「ラブ・パレード15」

<触れられない境界線>







吾郎は困惑していた。

空はすでに暁色の一端が薄れ、その帳をひそやかに下ろしつつあった。
吐く息は白い。
鈴と別れ、人ごみの中をひとり歩きながら彼は思った。
希望が出て行く理由も吾郎は知らなかった。
泣いた理由を鈴に聞かれても答えられなかった。


希望と出会ってからもう11年になる。
一緒に住み始めてからは8年。
それなのに、と彼は白い息を吐く。


自分は希望のことを何も知らないのだ。
あらためてそう思った。


実のところ、その理由はわかっていた。
それは自分が聞かないからだ。
何故あのとき泣いたのか、何故家を出ることにしたのか。
尋ねればきっと、希望は答えてくれるに違いがなかった。
何故ならあの子供は「嘘」をつくということを知らないからだ。

・・せやけど。


吾郎はふうと息を吐いた。
気にならないわけじゃない。吾郎は思う。
気にならないはずがない。
だが、自分にも聞かれたくないことがあるように、希望にだってあるはずだった。
だから聞かない。
自分にだってそれくらいの分別はある。

・・だから、聞かない。



「あんたって、ほんっとうに馬鹿ね。」
ふいに脳裏に1年前に恋人だった女性と最後に交わした言葉が蘇った。
「自分で何にもわかってないわけ?」
ぽかんとする吾郎にその女性・・木原涼子はぴしゃりと言ってのけた。
「この鈍感!アンタなんて一度猫にでも蹴られて死んでしまいなさい!!」





ラブ・パレード15








・・よし!

夏美は心の中で気合を入れた。いとやん力を貸してよね、と元不良の悪友にも祈ってみる。
もちろんご利益があるとは思えなかったけれど。
目の前の友人は両手でカップを持ったまま、ちんまりと座っている。
その姿を、夏美はそうっと見上げた。
「あのさ、藤堂さあ・・自分で寮に入ることを決めたんだよね?」
言いながらもなんだか落ち着かなくて目の前のハーブティーをかきまわす。
爽やかな香りが部屋いっぱいにたちこめた。
希望はもの珍しげにその香りを嗅いでいたが、夏美の言葉にかすかに不思議そうな表情を浮かべた。
「何故そんなことを聞く?」
「・・だって、藤堂元気ないからさ〜。」
夏美はさらにぐるぐるとスプーンを動かした。
「寮に入るのが嫌なのかな〜って思って。」
一瞬だけ、希望の瞳が揺れ動いたように感じた。
夏美はそれを見て息を大きく吸い込んだ。
夏美は目の前のクラスメイトが好きだった。小さいのにかっこいいし面白いし・・羨ましい。そう思っていた。
無愛想で少しばかり変わっているけど、希望にはまっすぐな信念みたいなものが身体の中をすうっと通っているような気がしていた。
それはとても珍しいことだと夏美は思う。
この世の中、こんなにまっすぐに生きていくなんて凄いことだ。
だから友達になりたかったのだし、だからこそそんな友達が辛い顔をしているのはやっぱり悲しかった。



「・・あたしねえ、実はね、実家はこの近所なんだよ。」
「・・・。」
希望は夏美を見つめた。
「でもさ、母親が再婚してねえ。ちょっとこう、まあ、いろいろあってね、家に居づらくなっちゃってね、自分から家を出たのさ〜。」
夏美は明るく笑う。
「もしかしてさ、藤堂もおんなじ理由なんじゃないかな〜とか思っちゃってさ。
あの、お兄さんのこととかさ。お兄さんが結婚ちゃうとか、そういう理由があるとかなにかあったんじゃないかな〜なんてさ。
だったら辛いよなあ、とかさ。あはは。・・・・余計なお世話だってのは、わかってるんだけどね・・。」
「・・・。」
希望の表情がかすかに変わったように見えた。
まっすぐに夏美をみつめ、そうしてほんのわずかにその瞳をやわらげる。
夏美がわざわざ自分の話をした意味を理解したのかも知れなかった。
「・・すまないな。気を使わせてしまった。」
夏美はあわてたように手を振った。
「いや、えっと。」


希望はティーカップに目線を落とした。
琥珀を溶かしたような透明の液体は綺麗だった。
ふと、笑みが浮かんだ。
あたしでよければ言ってよね。そう夏美が言ってくれたことを思い出した。
そうしてその気持ちが嬉しかったことも。
それはとてもありがたいことだと希望は思う。

