へびの夫婦

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十二話:指と唄




 ちいさな歌が聞えます。


 深い夢から覚めたとき、まずはじめに耳をくすぐったのはやさしい音の旋律でした。夢の中で聞こえたそれと同じものでしたので、はじめ時貞は自分がまだ夢の中にいるのか、それともきちんと抜け出せたのかがわかりませんでした。
 その歌は本当にすぐ近くから聞こえてきます。ついで自分の頭を何者かの指がゆっくりと往復しているのを感じました。それはひどく優しげな動きと感触で、久しく覚えのないものに思えました。
 だからでしょう。時貞が自分が撫でられているのだ、と認識するのまでにはたっぷりと時間がかかりました。


 身じろぎせぬように瞼をそっと開けると、ちいさな娘の姿が視界に飛び込んできました。どうやら時貞の頭の傍らに膝をついて、その頭を撫でているようでした。
 時貞はぼんやりと娘の姿をみつめました。

 それは紫でした。

 無理やり正妻とし、座敷牢に閉じ込め、自分の思うがままにぐちゃぐちゃにしようとしていたちいさな娘の姿でした。
 娘の表情は、いつぞや中庭で見たものそのままでした。子蛇に向かって愛しげに歌を聞かせていたあのときと、そっくり同じものでした。
 かぼそくも優しいその歌もあのときのものでした。もしかしたらその歌しか知らないのかもしれません。
 繰り返し繰り返し同じ歌を歌い続ける娘の姿を、時貞はただぼんやりと見つめておりました。

 この娘のこの行動のためにいつもの悪夢が変化したことがわかりました。
 とはいえ紫にあやかしの力などほとんどありません。
 あやかしの力などではなく、ただただ無意識のうちに入り込んだ歌と触れる指の感触が、悪夢を軽やかに変えていったのだということがわかりました。

 愛しげに歌う娘のまなざしは暖かくもやさしく、時貞の奥底にある冷え切ったなにかがゆるりと溶けていくかのようでした。
 そのまなざしが、今は子蛇にではなく自分にだけ向けられていることに気づいて何故だか喉元があつくなります。知らず眦にも熱がこもりました。
 しかし時貞はぐうっとせりあがったそれの正体には気づきませんでした。

 だからかわりに、唇を開きました。


「……何故、逃げなかった」


 そう問いかけると、頭の上を滑っていたちいさな手が驚いたように止まりました。同時に歌も止まります。

「扉は開いていただろう。何故ここから逃げなかった」

 紫がはっとしたように息をのみ、慌てたように時貞から数歩離れたところに下がりました。
 両手をつき、そのまま深く頭を下げます。

「ご、ご無礼をいたしました……」
「……」

 ずっと撫でられていたであろう頭には、まだ娘のちいさな指の感触が残っておりました。無意識のうちにそれに手をやり、そうして起き上がります。
 どのくらい意識を失っていたのかはわかりませんが、意識を失う前に存在していた頭痛も疲労はほとんど感じることはありませんでした。

「答えろ」

 あぐらをかき、眼前で頭を下げる娘に命じます。その声に紫はびくりと震え、そうしてわずかに逡巡するそぶりをした後、ちいさな声を出しました。

「と、時貞さまが、わたしにここから出ることをお許しになっておりませんので……」
「……」

 時貞は何も言えずに娘の下げたままの頭を見下ろしました。何かを言いたい気がしましたが、やはりなにも言えませんでした。
ぼうっと娘の頭をみつめます。
 しばらくそうしていましたが、やがて時貞はかすかに眉根を寄せました。
 頭を下げたままの紫ではその顔は見えません。
 しかしいつもの怯えたような表情を浮かべていることは容易に想像できました。
 ついでそれに軽い苛立ちを覚えました。 
 先ほどのあれはなんだったのだ。
 そう思ったのです。

 ちいさな歌とやさしい手。あのときの紫は間違いなくすべて時貞のものでした。時貞だけのものでした。
 しかしもう時貞のものではなくなったのです。さっと怯えるかのように手を引いて、そうしてそのまま近寄ってはこないのです。時貞から離れたまま、顔もみせずに蹲っているばかりなのです。
 時貞は知らず、娘の白い頭を睨みつけました。
 下げたままの白い髪は乱れております。そして着物も乱れたままでした。
 それに時貞は気を失う前に自分がしようとしていたことを思い出しました。

