へびの夫婦

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十一話:コドク



この部屋の中に時貞はひとりになりました。
食料だけはありましたのでそれを口にして生き延びます。何故こうまでして生き延びようとしているのか、そんなことすでに時貞にもわかりませんでした。ただ、苦しいのは嫌でした。ひもじいのも嫌でした。それだけでした。
 何かを考えることはやめました。そうすると悲しいことばかりが脳裏を占めるからでした。

 ただひとつ、母親のことだけは別でした。
外で自分を待っている母。優しい母。そのことを思うと生きていてもよいのだと思いました。
 しかし数日もすると喉の渇きが尋常ではなくなってきました。
食料があっても水がなくては「生き物」は生きていけません。
身体から力という力が抜け、自ら考えようとしなくても何も考えられなくなりました。うつ伏せに地に伏したままの時貞は、確実に死へと向かっておりました。


 その時でした。
ごうごうという何かを動かす音とともに、部屋の一角から光が溢れてきたのは。

はじめは何の音かわかりませんでした。しかし暗闇を明るく照らすそれはまぎれもなく外の光でした。暗闇に慣れきった瞳にはそれは痛いほどにまぶしく見えました。

「まさかお前が生き延びるとはねえ」

次いで響いた声は女のものでした。
霞がかった意識の中でその声の主を探します。

「ああ、汚い。すごい匂いだねこの部屋は」

 嫌悪感に満ちた女の声。
 くぐもって聞こえるのは綺麗な着物の袖で口元と鼻を覆っているからでした。不快気にしかめられたその顔には覚えがありました。蛇五衛門の正妻、時貞の義理の母にあたる女性でした。
 時貞は地に頬をつけたままぼんやりとその姿をみやります。絶対に開かなかった鉄の扉。そこからは冷たい空気が流れ込んできて、地に伏したままの時貞の顔を撫でました。

 ――外だ。

 時貞の眦が熱くなりました。
 外、です。
 これで外に出られる。水が飲める。ちゃんとした食べ物が口にできる。そう思いました。

 しかし正妻は言いました。

「早くこんなところからは出ていきたいねえ。さあ、白緋。とっととそこの生き残りを殺して食ってしまうんだよ。それでコドクが完成する。かくしておまえが次の蛇五衛門に選ばれるんだからねえ」
「は、はい、母上……」

 そうして正妻のうしろから現れたのは正妻の息子の白緋でした。時貞よりひとつしたの義兄弟の手には刀が握られておりました。
 真っ青の顔のまま時貞を見て、そうして顔を歪めます。部屋に足を踏み入れた瞬間、臭いと呻いて片手で自分の顔を覆いました。

「我慢おし。かかさまだって我慢しておるのだからね。そうだ。ちゃんとなしとげたらご褒美をあげようねえ。だからちゃんと頑張るんだよ」
「ほ、本当ですか? 」
「ふふ、約束するよ。ああ、そうだ。食う前におまえも着物を脱いでおきなさい。ちゃんとここに閉じ込められていた演技をしないといけないよ。そうでないと蛇五衛門の儀式に参加していないことになってしまうからねえ」
「はい」
「まあソレを先に殺してからでいいだろう。すでに半分死んでいるようだしねえ」

 くすくすと正妻が笑いました。
 時貞をちらりと見て、そうして瞳を細めます。

「おまえ、ちゃんと恨むんだよ、呪うんだよ。それが蛇五衛門の、このコドクの儀の力の糧なんだからねえ」

 時貞はぼんやりと近づいてくる白緋の姿をみやりながら思いました。

 コドク。
 ……蠱毒。

 その名前には聞き覚えがありました。

 それは蟲を利用した呪殺術の名前でした。
 多くの蟲を一つの壺に封じ、四ツ辻に埋めておくとやがて友喰いを始めます。最後に残った、最も強くまた生への執着の強い一匹を使役し、それを用いて他者を弑すのが蠱毒と呼ばれる呪殺術でした。
 この場合の媒体が蛇五衛門の子供たちだったのだと悟るのに時間はかかりませんでした。
 ではこの場合の主人は誰なのでしょう。それもすぐにその答えは浮かび上がりました。

