「ラブ・パレード21」<償い> |
希望が吾郎に「母親」のことを告げられたのは半年前のことだった。 吾郎はその日、縁側でひとり座っていた。 縁側の柱にもたれて、ぼうっとした瞳で空を眺めていた。 希望は洗濯物を抱えたままその背中をみつめていた。 いつもは大きく見えるその姿。 しかしその姿が今はひどく儚いものに思えていた。 心細さに押しつぶされそうな、小さな迷子。 泣きたいのに泣けない。感情を必死に押し殺して、そうしてそのことにさえ気づいていない馬鹿な子供。 だからこそ声をかけられずにはいられなかった。 ……吾郎。具合でも悪いのか。 考えた末にそう尋ねると、吾郎は驚いたように目を見張った。 次いで苦笑を浮かべる。 そうして希望の抱えている洗濯物に気づくと手伝おうかと声をかけてきた。 希望は首を横に振る。 そうして何も言わずに吾郎の隣に腰掛けた。 洗濯物の入った籠をお腹の上で抱えこんで、吾郎がそうしていたように空を見る。 薄い秋空はどこまでも高い。 すぐ真横で吾郎が笑う気配が伝わってきた。何故なのかはわからない。 しかしすぐにそれは途切れ、小さな沈黙がふたりを包んだ。 そうして並んで空を見上げていると、やがて吾郎が話し始めた。 笑みを浮かべたまま、明るい口調で。 希望はそれを黙って聞いていた。 小さな仏壇にある吾郎の両親の写真。 ずっと気になってはいたのだが、吾郎が自分の親のことを話すのは初めてだった。 すべてを聞いた後、希望は一言そうか、と答えた。 吾郎は母親を救えなかったことを悔やんでいるようだった。 彼がそうはっきりと語ったわけではない。 けれど希望は、努めて明るく話そうとする言葉のはしばしから、表情から、零れてくる感情を感じてしまった。 ……今まで黙ってて、ごめんな。 吾郎は困ったように笑いながらそう言った。 ……別に隠すつもりやなかってんけど、なんかな、こんな暗いことわざわざ言うのもなんやと思ってな。 希望は吾郎の横顔を見上げた。 秋の風が縁側のふたりの間を吹き抜けていく。 しばらくして、ぽつりと希望はつぶやいた。 「…お前は、馬鹿だな……」
ラブ・パレード21
「あんたね、この涼子様が食事に付き合ってあげるって言っているのに何て顔をしてるのよ。不服なの?」 涼子に促されるままにレストランに入った吾郎は、呆然と目の前の美女をみつめた。 「いや……そうやなくてやな……」 「まあいいわ。食前酒はどうする?もうおまかせにしちゃいましょうか。その方がいいわね。 今日予約していたコースのメインは肉料理なんですって。それにあわせてもらいましょ」 てきぱきとウエイターに指示する涼子をぼんやりと見ていた吾郎は、やがて頭をひとつ振って息を吐いた。 「…なんや頭が混乱してようわからんのやけど、なんでお前が此処に居るん?」 「なんでって」 涼子はにっこりと笑った。 「のんちゃんに頼まれたからに決まっているじゃないの」 吾郎はぽかんと口を開けた。 「のんちゃん……希望?」 「吾郎はまだ涼子さんのことを大切に想っているんです。だからもう一度やり直してくれませんか」 「……な……」 「考えるだけでもいいんです。お願いしますって、本気で頭下げてたわよ。あの子」 「……」 涼子は吾郎の表情を見て軽く肩をすくめた。そうしてさらに微笑む。 「……あたしは馬鹿じゃないから、これはあんたが指図したんじゃないってことはわかってるわ。 あの子が勝手にやったのね。あんたの為に」 しかし次いで洩らされた言葉の内容はどこまでも辛辣で容赦なかった。 「わかっているわよね。吾郎。これはあんたが悪いわ。こんなことに時間を使わなきゃならないあたしは凄く迷惑」 「…ホンマ、そうやな…」 吾郎は息を吐き、そうして片手で自分の頭を押さえた。 絞り出した声は低く擦れている。脳裏には先ほどの少女の表情が浮かんで離れなかった。 「…ごめんな。涼子」 すると涼子は吾郎をまじまじと見やった。 そうしてすぐににこりと笑う。今度は綺麗というより彼女本来の可愛らしい笑みだった。 