総麻呂とは空太の祖母の兄の名でした。
昔はずいぶん偉い人だったようですが、近年は空太の家の近くの家で、奥さんとたくさんの猫とのんびりと暮らしておりました。
空太も厳一郎もこの総麻呂のことが大好きでした。
口うるさくもなく、かといって気難しくもない好々爺で、遊びに行ってせがむとたくさんの面白い話を聞かせてくれました。
「総麻呂爺ってすごいひとなんだよね。おっかあが言ってたよ。むかしこの土地で悪さをしていたこわいこわい蛇の化け物を倒したのが総麻呂爺だって。そのおかげでこの都ができたんだって」
ある日の空太の言葉に、総麻呂爺は猫を膝に乗せたまま呆れたような顔をしました。
「何を言ってる。おれなんかに倒せるもんかい」
「そうなの? 」
「だいたいあれは化け物じゃない。つくられたとはいえ蛇の神さんだったんだ。もともとひとの手に負えるもんじゃあなかったのさ」
「ふうん……。でも、じゃあ誰が倒したの? 」
「だから倒してねえのさ」
空太と厳一郎はきょとんと顔を見合わせました。総麻呂爺はちいさな子供たちにその隻眼を向けます。
「あのとき、当主を含めすげえ数の陰陽師が死んだんだ。まあ不老不死に近い神にたてついだんだから当たり前のことだがね。けど帝さまはこの土地を諦めなかった。とはいえ暴れまわる蛇神さんをなんとかしねえとこの土地は手に入らねえ。数年間陰陽師がこの地に派遣されつづけてどんどん死んでいき……で、ついにおれみたいな末端の血族のもんが当主になっちまった」
当主、と聞いて空太はびっくりしました。
すごいひととは聞いていたけれど、まさかこののんびりとした総麻呂爺が都を守る陰陽師様たちの一番偉いひとだったなんて思わなかったのでした。
当の総麻呂爺は猫の喉をごろごろと鳴らしながらのんびりと続けます。
「とはいえおれも死にたくなかったんでな。しばらくまあ戦ってるふりをしながら様子をみてたんだ。そんなことをしてたらちっこい白蛇のあやかしとも知り合いになってなあ」
総麻呂爺は何かを思い出すように空を見上げました。
「そしたらなあ、なんか蛇神さんも暴れているのがしんどそうに思えてきてなあ……」
秋の空には儚げな白い白い雲が薄く流れております。
その隻眼を懐かしむように細め、かつての陰陽師はこう続けました。
――そういうこともあって、おれは封じるってことに考えを変えたのさ。ひとの手で倒せねえなら眠ってもらえばいいってな。もともとおれら末端は攻撃より結界のほうが得意だった。とはいえおれなんかが封じることができたのは奇跡に近い。……まあ、あの子を守るために蛇神さん自身が手を貸してくれたような気もするがね……。
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「そ、総麻呂爺……? 」
白い髪のあやかしの口から紡ぎ出された名に、空太は思わずぽかんとしました。
そうして目の前にいる白い髪の女の子を震えながらもじっと見上げます。
すると手にしている鬼の面や、身体に巻きついている二匹の大蛇は怖いけれど、その女の子自身はあまり怖くないように思えました。
これ以上怖がらせないためでしょうか。ぶるぶる震えている空太よりほんの少し離れたところに立って、ちいさく小首をかしげているさまは怖いあやかしには到底見えないのでした。
「総麻呂爺を知ってるの……? 」
震えながらなんとか口を開くと、女の子はそっと表情をやわらかくしました。
「うん。……ともだち」
「……」
空太はその言葉に再度びっくりしましたが、それでも妙に納得した気もしました。
総麻呂爺が話していた白蛇のあやかし。
それは蛇骨婆と呼ばれているこの女の子のことだったのではないでしょうか。
ゆるゆると震えもおさまってきます。
――蛇骨婆ってのは蛇神さんの塚を守っているあやかしのことだ。たったひとりで、ずうっとその塚を守ってる。べつに怖いあやかしじゃあない。けれど塚を汚すものだけは許さない。だからあそこへは、蛇の森へは絶対に行っちゃあいけないよ。
「あ、あのね、蛇骨婆、さん……」
「うん? 」
空太はもうひとつ息を吸いました。
さきほどとは違う意味で声が震えそうでした。
「総麻呂爺はね……去年の冬に死んじゃったんだよ」
「……」
女の子はあの赤い瞳をしばたかせました。そうしてそっと息を吐きます。
紡ぎ出された言葉はあやかしに似つかわしくない寂しげなひびきを帯びておりました。
「そうかあ……」
――途中まで送っていく。
そう言って女の子は空太の前を歩きだしました。
「総麻呂の結界がなくなったから、このあたりのあやかしが多くなったんだ。こどもひとりじゃ危ないよ」
総麻呂爺の死を悼んでいるように見える女の子は、空太にはもうちっとも怖くはありませんでした。ただのやさしげで儚げなおねえさんに見えました。
空太は勇気を出して前を歩く蛇骨婆の手に掴まってみましたが、そのひんやりとしたちいさな手は空太の手を振りほどくことはありませんでした。
