「ラブ・パレード23」

<赤谷吾郎>






「…お前は、馬鹿だな……」


三ヶ月前の秋の日。その日は、母親の命日だった。

縁側に腰掛けていた吾郎の隣にやってきた少女は、彼の懺悔ともいえる告白の後にぼそりとそうつぶやいた。
いつものような無愛想な表情はそのまま。
しかしその声音はどこか柔らかく吾郎の耳に響いていた。
「こら。年上をつかまえて馬鹿馬鹿ゆうなや」
吾郎が苦笑を浮かべると、少女はむっつりとした顔を秋の空に向けたままさらに続けた。
「だって馬鹿じゃないか」
「あんなあ…」
「お前は悔やんでいるのだな」
その言葉に吾郎はぎくりとした。思わず隣の少女に視線をやる。
しかしそれは交じわらなかった。少女の大きな瞳は秋の青い空を映したまま動かない。
秋の涼やかな風だけが子供のいかにも柔らかそうな髪を揺らしていた。
「母親を救えなかったことを悔やんでいる。自分のせいだと思っている。罪だとそう思っている」
「……」
吾郎は答えなかった。ただ黙って視線を秋の空へと向ける。
空は限りなく高い。筆でのばしたかのような青色は薄い、水の色をしていた。
「自分は罪人だ。そう思っているんだろう」
青年も少女も空を見たまま動かなかった。
視線を交わすこともなく、青年はゆるく苦笑する。
「せやな…」
「……」
わずかに希望は黙り込む。
しかしすぐに小さく言葉を紡いだ。
「だとしたら私も罪人だな」
吾郎はその言葉に瞳を見開いた。
「私もじい様を助けられなかった」
「ば、馬鹿。それはちゃう……」
「どこが違う」
子供はきっぱりと言った。
「違わないんだ。あの時…じい様が亡くなる前、私だってじい様の体調が思わしくないことぐらいわかっていた。
でも病院に連れて行けなかった。ひっぱってでも、どんな手段を使っても、連れて行くべきだったのかもしれない。
でも私には出来なかった。じい様が嫌がるから医者も呼べなかった。……私だって見殺しにしたようなものだ」
「……」
「お前が自分のことを罪人だというなら私だってそうなんだ。大切な人を救えなかった…」
「…希望」
「お前が言っているのはそういうことだ。悔いが残る者はお前だけじゃない。みんなそう思うんだ。
あのとき、自分にはなにか出来たんじゃないかと。そうすれば助けられたんじゃないかと」
「……」
「だがな。悔いを永遠にひきずり罪にすりかえてしまうなど…そんなこと大馬鹿者のすることだ」
少女は顔を傾け、そうしてまっすぐに青年を見上げた。
強い瞳。思わず惹きつけられてしまいそうなほどその光は強い。
「私がもしお前の母親の立場なら、そんなこと望まない。息子が自分のせいで罪を感じているなんてそんなことは悲しい。すごく辛い。
親のことを大切に思うことのできる息子を育てあげた母親だ。きっとそんなことを望んでいない。…わたしは、そう思う」
青年は瞬くのも忘れて少女をみつめていた。
少女はゆっくりと微笑んだ。
それは少女が滅多に見せない、やわらかなやわらかな笑みだった。

「お前を『お前』に育てた『母親』だ。だから絶対そんな風に思っていない。思ってなんかいない。私が断言してやる」


青年はしばらく何も言わなかった。
空の色がゆるやかに変わり始め、温かな橙色が空の稜線を染め上げる。
ふたりはその空を見上げたまま縁側に座っていた。


やがて吾郎が小さく声を洩らした。
「…希望、ごめん。1分だけ、肩貸してやってや……」
そうしてそうっと希望のちいさな肩に頭をのせた。
希望は驚いたようにびくりと身体を震わせたが、それでも何も言わなかった。