「ま。あんたが馬鹿なのはまあわかってたことだし仕方がないわ。 せっかくのんちゃんが用意してくれたディナーなんだからおいしく頂きましょ?お金はのんちゃんが払ってくれてるんですって。 あんたも頭に血が昇っているみたいだから少しは冷やしなさい。 ……話はそれからでも遅くないわよ」 「で、どうなの?」 涼子は食後の珈琲にミルクを注ぎながら口を開いた。 目の前には彼女の「元彼氏」が難しい表情で座っている。 怒っているのか悲しんでいるのか。或いはその両方なのか。 沢山の感情を押し込めたようなそれは、この青年には珍しいものだった。 「いい加減、自分があたしに振られた理由はわかった?」 吾郎は涼子に視線を移した。 「理由」 涼子はにこりと微笑んで頬にかかる髪を耳にかけた。 「あたしが何に対して怒って…嫉妬していたか」 吾郎は黙って涼子の顔を見ていたが、やがて小さく息をついた。 「…なんとなく、な」 「好きな男に既に「一番」が居るなんて、女にとっては屈辱でしかないのよ。それが例え恋愛感情じゃなくてもね」 「……」 「勉強になった?」 そっけなく涼子は言ったが、その顔にはやはり笑みが浮かんでいる。 「認識するのが遅いのよ。」 「せやな。…ごめん」 「あのときのことを今更謝られたって仕方ないわ。まあ、のんちゃんに免じて許してあげる」 ここの料理もおいしかったし、と涼子はカップを口に運んだ。 「……のんちゃんは相変わらずまっすぐね」 「……」 「あんたは少しだけ大人ぶってるのね」 なにを、と吾郎は聞かなかった。 珍しいスーツ姿のせいか、難しい表情をした青年はいつもの陽気な関西人には見えなかった。 「のんちゃんに聞いたわ。のんちゃん、家を出て行くんだってね」 「ああ」 「自分の気持ちをぶちまけて、行くなーってことはしないの?」 吾郎はかすかに苦笑を浮かべた。 「そんなんせえへん」 「ふん。かっこつけ」 「やかましいわい」 おどけたような口調に、くすりと涼子は笑んだ。 「でものんちゃんは本当に出て行きたいわけ?」 そういうと吾郎は不思議そうに目を見開いた。 「そりゃあそうや。あいつが決めたことやから」 心底不思議そうな声音だった。 「ちゃんとした理由があんねん。きっとな」 それに、と吾郎は続ける。 「希望には好きな奴もおる。せやのにいつまでも血の繋がってない男と住んどるっちゅうのはアカンやろうしなあ」 その台詞に涼子はあやうく手にしていたカップを取り落とすところだった。 次いで口にしていた珈琲が気管に入りかけ、激しくむせ返ってしまう。 「うわ、大丈夫か?」 涼子はナプキンで口を押さえながら頷いた。なんとか呼吸を整え、目前で心配そうな表情を浮かべている男の顔を見る。 その様子に涼子は確信した。どうやら先ほどの台詞は冗談ではないらしい。 「……のんちゃんが言ったの?」 「へ?なにを?」 「だからそれよ。他に好きな人がいるって」 吾郎はやはり不思議そうに頷いた。 何故涼子が驚いているのか、彼には本当に理解できないのだろう。 「せやで。まあ、そりゃあな、あいつも16やし。好きな奴くらいおっても……」 涼子は盛大にため息をつく。そうして自分の額をおさえた。頭痛がするくらい目の前の男に呆れていた。 こいつは本当に何もわかっていないのだろうか。 あんなにあの少女は一途で…一生懸命なのに。 「ああもうまったく、やっぱりあんたは馬鹿吾郎なんだわ。」 「はあ?」 「教えない。あたしがそれを言うのはマナー違反だろうし。まったく、でもねえ……」 涼子は自分のこめかみを押さえながら唸った。 「今回の事だってあんたがちゃんとあたし達のことを説明しなかったのが悪いのよ。 だからのんちゃんは自分の所為だって思いこんじゃってる。それはわかっているわよね」 そういうと吾郎はしおしおと肩をすくめた。 「…うん、ホンマや。気にしとったんやな…あいつ」 「ちゃんと説明しなさいよね。それと……」 涼子はふう、と息を吐いた。 