 兄弟たちをすべて閉じ込めることのできるもの。
 閉じ込めておいても何も言われないもの。
 弱い蛇骨族を守る方法。
 蠱毒という術の意味。


――親父……だけじゃねえ。この場合、蛇骨族の全員が主人というわけだ……。


 自分たち兄弟は生贄なのでした。「一族」を守るための、守り抜くための生贄。
 そうして目の前にはその生贄をまんまと回避してのうのうと生き延びようとしている弟の姿がありました。


 はは、と時貞は笑いました。水の足りない喉はうまく音を出してはくれませんがそれでも笑わずにはいられませんでした。
 それに白緋がびくりと身体を震わせます。
 白緋の目に自分はどう映っているのでしょう。
 おそらくは腐った兄弟たちの体液にまみれたまま痩せ細った、薄汚い生き物なのでしょう。
 しかしそれがこの儀式の結果なのです。
 まぎれもなく呪いなのです。

 そう悟った瞬間、何やらぎらぎらとした力が腹の底から湧きあがってくような気がしました。
 これまで感じたことのないような力は、時貞の身体を昏くそして強く取り巻いていきます。腹の中から湧き出てくるちからは身の内を突き破らんとするほど強いものでした。

 それを感じ取ったのか、正妻がぎょっとしたように目を見開くのが見えました。怯えの色がみるみるうちにその顔に広がります。
 正妻は叫びました。

「あ……は、白緋、早くなさい! そやつの蠱毒は完成しかかって――」

 その言葉はぐしゃりと肉のつぶされる音にかき消されました。その白い顔に自らの子供から飛び散った赤いものが降り注ぎます。

「え……? 」

 ぐしゃりぐしゃりと音は続きます。
 その音ととも白緋の身体が小さくなっておりました。どんどん縮み、しまいにはぺたんとになって地に赤いものとともに広がってしまいました。
 正妻の瞳がこれ以上ないというほど見開かれます。

「……ひ、い、いやあああああ! 白緋、白緋いいいい! 」

 時貞は幾度となく振り下ろした蛇の尾を持ち上げました。ねとりとした液体にまみれた尾を持ち上げたまま立ち上がります。
 そうしてにやりと笑いました。自らの顔についた白緋の血を舐めるとさらに身の内の力が強くなっていくのを感じました。

 これが蠱毒なのでしょう。
 一族の望んだ結果なのでしょう。

「……なあ、これでいいんだろ? 早く俺をここから出せよ」

 時貞は絶叫している正妻に向かって言いました。
 正妻は涙で濡れた瞳を時貞に向けます。そうしておのれ、と声をあげました。

「おのれ、殺してやる。殺してやる……! 」
「あんたごときには俺を殺せねえよ」

 時貞は薄く笑いました。それはすでに真実となっておりました。
 すでに呪いの力はそのまま彼の力となっていたのです。

 すると正妻はぱっと外に向かって駆け出しました。
 そうして扉の向こうに居たであろう女の髪を掴んで引きずりだしました。やめて、と弱弱しく叫ぶ女の手は縛られております。
 素早くその女の身体を自らの蛇の尾で締め上げた正妻は、狂ったように笑いました。

「母親を殺されたくなけりゃおまえがわらわに殺されるんだよ! いいかい、少しでも動いたらおまえの母親の骨はばらばらにしてやるからねえ! 」

 時貞は目を見開きました。
 それはまぎれもなく母である音羽の姿でした。気が弱くもやさしい、大好きな母親の姿でした。

「……か、かあ、さま……」

 時貞の口からぽろりと漏れたそれは、まぎれもなく子供の声でした。 心配で、それになにより寂しくて心細くて、単に母親に会いたかった子供の心がむき出しになった瞬間でした。
 その声に母親の瞳が自分に向けられます。
 そのうつくしい顔はこわばり、歯はがちがちと震えてさえいました。
 立ち尽くす時貞をみつめて音羽は震える口を開きました。