ほそい肩に額をつけ、息を吐く。
甘えている自覚はあった。
13歳も年下の子供に甘えるなんてどうかしているとも思った。
だが、今だけは。


この子供は本当に強いな。


心の底から、そう思った。








ラブ・パレード23









俺が望むこと。
俺がなによりも願うこと。

その行く先は違っていてもかまわない。
望むことが叶えられなくても、願いさえ叶えられればそれでいい。









辺りは既に闇に沈んでいた。
いつもは必ず灯りのついている家までもが闇にのまれている様子は、いかにも寂しかった。
家に入ると暗い廊下をのっそりときなこ色の猫が歩いてきた。
吾郎を見上げ、そうして何かに抗議するかのようにぶにゃあと鳴く。
吾郎はコートも脱がずに猫に夕飯を用意すると、そのまま家を出た。
希望はあれから、家に戻って来てはいないようだった。


どこに行ったのだろう。
そう考え、もしかしたら誰かと一緒に居るのかもしれないと思った。
今日はバレンタインという特別な日だ。だから、もしかしたら好きな男と一緒なのかもしれなかった。
吾郎は小さく息を吐く。
胸の奥に押し込めている感情には気づかないふりをした。


冬の空は暗かった。
しんしんと忍び寄る冷気は髪の先までも凍えさせる。
白い息を見ながら、そういや希望は薄着だったとふいに思った。
だから彼は足を速めた。
もしも希望が誰にも会っていないのなら、行きそうな先はふたつしか思い当らなかった。
藤堂家の跡地。
もしくは…彼女の祖父の眠っている場所。


跡地には希望はいなかった。
元は立派な日本家屋だったそこには、今では20階建てのマンションが鎮座していた。
吾郎はしばらくそれを見上げていたが、やがてきびすを返した。
迷いもなく墓地へ向かう。
そうして思った。
そんな寂しいところに居なければいい。
どこか他の場所で、誰かと一緒であった方がいい。
そう思いながら、何故か希望は墓地に居るような気がしてならなかった。
ぽつんとひとり。
たった、ひとりきりで。
馬鹿。そう思った。


歩いていくうちに焦燥感が膨らんでいくのを感じた。
じりじりとそれは胸を占めていく。
希望が自分のことを考えてくれるのは嬉しい。
優しい子供が、残される自分のことを心配してくれているのは明らかだったからだ。
けれど同時に悲しかった。
なぜならそれはまったく見当違いのことだからだ。
希望は自分の感情などひとつも理解していない。
理解されなくても良いと思ったのは自分だったのに、焦燥感を覚えてしまう自分に苛立った。
まったく…自分は勝手だ。





藤堂希望という「子供」のことを、吾郎はきっとよく知っていたと思う。
けれど藤堂希望という「少女」のことは知らなかった。
まったく、知らなかった。


最近になって時折希望が見せる「少女」の表情はひどく吾郎を戸惑わせていた。
もちろんそんなこと希望は知らなかったし、知らせるつもりなんて毛頭なかった。
希望は希望で、ほかの何者でもなかったからだ。
ただ自分が変わってしまっただけだ。
そう思っていた。

いつだって希望は希望のままに懸命に生きている。
それはあまりにも格好良くて凛々しくて、それでいて誰よりも守りたいと思わせるものだ った。
守りたいなど陳腐な言葉だということはわかっている。
そして同時に、とても傲慢な言葉であるということも。
それでも彼はそう思った。
はじめて出会った時からずっと。
希望を引き取ることになり、そうしてその想いはいっそう深まった。
藤堂希望という存在をこの世の中にたくさん溢れている悲しいことから守りたかった。
凛としたその魂を守りたかった。
初めて希望に出会ったときから今でも、その想いが変わることはなかった。
自分の中の根っこの部分の感情はそのままであることは確かだ。
ただ最近になってひとつだけ、その感情に付随してくるものがあった。
その最たるものが希望が「女」だったということだ。
そのことにふいに気づいたのは秋の日のことだった。
ほんの少し前の11月。
秋の日の高い空の下。
彼の懺悔にも似た告白を聞いて叱りつけてきた。
そのくせ側にいてくれた。
なにも言わずに肩を貸してくれた。
それからの彼は自分の中のその感情を知らない振りをしてきた。
それは考えてはならないことだったからだ。
自分は希望にとって後見人で友人で、かりそめの家族だった。
それで充分だった。
これまで一緒に居てくれて、いろいろなものを与えてくれた。
それで充分なはずだった。
充分じゃないか。彼はそう思っていた。
思おうとしていた。
それ以上のことは考えてはならなかった。
絶対に考えてはならないことだった。
なぜならそれは…何よりも守りたいはずの存在を何よりも傷つけてしまうことになるからだ。