「・・二ノ宮。」
「へっ?えっ?なっなに!?」
驚いたように姿勢を正した友人に向かって、希望は精一杯笑って見せた。
「ありがとう。」
夏美はそれを見てぽかんとしたようだった。
しまったと希望は思った。あいかわらず自分は笑顔を作るということが苦手だ。
小さく苦笑して、ティーカップをテーブルに戻す。
琥珀色の液体に夕陽が反射して壁に水面を映し出した。
金色に輝くこの空間は、とても綺麗だ。
「二ノ宮。」
「うっうん。何?」
「・・私の話を・・聞いてくれるか?」






「吾郎という奴は大馬鹿者なんだ。」
夏美はきょとんとしたようだった。
「血のつながりも無い子供を引き取って、それでなにも後悔していないような奴なんだ。」
希望は落ち着いていた。
カーテンから洩れてくるかすかな夕陽が、ふたりの髪を染めている。
「・・あいつは家族というものを誰より求めている。それなのに、私が居るせいでそれすら手に入れることが出来なかったんだ・・。」

脳裏に浮かぶのは、婚約指輪を掲げて照れくさそうに笑っていた吾郎の顔だった。
脳裏に浮かぶのは・・悲しそうな表情で、それでも笑う吾郎の顔だった。


私のせいだ。


あの日。1年前のクリスマスイブの日。
吾郎は恋人の木原涼子にプロポーズをするために出かけていった。


希望が見る限り、涼子も本当に吾郎のことが好きだったように思う。
二人は本当に本当に、想いあっていたのに。
・・なのに。

いつか自分の存在が吾郎の足手まといになるだろうことは気づいていた。
それには気づいていたというのに。
それなのに。


・・そう。
自分は奴に甘えてしまっていたのだ。
本当なら1年前に家を出る事だってできた。
寮のある高校を選んだのも、そのためだ。
それなのに高校入学の時点で入寮の選択をしなかった。
それが自分の我侭であったことは否めない。
希望は愚かな自分につくづく嫌気が差していた。
二人にどう謝ればいいのかすら分からない。
どう償えばいいのかも。

「そんなことがあっても・・いや・・どんなことがあってもあいつは絶対に私を切り捨てようとはしないだろう。 ・・そういう奴だからな、あいつは。だから、私は・・。」
希望はそこで一瞬、言葉を途切れさせた。
そうしてゆるゆると首を振る。
「・・いや、違うな。・・私はいつからか・・あいつの『本当の家族』になりたくなってしまっていた・・。」
でも私ではなれないのだ、と「あの時」悟った。
あいつは私を決して女とは見ない。
だから、本当の家族には決してなれない。
わずかに期待してしまっていたあの「約束」も、果たされることは決してない。


だからもう・・側には居られない。

居てはならないのだ。


「・・藤堂はお兄さんのことが本当に大切なんだね。」
夏美はつぶやいた。
「だから、家を出るんだね。・・自分がお荷物だって思ったんだ。お兄さんのために。」
「それは違う。そんな綺麗なものじゃない。」
希望は首を振った。
「私は汚いんだ。」
そうして自嘲するように笑む。
「本当はわかっていたんだ。自分の存在が吾郎の未来にとって障害になることは。
・・だから寮のあるこの高校を選んだときにあの家を出るつもりだった。・・だけど、もしかしたら、と思ってしまった。」
ほんの小さな、たわいもない言葉。
だから16歳になるまで待った。
期待してしまったのだ。
それが馬鹿げたことだというのはわかっている。
・・わかって、いたのに。


「・・ねえ、お兄さんは知ってるの?その、藤堂のさ、気持ちとかさ・・。」
希望は首を振る。あの鈍感な男が、知るはずなどなかった。
そうしてこうなってしまった以上、知らせない方が良いこともわかっていた。
これ以上吾郎を煩わせることもない。
「私は絶対に言わない。」
「なんで?」
「あいつは・・馬鹿だから。」
馬鹿みたいに優しいから。
「自分の気持ちを偽ると思う。私のことを考えて、自分の気持ちに嘘をつく。
そうしてそのことにすら気づかない。・・そういう、奴だから。」
希望は目を伏せた。その頬に長い睫毛の影が落ちる。


「だから・・言わない。」











触れられない境界線








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