「……あの、ごめんなさい。蛇神さんのお墓を傷つけちゃって」
「お墓じゃなくてあれは塚だよ。でも、あんなことやってはもう駄目だよ」
「うん」
「逃げちゃったもうひとりにも言っておいてね。あんなことをしては怖い蛇骨婆が怒るよって」
「でも蛇骨婆さん怖くないよ」
「怖くないかなあ……。それは困ったなあ……」
白い女の子は本当に困ったような顔になりました。
それを見て空太はなんだか申し訳ない気分になりました。この蛇骨婆は、本当に「蛇神さんの塚」を守りたいと思っているのです。
そのとき、遠くて聞き覚えのある声がしました。幼い時から聞いていた友達の声です。
それは空太を呼んでいました。声のはしっこはぶるぶる震えてしまっています。けれども一度は逃げたはずの厳一郎が、空太を探しに戻ってきてくれたのでした。
「厳一郎だ……! 」
「よかったな」
女の子はそういってするりと空太の手を離すと、踵を返して今来た道を戻ろうとしました。
その背中を見ていると空太は何故だか妙に寂しい気分におそわれました。
――蛇骨婆ってのは蛇神さんの塚を守っているあやかしのことだ。たったひとりで、ずうっとその塚を守ってる。
……たった、ひとりで。
「蛇神さんってそんなに偉いの? 」
思わずそう聞くと女の子はきょとんとして振り返りました。
「蛇骨婆さんがずっと守ってあげなきゃいけないの? 」
女の子はしばらく黙っていました。
夕暮れの風にその白い髪がさらさらと流れます。
深紅の瞳を伏せるさまは、その白い頬にせつない影を落としておりました。
やがて女の子は瞳を開けます。
そうしてそうっと、けれどもきれいにきれいに微笑みました。
「……違うよ。ただわたしがそうしたいだけなんだ」
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ふと気づいた時には、ふかいふかい眠りの中に「彼」はおりました。
眠りは水に似ておりました。ただひたすら沈み込み、「彼」のすべてをくるみ込んでくれます。そうして深く深く、静かなところに連れて行ってくれるのでした。
そこはひどく静かでした。
意識も力もこの場では意味を持たず、すべてが静寂に飲み込まれております。
眠い、と「彼」は思いました。これまで全身にあった痛みも苦しみもなく、ただひたすら静かな眠りが全身をやさしくくるんでいるのでした。
静寂の闇。
しかしまれに、瞳を開けるととびこんでくる光景がありました。
均等に置かれた五つの石と、その真ん中にある大きな石の楔。
白い髪の、ちいさな娘。
きれぎれにとびこんでくるその光景の中には常にその娘の姿がありました。
娘は常に同じ場所におりました。
「彼」は霞がかった意識の中でぼうっとその姿をみつめます。
そうしてまた深い眠りにくるまれて沈んでいくのでした。
しかしまた、ふっと目を覚ますと、やはりその娘はその場にいるのです。
何度も何度も。
沈み込んでは浮かび上がり、そのたびに娘の姿をぼうっと目にしてはまた沈み込みます。
――ああ、居る。
何度浮かび上がってもあその娘はおります。
それは「彼」に染み入るほどのあたたかさを与えました。
――居る。
「彼」には娘の声もなにも聞こえません。
娘が何をしているか。何を考えてこの場所から動かないのかもわかりません。
ただ気が付いた時に「そこに」娘はいるのです。
同じ場所で、ずっと。
ときには笑いながら。
花を差し出しながら。
赤と青の蛇と戯れながら。
――せつなげに、石を見上げながら。
とぷんと深いところに沈み込みながら「彼」はそんな娘の姿を脳裏に焼き付けます。
あたたかなものをうちに抱え、そうしてまた長い長い眠りの中に戻るのでした。
もろこし巫咸国(ぶかんこく)は女丑の北にあり
右の手に青蛇をとり左の手に赤蛇をとる 人すめるとぞ
蛇骨婆は此の国の人か
或説に云
蛇塚の蛇五右衛門(じゃごえもん)とい へるものの妻なり
未詳
(鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より
ある国のあるところに、ひとつの国がありました。
そうしてその西のはずれ、誰も住んでいない湿地帯を抜けた先の小さな丘に、ひとつの塚が立っておりました。
塚の中央にある丸い大きな石はぴかぴかに磨かれ、まるで鏡のようにつややかに光っております。そうしてよく見ると、五方にも同じような形の石が置かれており、真ん中の石とそれを繋ぐように地面には不思議な文様が刻まれておりました。
それはむかしむかし、この地に居た邪悪な蛇神をひとが封じた塚でした。八つの頭に尾を持つ蛇五衛門という名の蛇神はいまは深い深い眠りについているのです。
それを守っているのは蛇骨婆といわれているあやかしでした。
蛇骨婆はたったひとり、その旦那である蛇五衛門の塚を守っているのです。
――きっと、今でも。
へびの夫婦:完