「ラブ・パレード22」

<抱擁>






希望が吾郎という男に出会ってから10年になる。
長い、長い年月。
その間にこの男が「怒った」事はなかった。

「叱られた」ことならある。

小さな頃にひとりでオーブンを使ってしまった時。
不良の喧嘩に手を出してしまった時。
「やってはいけない」と約束をしたことを破った時。
そんな時吾郎は希望を「叱り」、そうしてごつんと拳骨さえ落としてきた。


しかし……「怒った」ことは一度としてなかった。








「希望」
男は低く言葉を紡ぐ。
「なんであないなことをした?」


その声は今まで希望が聞いたどの声とも違っていた。
低く抑えられた…静かな声音。
希望はその声の主を見上げたまま動けなかった。
誰よりも見慣れたその姿。
なのに今は知らない人のように見えて、それに戸惑った。
「…涼子さんは……?」
なんとか声を絞り出すと、男の琥珀色の瞳がかすかに細められた。
「質問しとるのはこっちや」
希望は視線を落とした。
琥珀色の吾郎の瞳。
いつもはこっそりと綺麗に思っていたその瞳を、今は見ることができなかった。
「どうして……ここが分かった」
「質問に答えろ。希望」
「……」
希望は一層顔を俯けた。



薄暗い墓地はいかにも寂しかった。
誰の気配もない淡い闇の中、ただ風の起こす木々のざわめきだけが満ちている。
しんしんと冷え込む空気はふたりの吐息を白く凍えさせてたなびいてゆく。


「…お前が」
しばらくして響いた男の声に希望は小さく身じろぎした。
「…お前が俺の為を思ってやってくれたんやろうことは…俺にだってわかっとるで」
希望は答えなかった。目の前の吐息が白く流れていく。
「…希望。お前が俺の心配をしてくれるんは嬉しい。けど俺は…」
男の声は静かだった。
それは彼の感情が…「怒り」が深いことを示しているようにも思えた。
「俺の幸せくらい、自分で決める」
希望は息を飲んだ。そうして唇を噛む。
膝の上で握り締めていた手が小さく震えた。
ふたりの距離は、果てなく遠い。
「…もう、決まっとる…」

静かに…静かに男はつぶやいた。



希望は俯いたまま青年の言葉を聴いていた。
その視界にはむき出しの地面と、ひそやかな闇だけが広がっている。
顔を上げようとしたができなかった。
怖気づきそうなほど、それは勇気のいることだった。
吾郎は怒っていた。
静かに…静かに「怒って」いた。
そして同時に悲しげでもあった。
そうしてそれを生んだのは間違いなく自分の行動のせいであることが明白だったから、それが辛くてならなかった。

謝らなければ。すぐにそう思った。


吾郎に「しあわせ」になって欲しいのは真実だ。
だけれどそれは押し付けるべきものではなかったのだ。
精一杯考えたが違えてしまった答え。
どうすればよいのかだなんてわからなかったけれど、それが間違えていたというのなら。
だとしたらそれは自分が愚かで、子供であったということだ。
だから、謝らなければならない。



気力を振り絞って立ち上がる。
そうして2メートル先に立つ男を見上げた。
しかしすぐにその身がぎくりと強張った。意図せず心臓が跳ねる。
目の前の男はまっすぐに希望を見ていた。
その薄い色の瞳も、感情も、意識も、そのすべてが痛いぐらいまっすぐに希望に向けられていた。

希望は立ちすくんだ。
冷たい風が吹き抜けて、さらに少女を凍えさせる。

……はじめて吾郎を、怖いと思った。




ラブ・パレード22










希望は黙って吾郎を見上げていた。
怖かった。
逃げ出したいほど「怒り」の感情が怖い。
けれども視線は逸らすことはしなかった。
怖いのは自分の所為だからだ。
こんなにも吾郎が怖いと思うのは、自分の所為だろうからだ。