「ど、どうして生きているの……」
「え……」

 母親は泣いておりました。
 正妻の尾に身体を締め付けられたまま、そうして顔を歪めます。

「どうして、どうして……。お前さえ生きていなければ、私は、私はここから出られたのに……。ようやく離縁されて家に帰れたのに……! 」
「かあ、さま……? 」
「いや……もう嫌。無理やりここに連れてこられて、嫁にされて、私には自由何てひとつもなかった。それなのにお前が生まれて、お父様も迎えにきてくれなくて……。ようやく逃げられると思ったのに! どうして、どうして生きているのよ! おかげでまたこんな目に……」
「…………」
「どうしてわたしばかりこんな目にあうの……もう嫌! もう嫌あ……! 」
「五月蠅い! 」

 正妻の声とともにごきりと鈍い音が響き渡りました。
 途端に母親の瞳から光が消えました。。頸を折られたのかもしれません。かくりとのけぞった白い喉はぴくりとも動かず、だらりと垂れさがった四肢も少しも動く気配を見せませんでした。


「…………」


 時貞は黙したまま足を前に踏み出しました。
 一歩、一歩。
 母親であった女を放り出して自分へと向き直る正妻に向かって歩み寄ります。
 最後の一人。
 それをみつめて、少年はゆっくりと歪んだ笑みを浮かべました。
 身体に満ちる呪いはそのまま力となっています。
 この世で自分に向けられるのは憎悪だけだということがわかりました。そうしてそれもすべて蠱毒の糧となるのだということも。


 これで「蠱毒」は完全に完成するのです。





 すべてが終わった後、彼はひとりで笑い続けておりました。
 冷たく沈んだ闇の中、まわりに動くものはひとつとしてありません。
 暖かなものなど何もなく、そうしてこれからも自分には与えられないことを彼はすでに悟っておりました。

 げらげらと彼は笑います。
 ああ、よかった。生き延びた。
 それだけしか思えませんでした。いえ、それ以上のことを考えてはいけないと本能で悟ったのかもしれません。

 笑い声は昏い部屋の中に響きます。
 しかし実のところそれは泣き声でした。笑い声のふりをした、ただの泣きじゃくる子供の声でした。



 時貞の悪夢はいつもここで終わります。
 昏い部屋に物言わぬ亡き殻たち。
 冷たいそれらしか彼の周りにはなく、そうしてこれからもそんなものしかないことを、今の時貞は理解しておりました。


――糞餓鬼が。泣くんじゃねえ。


 過去の自分に対して時貞は毒づきました。


――笑うふりして泣いても誰もわかっちゃくれねえし、そんな「蛇五衛門」は必要じゃねえ。それは俺がよくわかってんだからよ。


 その時でした。
 少年の笑い声に混ぎれてちいさな声が聞えたのです。


 時貞はぎょっとしたように瞳を見開きました。
 同時に目の前の少年もひたりと笑うのをやめました。そうしてぼうっとした瞳をあたりに彷徨わせました。何かを探すような其の仕草に、夢の自分もその声が聞えていることを悟りました。


――声……いや、これは……。


 聞き覚えのある旋律に、ぎくりと心臓が音をたてます。
 それは、歌でした。

 小さな小さな歌。
 すぐにかすれて消えてしまいそうな、触れるとほろりとほどけてしまいそうなそれには覚えがありました。

 呆然としていると、いつのまにやら夢の自分の前に見覚えのある少女の姿がありました。
 その白紫の髪をした少女の表情は時貞からは見えませんでした。名を呼ぶこともできずに佇んでいると、少女はほそい腕を伸ばしうつろな瞳をした夢の自分の頭をそうっと、いかにも優しげに撫でました。
 そうして、次の瞬間には空気に溶けるように消えてしまいました。

 夢の中の小さな時貞は瞬きました。
 その拍子に歪んだ笑みはすっかり消え去り、いまにも泣き出しそうなものに変わります。そうして待って、とかすれた声をだしながらふらふらと歩き出しました。


 この過去の夢が変化したことなど初めてでした。
 だから時貞は呆然と過去の自分を見送りました。いえ、いつのまにか 過去の自分と同化した時貞はふらふらと歩きだしておりました。
 姿は消えても歌は続いておりました。
 細く、しかし消えることなくやわらかに続いております。
 歌を追いながら時貞は少女の名前を呼びました。



 それは誰よりも手放したくない、欲しくてたまらない、傍にいて欲しい娘の名前でした。










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