうしたの?すごい顔色だよ」
「大丈夫だ」
やはり同じ答えに夏美はむう、と顔をしかめた。
「だって大丈夫に見えないだもん」
「ただの寝不足なだけなんだ。だから」
「寝不足?」
「ああ…」
頷いて希望は瞳を閉じた。



「もしかして…吾郎さんとなにかあったの?」
夏美がおずおずと口を開いた。
土曜日からずっと気になっていたのだ。
二人とも綺麗に着飾っていた。とても素敵だった、と夏美は思う。
とてもとても幸せそうな光景に思えた。
二人の並ぶ光景は、パズルのピースがぴたりと合うかのように自然なことのように思えた。
だけどその裏で希望は決めていたことがあったのだ。
弁護士の先生のところに挨拶に行くのだと希望は言っていた。
そして、それから「償い」をするのだと。
せめてもの「償い」をしたいのだと。
「……」
希望は答えなかった。
それで夏美は再び尋ねた。
「吾郎さんと、元彼女さんは…うまくいったの…?」



数日前、希望は言っていたのだ。
「吾郎と涼子さんがうまくいけばいいと思うんだ」
「でも、もう別れているんでしょ?」
夏美が言うと希望は首を横に振った。
「でも、吾郎は涼子さんのことが本当に好きだったんだ。そして、涼子さんも」
「…でも」
「これでもいろいろ考えたんだ」
目の前の少女は自らのてのひらをそっと握りこんだ。
「ふたりは私のせいで別れたのだと…私は思う。少なくとも、原因のひとつではあったと思うんだ。
お互いに嫌いになったとか、そういう理由じゃないと思う。だから今ならまだ、間に合うかもしれない」





「…吾郎は怒っていた。」
しばらくして希望はぽつりとつぶやいた。
「怒ってた?どうして?」
「人の気持ちも考えず、自分勝手なことをするな、と。それは、自己満足だ、と。」
「そんなあ…」
夏美は思わず呻いた。
「ひどいよ」
しかし希望は慌てたように首を横に振った。
「いや、違う。それは本当のことなんだ。わたしは結局のところ子供で、子供すぎて、ふたりのことなど何ひとつわかっていなかったんだ」
窓の外から見える青空は綺麗だった。
保健室のヒーターが唸る音がひそかに響いている。
「…怒られたから二日も眠れなかったの?」
希望は瞳を見開いた。
よくよくみればその瞳は赤い。
「それは違う。あいつは本当に怒っていて…けれど私は謝れなかった。
それですこし、喧嘩のようになってしまった」
「喧嘩?」
また癇癪を起こしてしまったんだ、と希望はつぶやく。
「癇癪を起こしてしまった私をあいつが宥めてくれて…。また、わたしは迷惑をかけてしまった」





子供のように癇癪を起こしてしまった。
しかも2度目だ。
吾郎は、やはりあのときと同じように抱きしめてくれた。
子供をあやす、宥めるための行為。
希望は思う。
だからあれはきっと、吾郎の優しさだったのだろう。
だから、だからこそ私は。
「…謝りたいんだ。わたしは。あんな勝手な真似をしてすまないと。
人の心を土足で踏み躙るようなことをしてしまないと。でも、でも…帰ってこない」
二日も声すら聞いていない。
どうしたら良いのかわからない。





ぽつぽつと希望は語る。
声も表情も淡々としていたが、それでも布団の傍らに置かれた手はかすかに震えていた。


「…馬鹿者…」






すれ違う感情








「ラブ・パレード25」へつづく





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