これ以上は言えない。あとはふたりの問題だった。 誰よりもお互いのことを考えているくせに、誰よりもお互いのことがわかっていないのだ。 このふたりは。 だから、涼子がアドバイスできるはここまでだった。 「もう少し…本音でのんちゃんと向き合うのね」 希望は足を止めた。 すでに日は落ちていた。身体の底から凍えるような風が全身を舐めるように吹きぬけていく。 「……」 冬の、そして夜の墓地はあまりにも静かだった。 周りの木々は果てなく黒い。 等間隔で置かれている街灯だけがぼんやりとした光を放っていたが、それはいたずらに陰を作り出し夜の闇を余計に深いものにしてしまっていた。 希望の目の前にあるのはひとつの墓石だった。 そこには少女の家族の名前が記されている。 希望は苦笑を洩らした。 ……ああ。自分は弱いな。 心の底からそう思った。 希望の祖父、そして両親の墓はふたつ隣の町にあった。 帰宅する為に電車に乗っているうちに、ふいに此処に寄ることを思いついた。 それはきっと自分の心が弱っているからなのだろう。 そうと思うと本当に呆れざるを得ない。 希望は墓前で腰を落とし、両手を合わせた。 正月に吾郎と共に来て以来だったから、約一ヶ月ぶりだった。 「…じい様」 希望はぽつりとつぶやいた。 白く呼気が流れていく。 誰も居ない静かな墓地の中で、希望の声だけがひそやかに響いていく。 「……私は、吾郎と居れて幸せでした」 ぽつりぽつり。 決して口数の多いほうではない少女は雨だれのように言葉を紡ぐ。 「じい様が吾郎を後見人にしてくれたこと、私は感謝しています。それは本当のことで…。…でも、じい様…」 私は。 「私は汚いから……」 風が吹き、俯いた少女の髪を揺らした。 「吾郎に幸せになって欲しいのは本当のことなんです…それなのに…私は…」 側に居たいのは本当のこと。 幸せになってほしいのも本当のこと。 こころから願うのも本当のこと。 だけども自分はあまりに愚かで醜いから。 ……吾郎が「誰か」を一番に愛しているのを「近く」で見ているのが辛いのだ。 それはきっと「嫉妬」というものなのだろうと希望は思う。 幸せになる吾郎をみるのは本当に、本当に嬉しい。 だけども同時に悲しくて、寂しかった。 そしてそんな自分を希望は何よりも疎んじていた。 …大嫌いだった。 希望が吾郎の家を出るのは彼のためばかりではなかった。 吾郎の幸せを思って。そんな美談ではないことを希望は知っている。 所詮は自分のためなのだ。 吾郎が「誰よりも大切な人」を見つけて、その人をみつめて、「幸せな家庭」を築いて。 それを自分は側で「みている」ことなんて出来ない。 出来るわけがない。 そのことを考えるだけで心臓がぎりぎりと締め付けられるように痛いのに、呼吸が出来なくなるほど苦しいのに。 そんなこと出来るわけがなかった。 吾郎はきっと、希望を追い出したりはしないだろうからそれがよけいに悲しかった。 だからこそ自分は狭量で…醜いのだ。 希望はくちびるを噛み締める。 強くなりたい。そう思った。 吾郎の幸せをこころから祝福してあげられるような、そんな人間になりたかった。 吾郎は自分にとって「大切な人」なのだ。 阿呆で、鈍感で、無鉄砲で、お人よしの大馬鹿者。 だけれど誰よりも…愛しいのは真実だから。 いろいろ考えて、いろいろ悩んだけれど、それだけは揺ぎない真実だから。 「…じい様」 ぽつりと希望はつぶやいた。 だからどうか。 「じい様も見守って下さい。吾郎が…「幸せ」になれるように…」 そのとき背後で土を踏む音が響いた。 「希望」 氷のような硬い声が少女の名を呼ぶ。 希望ははじかれたように顔をあげ、そうして振り向いた。 そうしてそこに居るはずのない姿を認めて呆然とした。 「…吾郎…」 おぼろげな街灯の下、青年の険しい表情だけが見て取れた。
償い
「ラブ・パレード22」へつづく
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