閑散とした冬の墓地。
そこに居た少女の顔は青白く凍えてみえた。どのくらい此処に居たのだろう。
ただでさえ白い肌がいっそう蒼ざめていた。
安堵と共に現れたのは激情だった。
優しい少女の行動が今は悲しくてならなかった。
希望は言う。
「涼子さんと家族になりたがっていたじゃないか。あんなに惚れていたじゃないか。
私が居なければ、お前はきっと、もっと早く自分の望むものを手に入れることが出来たはずなんだ」
寒さのためか。怒りのためか。身体の両脇に降ろしたちいさな拳が震えているのが目に入ってきた。
「望むもの?…馬鹿、俺は……」
お前さえ。そういいかけて吾郎はその先を飲み込んだ。
そんなことを言ってなんになるというのだろう。
しかし目の前の少女は青年から視線を逸らさずに言い募る。
…お願いだから。
希望は言った。
いまにも泣きだしそうな表情で。
紡がれる声は震えていた。
かすれて、祈るように紡がれる言葉はなによりも真実を帯びていて。
……お前は自分の幸せを考えてくれ。


それから先は何も考えられなかった。
気づいたら希望を抱きしめていた。
小さく華奢な身体は思っていたよりもずっと柔らかかった。
子供じゃない。それは知らない身体だった。
自分の幸せを考えろと少女は言った。
お願いだから、と。
吾郎はは黙ったまま、ただその身体に回した手に力をこめた。
折れてしまいそうなほどその身体は細い。




馬鹿野朗と絞り出すように言ったのは覚えている。
言葉に出来たのはそれだけだった。
細い身体を引き寄せ、その髪に顔をうずめる。
甘い、甘い香り。
その香りの中で声にならない言葉を続ける。


自分の幸せを考えること。
そんなこと出来ない。出来るはずがなかった。
俺の幸せだけを考えたら、お前はどうなる。
俺は。
俺の幸せは…望みは。


望みはたったひとつ。
この少女と居ることだ。ずっと共に居ることだ。

願いはたったひとつ。
この少女が幸せになることだ。こころの底から笑える毎日を過ごすことだ。
この願いは叶えたかった。
どうしても。
なにがあっても。
それが例え…自分の望みを踏みつぶすことになっても。





だからいいのだ。
吾郎は思った。
腕の中の少女に向けて心の中で告げる。

俺のことなんか考えずに、自分の信じた道を歩めばいい。
俺は出来そこないの大人だが、旅立つ子供をひきとめるようなことはしない。
好きな男がいるなら尚更だ。
だから余計なことは告げない。
絶対に、告げない


そうでなければこの優しい子供は自分の感情を偽ってしまう。
偽り、自分の傍に居ようとするのだろう。
好きな男のことも諦めてしまうのだろう。


俺は足枷にはならない。
そんなことは絶対にあってはならない。
それだけは、絶対だった。

…だから俺は、自分の幸せを考えることは出来ない。


吾郎は希望に近づけていた顔をゆっくりと引き離した。
吐息だけが少女の唇を、頬をかすめていく。
長いまつげがかすかに揺れた。
「……」
絶対に俺はこれ以上触れない。
これ以上は望まない。
だから。


吾郎は希望の顔を見なかった。
少女にまわしていた腕をとき、その身体を解放する。
そうしてごめんとつぶやいた。
着ていたコートを脱ぎ、希望の肩にかける。
帰ろうと促すと、視界の端で希望が糸の切れた人形のようにこくりと頷くのが見えた。
それきり何も言わずに歩き出す。
希望も黙ったままその後を着いてきた。


希望を家に送ると吾郎は何も言わずに踵を返した。
今の状態のまま、希望と同じ家に居ることなど出来なかった。








赤谷吾郎








「ラブ・パレード24」へつづく





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