吾郎の眉がひそめられる。
「希望」
感情を押さえ込んだ声音がその唇から洩れる。
「…お前がこんな馬鹿なことをするとは思わんかった」



希望は瞳を見開いた。
ぐらぐらと頭が揺れるような気がした。
「俺も涼子も伊達に長く生きとるわけやないんや。自分の幸せぐらい自分でみつけられる。
…別れたのも俺らふたりで決めたことや。せやから後悔なんてしてない。ましてやお前のせいだなんてことは絶対ない」
吾郎は押し殺したような声のまま淡々と続ける。
「お前は多分…家にひとり残される俺が可哀想やってそう思ってくれたんやろう。せやけどそれに涼子を巻き込んだらあかん。
そんなの、単なるお前の自己満足や。自分勝手で途方もなく子供じみた、自己中心的な考えや」
「……」
「涼子もそのことはわかっとるみたいやった。笑っとった。お前が一生懸命だったって。相変わらずまっすぐやって」
「……」
「俺のことを考えてくれるのは嬉しい。せやけど、違うやろう?お前は、俺の気持ちも涼子の気持ちもわかっとら……」
「…がう」
希望は震える唇を開いた。
「違う」
吾郎は眉をしかめた。
「何が違う。お前は…」
「わかってないのはお前の方じゃないか!」
希望はほとんど叫ぶように吾郎を睨みつけた。
頬が、眦が熱かった。
「お前こそ何もわかっていないじゃないか!お前は…なによりも家族が欲しいくせに……」
吾郎の驚いたような表情が目に飛び込んでくる。
希望はただ必死だった。
言葉を紡ぐことは得意じゃない。けれども伝えたいことなら山のように存在していた。
「涼子さんと家族になりたがっていたじゃないか。あんなに惚れていたじゃないか。
私が居なければ、お前はきっと、もっと早く自分の望むものを手に入れることが出来たはずなんだ」
10年間降り積もってきた感情。その感情の正体に自分が気づいたのはほんの少し前。
だけれどきっと涼子さんには気づかれていた。だから、多分。
「望むもの?……馬鹿。俺は……」
「お前は馬鹿だからわからないんだ。私が居たから…私の所為でお前は涼子さんを、家族を手に入れることができなかったんだ。
涼子さんだってお前のことを大切に思っていた。本当にそうだったんだ。知らないのはお前だけだ」
「のぞ……」
「わからないのか、お前は。お前たちが別れたのはほかにも理由があったのかもしれない。けれど、たぶん…私がひとつの原因だったことは否めない。私がお前を……」
涼子さんは知っていた。
彼女は自分では否定するだろうけれど本当はとてもとても優しいひとだ。
だから…私のことを考えてくれたのかもしれない。
いや、きっと。
おそらく…たぶん。
「…私のしたことは愚かなことだっただろう。だから、謝る。お前たちの気持ちを無視していたから…だから謝る。だが…」
希望は唇をかみ締めた。
静かな空間の中、震える声がかき消されるかのように小さくなっていく。
お願いだから。
かすれるような声がかろうじて絞り出せた。
「お前は、もう…自分の幸せのことだけを考えてくれ……」
希望は瞬いた。
喉が震える。
けれども泣くことだけはもうしないと誓ったから、それだけは耐えようと思った。


吾郎の言い分はとてもよく分かっていた。
自分は子供で、涼子さんと吾郎のことなど何一つわかっていない子供で。
それなのにひとりでじたばたして涼子に迷惑をかけてしまった。
吾郎が怒るのも無理はなかった。
だが、と希望は思ったのだ。
ではどうすれば吾郎は「幸せ」になれるのだろう。
希望にはわからなかった。
ただ自分が居る以上、吾郎は自分の幸せを後回しにしてしまうことはわかっていた。
ならば自分が居なくなるしかない。
それしかないのだ。
そう思うと胸が締め付けられるような想いだった。
……自分の幸せを考えてくれ。
そう言ったのは本心からだった。
お願いだから。もう、私のことはいいから。
あのときお前に出会えて、そうしていままで一緒に居られて。
私はそれで満足だから。そう思うから。
だから。
せめてこれからは。


そう告げた瞬間、吾郎の顔から表情がすうっと消え失せたのを希望は見た。
ガラスのような薄い色の瞳が、ただまっすぐに自分を射抜いているのを希望は見た。



そうして次の瞬間。

――強く、抱き締められていた。















「ラブ・パレード23」へつづく





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