「ガラス越しの距離H」

「ガラス越しの距離H:氷細工のような」



真琴はちらりと窓ガラスをみやった。
カーテン越しに見える隣の家。
その一番近いところにあるガラスに灯は透けていない。
それはつまり、その部屋の主がまだ帰っていないことをあらわしている。

これで、3日目。

癖でシャープペンシルをくるりと回す。
細くて冷たい金属の感触が指を回る感触は、ともすれば粟立つ感情をそっと撫で付けてくれるようだった。






氷細工のような:











―伝えなければ。

真琴の心は決まっていた。
それこそ幼い頃から、久弥が気づく数年も前からずっとずっと抱え込んできた感情は今でも変わらず、そっと心の奥に居座り続けている。
問題は真琴の勇気だけだった。だから一晩かけてそれを溜め込んで、久弥の部屋の窓を叩いた。
しかし久弥は居なかった。代わりに出てきたのは久弥の母親で、ほがらかにごめんねマコトちゃん、と笑った。
「ほら、土日月で連休でしょ? あの子ねえ、今勉強合宿に行ってるのよ」
「勉強合宿? 」
真琴は驚いた。そのようすが伝わったのだろう。久弥の母親はおかしそうにくすくすと声を洩らした。

「そう。あの馬鹿息子にしちゃあめずらしいでしょう? でもあの子もね、3年になって頑張り出してねえ。まあ友達の影響もあるみたいなんだけど、今では毎日図書館で勉強会までしててね」

その声にはどこか嬉しさも混じっている。
真琴も頷いた。そのことは知っている。3年になり、久弥は学校の友達とともに勉学に勤しみだしたのだ。これまで部活三昧で勉強になぞほとんどかまわなかった久弥にしては本当に珍しいことだった。
どうして急に?
そう問うと久弥は屈託なく、こう答えた。
オレさあ、今、司ってやつとと友達なの。そいつが未来の為に頑張っててさ。すげえすげえ頑張っててさ、なんかオレも負けてらんねえって、そう思ったんだよ。

「いつ、帰ってきますか? 」

そう尋ねると久弥の母親はうーんと首を捻った。

「明後日っていってたかしら。合宿後はね、犬丸君のところに泊まって、そのまま学校に行くっていってたから」
「そうですか……」

真琴はそっと息を吐いた。では「伝える」のは3日後だ。
それまでにもっと、きちんと言葉を整えておこう。もうすこし小奇麗にしておこう。そう思っていると、久弥の母親が尋ねてきた。

「そういえば真琴ちゃん、綾西大学を目指してるんだって? 」
「え、あ……はい」
「今の高校の系列大学には行かないのねえ。なんかもったいないわね〜」
「はい……」

真琴は頷いた。
それは両親とも話し合ったことだった。真琴の通っている高校は都内でも有名な「お嬢様学校」だ。大体の生徒が、その高校の系列である大学に進むことになっている。そこもやはり「お嬢様大学」と名高いところなので、真琴のようにわざわざ他の大学を選ぶ方が珍しいといってもよかった。

「でも、久弥ったらはりきっちゃってね〜」
「え」

真琴は顔を挙げる。そうして、久弥とよくにた、屈託のない笑顔をみつめた。

「今度こそ真琴と一緒の学校に行くんだって。それもあって、あの子ったら勉強を頑張ってんのよ〜」





―帰ってきた。

真琴は隣の部屋に電気がついたのを見て立ち上がった。
カーテン越しに人影が動いているのが見える。それだけで心臓が痛いくらいに高鳴るのがわかった。

―落ち着け。

真琴は幾度となく見た鏡を覗き込む。
風呂に入って、髪も艶が出るくらい櫛を通している。
化粧も少しだけ施してみた。
服だっていつものようなジャージではない。部屋に居るのにおかしいとは思ったけれど、シルエットの綺麗なワンピースを着ている。

―大丈夫。少しはマシな、はずだ。

真琴はぎゅっと唇を噛み締める。そうしてもう一度落ち着け、と言い聞かせた。
クールで頼りになる幼馴染。
久弥はそう思っている。だから、自分でそうでなければならない。

10分ほどして、そっとベランダに出る。
このまま柵を越えようと思ったが、ワンピースなのでそれもはばかれた。だからいつぞやと同じように布団たたきを持ってきて、それで窓ガラスをつつく。

一度。
二度。
三度。

それでようやくガラスの向こうの影が動いた。
真琴はそれで思わず踵を返して逃げ出しそうになったが、なんとかこらえて正面をみすえた。
距離を変えるには勇気が居る。
近ければ近いほど、縮まらない。近いからこそそれでもいいと自分にいいきかせてしまう。
本当は、触れたかったのに。
真琴はずっと思っていた。
だけれど出来なかったのは、自分の気持ちを伝えて、久弥に嫌われるのが怖かったからだ。
幼馴染の真琴を好きで居てくれる久弥を失うのが、怖かったからだ。
久弥と、同じ。

カーテンが引かれる。
そうしてあらわれた顔に、真琴はぽかんとした。
相手もそうだったのだろう。切れ長の瞳を一瞬だけ瞠る。
しかし真琴の全身を眺め、そうして静かに窓ガラスを開けた。

「……神埼なら、コンビ二行ってるから居ないけど」

声は静かに低い。
そこに居たのはやたら綺麗な顔をした、久弥と同じ学生服を着た少年だった。
驚いた表情をみせたのはほんの一瞬だけで、今はもう冷静なものになっている。笑みを浮かべていないその顔はまるで氷のように透明で、そうして冷たく見えた。綺麗だが冷たい。そう印象付ける顔立ちだった。
その眉目秀麗を絵に描いたような少年は、静かな表情で真琴の姿をみやる。そうして言った。

「あんた、もしかして『マコト』、さん? 」
「そう、ですが」
「ああ、やっぱり。神埼が言う様な感じじゃないから少し迷ったんだけど」
「……あなたは」
「俺は神埼の……友達ってやつ。犬丸」

犬丸と名乗った少年は言葉を放り出すように話す。
口調も淡々としているせいで、綺麗な顔をした人形が何かの気まぐれにしぶしぶ話しだしたようにも見えた。

「犬丸……」

犬丸。
その名前には聞き覚えがあった。
久弥は「司」と呼んでいる。それは久弥の大切な友達で、勉強仲間の名前だった。

「ツカサ……さん? 」

そういうと司という名前の少年ははじめて小さく笑みを見せた。といっても苦笑に近い、かすかなものだったが。

「そう、あたり。やっぱりあいつ、あんたになんでもかんでも話してるんだな」
「……」
「……クールで頼りになる、まるで兄弟みたいな幼馴染のマコト。とってもやさしいマコト。神埼、学校でもよくあんたのこと馬鹿みたいに話してる」

真琴は目の前の少年を見上げた。
久弥の話によく出てくるこの少年は、優しくて、姉思いで、そしてとても一生懸命で一途な男だ。
オレは尊敬してるんだ。久弥が嬉しそうにそう言っていたのを思い出す。

「マコトさん。少し話をしてもいいか? 」

一見すると、その氷のような美貌のせいで冷たい印象を受ける少年。しかし久弥はそうではないと言った。

「ええ」

だから真琴は頷いた。
正直、目の前の少年はいけすかない。
久弥とは真逆の人間のように思えるのだ。屈託がなくて人が大好きで、だからこそ人に馬鹿にされやすい男の子。その、真逆の少年。
どちらかというと自分に近い。そんな印象を受けていた。
けれど久弥がああいうのだから「いい人」であるのは間違いない。
そう、言い聞かせながら。

「わかりました」

2011・2・6





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