「ガラス越しの距離:青少年の葛藤A」 |
その「ヤバイ」夜から3日後。 なんとなく真琴の部屋に行けなかった久弥に、真琴が声をかけてきた。 布団たたきをもった、いつもの色気の無いジャージ姿。 それだというのに頭に血が上った。 可愛いと唐突に思い、そうしてそう思う自分に混乱した。 真琴が変わったのだろうか。 急に可愛くなって、綺麗になったりしたのだろうか。 そう尋ねると怪訝な顔をされた。 実のところ、わかってはいた。 このもやもやとした感情の名前も、気持ち悪く感じる違和感の意味も。
青少年の葛藤A
「あー……」 そうして1週間。 現在高校3年生である久弥に部活はない。 授業帰りに友人達と勉強会という受験生らしいことをした後に家に帰ってくるのだが、家に帰ったあとの久弥は、この一週間、ベットの上に寝転んだまま呻き続けるという生活が続いていた。 ごろごろと転がり、壁にあたって動きを止める。そうして再び呻いた。 「うあー」 油断すると、脳裏に浮かぶのは「幼馴染」のことだった。 この一瞬間、ずっとそうだ。 隣に住む頼りになる幼馴染。 男でも女でもない。ただただ身近で、親しくて、大好きな存在だった。 それなのに。 ―――その「幼馴染」が可愛く見えただなんて、本当にどうかしている。 「……変態だ。オレはホモですか」 実際のところ真琴はれっきとした女の子であるからしてその発言はおかしいのだが、久弥の中では真琴の存在はそういうものだったのだから仕方がない。 久弥は盛大に溜息をついた。 そうしてちらりと窓のほうを見る。 そこから見えるのは当の真琴の部屋の窓だった。電気がついているのでまだ起きているのだろう。 いつもの久弥なら躊躇無く部屋に遊びに行っているところだった。夜というものは退屈だから真琴の部屋に行って、なんやかんやと話をする。いや、話をしなくても一緒に居るだけで楽しかった。それくらい、側に居るのが当たり前の存在だった。 「……」 久弥は窓から目をそらす。 幼馴染としての久弥は、真琴に会いたいと思っている。 それはとても素直な感情だった。幼稚園のころと同じような、キレイな感情だ。 しかし男としての久弥は違った。もちろん会いたい、とは思っている。 しかし会ってどうするのか。どうしたいのか。 それを考えると久弥は真琴と会う事はできなかった。 なぜなら久弥は正常で健康な男だからである。人並みにいろいろと思うことはあるのだ。 男としてのどうしようもない感情を抑えるという自信のない自分は、真琴に会う資格が無いのだ。 「真琴が本当に男ならよかったのになあ」 天井に向かってぽつりともらす。 そうすればこんなに悩むこともなかったのだ。幼馴染として、いつまでも隣で過ごせたはずだった。 考えるとなにやら悲しくなってきて、久弥はひとり鼻をすすった。 誰よりも大好きな「幼馴染」を失った。 そうして片想いの「女の子」ができてしまった。 それは久弥の生活にとって割りにあわないものだった。 大体、「片想い」というのは辛いのだ。久弥は随分惚れっぽい性格だったから、そのこともよく体験している。彼女ができたこともない。大体が手ひどく振られて終わってしまっていた。 そうしていつも、真琴に相談していた。 相談して、愚痴って。 そうしていつも五月蝿いと叱られていた。 「男の癖にぐちぐちと愚痴るんじゃないよ」 真琴は基本的に久弥を甘やかすようなことは言わなかった。けれど結局のところ、久弥の心配をいつもしてくれていたのだ。 クールなくせに、久弥の好物であるあんぱんを用意して、視線をそらしながら。 「気分の切り替えをして、今日は早く寝るんだね。そうしないとその不細工な顔が余計に崩れてアタラシイコイとやらも遠ざかってしまうよ」 ――今度失恋したら、慰めてくれる相手は居ないのだ。 そう思うと余計に悲しくなった。 真琴に恋慕するとはそういうことだった。幼馴染も片想いの相手も同時に失う。 それは耐えられないだろうな、と漠然と思った。 