 時貞は唇の端を吊り上げます。
 ああ、そうだったと思いました。そうすればよかったのだと思いました。
 だから時貞は再度娘の身体を押し倒しました。片手で簡単に抑え込めるちいさな身体はあっけなく倒れこみます。時貞はその上に覆いかぶさりました。さあ、はじめにどうしてやろうと思いました。
 ちいさな顔にかかった白い髪を払います。
 ようやく娘の顔があらわになりました。


 そこで時貞は動きを止めました。


 それは想像通りの光景でした。小さな白い顔には驚きと、そうして恐怖の色が張り付いておりました。

 快楽を与えてやればよいと思っておりました。
 どっぷりと快楽に浸らせてぐちゃぐちゃにし、自分しか見えないようにしてやればいいと思っておりました。
 そうすれば自分のものになると、そう思っておりました。

 しかしその紫の表情を見た瞬間に走ったのは全身を貫くような激しい痛みでした。
 やさしく自分をみつめていた表情を見てしまった今では、それは耐えられないほどの衝撃を時貞に与えました。


 だから時貞は紫の上に覆いかぶさったまま、しばらく動けませんでした。
 何をやっているのだと、その時ようやく思ったのでした。


――この娘は自分に、そうして過去の自分にまでも手を差し伸べてくれたというのに。


 時貞は笑いました。
 それはいつもの笑みとは違ったものでした。
 そうして紫の頬に手を添え、そのやわらかな唇を指で撫でます。
何度も、何度も。
これが最後だと、そうひとりごちながら。


「……お前の願いを叶えてやる」

 そういうと、息がかかりそうなほど近い位置にある紫の瞳が見開かれました。

「……え」
「離縁してやる、と言ってんだよ」

 頬に。
 耳に。


 紫のすべて自らの手に覚えこませるように這わせながら時貞は言いました。


「ふん……嬉しいだろう? 」

 紫は驚いているようでした。ただただ瞳を見ひらいて時貞をみつめておりました。


……笑わねえかな。


 ぽつんと時貞は思いました。


……笑ってくれねえかな、さっきみてえに。


 それは驚くほど素直な感情でした。捻くれ、捻じれ、そうして歪んだ感情の合間をすり抜けるかのように落とされた、子供のような感情でした。


……最後なんだからよ。


 けれども時貞には今、どうすれば紫が笑ってくれるのかわかりませんでした。
 だけれど未来において娘が笑うために必要なものはわかっておりました。
 二匹の子蛇。時貞という束縛から解かれた先にある自由。そうして生きていけるだけの食べ物。
 多くのものを望まない紫に必要なのは、たったそれだけなのでした。
 それだけあればこの娘はきっと、さきほどのように穏やかに笑って生きていけるのです。
 あとは小さな家でもあればいいでしょう。偏見の強い蛇骨族の中では仕事にはありつけないでしょうから、どこか静かで穏やかな場所の家を与えてやろうと思いました。
 そこではこんな恐怖にさらされることもなく、偏見に怯えることもないでしょう。
 考えるだけで野原で子蛇たちとはしゃぐ紫の姿が見えるかのようでした。その紫はきっと楽しそうに微笑んでいるのです。
 一日中、ずっと。


「出ていけ。仮にも正妻だったんだ。生活に困らねえようにはさせておいてやる。……ただ、明日の夜、俺が帰ってくるまでは屋敷にいろ。俺の許可なく勝手に出ていくんじゃねえ。……いいな」


 嬉しいはずの時貞の言葉に、しかし紫は笑ってくれませんでした。
 何故だか少し泣きだしそうな表情にさえみえました。
 それでも潤んだ赤い瞳から恐怖の色は消えておりました。
 それでいいと時貞は思いました。
 時貞にできるのは、それが精いっぱいなのでした。


 紫はほんの一瞬、何かを言いたげに口を開きました。しかしその唇は震えるばかりで何の音も発することはありませんでした。


 紫は唇を引き結びます。
 何度か瞬き、そうしてこくりと小さく頷きました。







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