「ガラス越しの距離I」

「ガラス越しの距離I:彼の決断、彼女の想い」





久弥がはじめて失恋したのは小学3年生の時だった。

「真琴。おれ、ふられちゃったよ」

しゅんと肩を落とす幼馴染に、真琴はなんといっていいのかわからなかったのを覚えている。

「おれは好みじゃないんだって。顔もかっこよくないし、勉強も運動もできないし、だから駄目だって」

久弥は俯いたまましょんぼりとつぶやく。
真琴はその前に座ったまま、麦茶の入ったコップを見ていた。コップの表面にじんわりと湧いてくる水滴はとても綺麗で、きらきらしている。だけどもそれは久弥が我慢している涙にも思えた。
久弥の好きになった女の子。
髪が長くて、ピアノが出来て、可愛い女の子。

「そう」

真琴は頷いた。そうして続ける。

「たしかに久弥はかっこよくないから仕方がないな」

久弥は俗に言う「ハンサム」ではない。対する「タカハシさん」は、どちらかというと顔でひとをえり好みする女の子だった。
頭がいい子なので、普段はそれを面に出すことはない。
けれども時折ひどく残虐な面を覗かせる事を真琴は知っていた。

「前にも言ったじゃないか。タカハシさんはかっこいい人が好きなんだって、聞いたことがあるって」

だから素直にそれを告げると、久弥はさらにしゅんと肩を落とした。

「……タカハシさん、やさしかったんだよ。消しゴムかしてくれたり、ピアノだって一生懸命がんばっててさ」
「……」
「おれ、だから好きだったんだ」
「……そうか」

真琴は頷く。
しかし、何故だかわからないけれど胸がもやもやとするのを感じていた。
もやもやとしていて、そうしてつんとしたものが喉から鼻に抜けてくる。そんな、変な感じ。

「いい子だったんだよ」

久弥は泣く寸前の顔で、それでも笑う。
そうして繰り返した。

「いい子だったんだ」




彼の決断、彼女の想い









友人が帰った後、真琴の部屋のガラスを叩いた久弥は、思わず目を丸くした。

「真琴、その顔どしたの」

ガラス越しに見える真琴の顔はひどいものだった。
ジャージに後ろでひっつめた黒髪。そこまではいつもの光景だった。
しかし顔はなにかでこすったように真っ赤になっている。たとえば、顔を洗ったあとにタオルでごしごし擦り過ぎたかのような。

「別に」

ガラス越しに真琴はぼそりとつぶやいた。
あれ、と久弥は思う。

「なんか……怒ってる? 」
「別に」

真琴はそういったが、口調はあきらかに怒っている。
久弥はぽかんとした。真琴はいつも冷静で、淡白な子供だったから、このように怒りを表に出すこと自体が珍しかったのだ。

「なにかあったの?……あ」

そこまで尋ねかけて、久弥はあわてて口をつぐんだ。
なにかあった、じゃない。おそらくは原因は自分だと思いあたった。
真琴にひどいことをしようとした自分。だから真琴は、やはり怒っているのだ。そうしてそれは、当然のことだった。
嫌われたくはない。せめて幼馴染でいてほしい。
それが久弥の出した結論だった。
だから今日、ここへ来た。

「ごめん、ええと、話をしたらすぐに帰るから……あのな、真琴」
「……ああ」

真琴が久弥を見上げてくる。
ガラス越しに見える目のふちが赤く染まっていて、もしかしたら泣いたのかな、とも思った。

ごめん。
ごめんな、真琴。
これで終わりにするから。

「オレ、クルミって子と付き合うことになった」
「……」

真琴は何も言わなかった。ただ無言で久弥を見上げている。

「たまたま、本当にたまたまさ、2日前、告白されたんだ。同じ学校の女の子なんだけど。断ろうと思ったんだけど、試しでいいから付き合って欲しいって言われて、それで」
「……」
「すごく可愛くて綺麗な子でさ。いい子なんだ。だから、すぐに好きになれると思う。だから、もう真琴に迷惑はかけないからさ」
「…………」

真琴は何も言わない。ただ、瞳の色がすっと深くなったかのように思えた。何かの感情がくすぶっているかのような、そんな感じ。

「だからこれまで通りに……」

久弥はガラス越しに真琴を見る。
真琴は何も言わず、ただただ口を引き結んで立っていた。
綺麗な眼差しだけが久弥を射抜く。
怒っている。本当に怒っている。
それだけは痛いほどにわかったので、久弥はその怒りを解く方法を必死に口にした。

「幼馴染で、いよう」

真琴を失うのは怖い。
だから久弥は決意したのだ。
失うよりは、「幼馴染」でいたほうがいい。
「好きな子」はきっとできる。だけど「真琴」は世界中でひとりしかいない。
だから自覚したばかりの「恋」は諦める。
諦めることに、決めた。

――「真琴」を失うよりは、ずっといい。


「……話はそれだけか? 」

真琴が口を開いた。その声は真冬の氷のようにひえびえとしている。
真琴がこのような声を出すのははじめてで、久弥は思わず目を瞠った。

「あ、うん……」
「……」

真琴は唇を引き結び、そうして視線を久弥からそらした。
身体の傍らに降ろしているてのひらは、かたく握られている。
それがわずかに震えていることに気づいて、久弥は慌てた。この光景には覚えがある。ふと、そう思った。
考えるよりさきに思わず手を伸ばそうとしたが、それはふたりの間を隔てているガラス戸に阻まれた。
てのひらがガラス戸に触れる。
すると俯いていた真琴が、ぽつりと言葉をもらした。

「……ツカサというのはいい奴だな」
「え? 」


それは真琴の口からは出るはずのない言葉だった。
さきほどまでこの部屋に来ていた友人の名前。真琴に面識はないはずだった。
ぽかんとしていると、音を立ててカーテンがひかれた。
途端に真琴の姿は見えなくなる。

それはこれ以上話をするつもりはないという、無言の意思表示に他ならなかった。


2011・2・11





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