多分それは、想像できないくらいとんでもなく辛いことだった。 だからこそ久弥は、窓を開けることもできずに、こうしてベッドの上で悩んでいる。 と、そのときだった。 いきなり、その窓ガラスが引き開けられた。 「久弥! 」 そうして飛んできたのは当の真琴の声で、久弥は文字通り跳ね起きた。 いきなり部屋に入ってきた少女はまぎれもなく真琴だった。 いつも一緒に居た二人だったが、真琴がこうして夜にやってくることはほとんどない。だからこそ驚いた。 いろんな感情が頭の中に溢れかえった。 なんで、とか、いきなり、とか。ベランダを越えてきたのか、女の子なのに危ないだろ、とか。 それに、なにより。 久弥の近くに座った真琴からはすごく良い匂いがした。長い黒髪が艶やかに濡れている。だから風呂上りなのだろう。 ――いや、風呂上りって。男の部屋に来るのにそれはない。それはないよマコトさん。 まったくもって真琴はわかっていない。そう思った。 よくいわれるが、男は狼なのだ。 感情と下半身が連結せずに本能だけで動いてしまうこともある。そういう生き物なのだ。 しかも今の久弥にとって、真琴は「意識している女の子」である。 だからもっともっと危ない。 もっと自覚を持つべきだ。 今の真琴は、飢えた狼の前にやってきたヒヨコでしかないのに。 だから久弥は精一杯、真琴から距離を取った位置で話をした。 話をしているうちに、悩んでいることがすらすらと言葉になってでてきた。 これもいつもの習性だったのかもしれない。 大体久弥は、何があっても真琴に報告していたのだ。 楽しいことも悲しいことも、悩みも相談も、なにもかも。 だから今度も、素直に、あまりにも素直に、自分の葛藤を言葉に出してしまっていた。 ふと気づくと、目の前の真琴は変わらない表情で久弥を見ていた。 それに嫌悪の色は無い。それに驚くほどにほっとした。 とりあえず嫌われずにすんだのだ。それだけでもいい。そう思った。 しかし。 「真琴……? 」 久弥の声に、何故か真琴は答えなかった。 近くで、本当に近い距離で久弥をみていた。 そうして気づいた。 黒檀のような綺麗な瞳がかすかに潤んでいる。 そのことに気づいて、途端に心臓が跳ね上がった。 ああ、触りたい。 そう思った。 久弥はそっと手を伸ばした。ゆっくりと、真琴がいつでも逃げられるようにそうっと。 しかし真琴は逃げなかった。怒りも拒否もせず、ただ久弥をみつめている。 だから今度は頭を引き寄せた。 緊張で、手が震えた。 触りたい。 触れたい。 ……近づきたい。 久弥ははっきりと意識する。 大切な幼馴染。 だけどもそれだけではもう駄目なのだと、そう思った。 顔を近づける。 誰よりも見知った顔が側にある。 距離が、なくなる。 ――しかし、それを遮ったのは真琴だった。 真琴の力は弱かった。 久弥の胸をかすかに押しただけだ。 けれどもそれは、久弥の感情をとどめるには充分すぎるものだった。 たぶんそれは、予想していたことだったからだ。 久弥がどう思っていようとも、真琴にとってその感情は関係ない。 それはわかっていたから、拒否されるのは当然のことだった。 それでも、度を失った。 我に返り、かすかに強張った表情の真琴に頭を下げる。 そうしてごめんと繰り返した。 いくら未遂とはいえ、ひどいことをした。 たぶん、もっとひどいこともしようとした。 その事実だけは覆せない。 大切な、「友達」なのに。 真琴は怒りも叫びもしなかった。 息をつめたように久弥の顔をみつめている。いつもは冷静な表情がかすかに強張り、困ったようにみえるのが余計に切なかった。 ごめんと繰り返す。 嫌われるようなことをした。 だけども嫌われたくはなかった。 それはとても我が侭なことなのだけれど、それでも言わずにはいられなかった。 ――真琴を、失うのは嫌だ。 それだけは、はっきりしていた。 2011・1・22 ガラス越しの距離Hへ 戻る |