ガラス越しの距離A |
友人の知り合いの男性から映画に誘われた。 そうして差し出される2枚の券。 「……」 私は思わずその券に魅入ってしまった。 いや、正確にはその券に印刷されている映画のタイトルにというべきか。 そうして次の瞬間に脳裏に浮かんだのは幼馴染の顔だった。 それには最近、そいつが頻繁に口にする映画のタイトルが並んでいた。
永遠に、私だけ
「見てみたいよなあ、スバルのきざはし」 ぱらりと紙を摺る音と共にヒサヤがつぶやいた。 「俺、青春映画って好きなんだよな。うーん、でも金がなあ……」 背後でぎしりとベッドが鳴る。多分寝返りでもしたのだろう。 私は参考書を閉じる。そうしてかけていた眼鏡をケースにしまうと、椅子から立ち上がった。 時計はすでに23時を指している。 振り向くとベッドの上の幼馴染と目が合った。 「ん?」 「久弥。もう寝るからそこをどいてくれないか」 「え?もう寝るの? 」 私の高校は通学に1時間以上はかかる。しかも明日は日直の当番の日だった。 この時間に寝ておかないと身体がもたないのだ。 そういうと、ヒサヤは目をぱちくりとさせた。 「大変だなあ聖マリアンヌ女学院は。というかあそこはお嬢様学校なのに、お前そんな愛想のない言葉遣いでうまくやってんの? 」 「TPOはわきまえているつもりだ」 「ふうん?ごきげんよう、とか言ってたり? 」 「言っているさ」 「まじでか。想像できねえ…。でも大変なのはよくわかった! 」 幼馴染はそう言いながら、広げていた雑誌を手に取る。そうしてそのままずるずると壁際に寄った。 ベッドから降りる気配はない。 「ほい」 いや。「ほい」じゃない。 「大丈夫。おれ、狭くても平気な人だし」 いや、そういう意味じゃない。 私の沈黙をどうとも思わなかったらしい。 私のことを壊滅的なまでに女と認識していない幼馴染は、壁際にぴったりと寄りかかる。 そうして子供のようににこにこと笑った。 そのあまりにも平然とした様子に、気にしているこちらのほうが馬鹿馬鹿しくなる。 そう。 どうせ、いつものことなのだ。 この幼馴染は私の隣の家に住んでいる。部屋は、私のそれと向かい合わせになっていた。 生まれた時からの幼馴染。付き合いといえばもう、17年以上になる。 17歳になった今も、こいつはほぼ毎晩のようにベランダをつたって私の部屋に侵入してくる。 とはいえ別段何をするわけでもない。 ぐだぐだと話しかけたり、転寝をしたり、持ち込んだゲームをしたりで別に私の部屋にこなくても良いようなことばかりしている。 そうしてこれがなんと、うちの両親の公認なのだから困ったものだった。 両親ももう少し配慮してくれればいいようなものの、幼稚園からの習慣となっているこの状態にあまり疑問を抱かないらしい。 おおらかというか大雑把というか。 世間一般の常識で考えるとありえないことだと思う。 まあ…17歳になったというのに子供の頃からあまり中身が変わっていないように見える、こいつの所為もあるのかもしれないが。 私は小さく息を吐いた。 考えても、文句を言っても仕方が無い。 私はもそもそと布団に潜り込み、幼馴染に背を向けて瞳を閉じる。 寝顔を見せるのはやはり恥ずかしい。 だから背を向けるのは私の、せめてもの抵抗だった。 「……あ」 すると声と共に、私の頭に大きなものが触れる感触がした。 私にはそれが幼馴染の手であることはすぐに理解できた。 ……こいつは、またこういうことを。 悔しいことに心臓が大きく脈を打つ。 「真琴、髪が伸びたなあ」 耳元で聞こえる声はとにかくのんきそうだった。 頭の辺りの空気が動く。するすると髪を梳かれる感触がある。 その間、私はただ身体を硬直させていた。 この幼馴染がその行動になんの意図もないことはわかっている。 ただ子供の頃のように、思ったことを行動するだけ。 私がどうして髪を伸ばしているかを考えたこともないに違いがないのだ。 ヒサヤは笑う。 「髪が長いのはいいと思う。女の子っぽいよな。俺もさ、長い子の方が好みなんだ」 ああ、知っているさ。 10年以上もの間、今までさんざん聞かさせてきたのだから。 「うん。真琴も長い方が女の子に見えていいのかも知れないぜ。お前、もてねえもんなあ」 うるさい。お前こそ彼女が欲しいといい続けているくせに、未だに一人もできないじゃないか。 私だって映画に誘われたことくらいあるんだぞ。断ったけれど。 そう言い返したかったが、自分でも想像以上に緊張しているようだった。 開きかけた口を閉じる。 いま口を開けば、みっともないほどに上ずった声が飛び出していただろう。 それが分かっていたから、私は沈黙を保つことにした。 この男の中で私は、気の置けない幼馴染という位置づけだ。 だからそんな声も動揺している態度も、悟られてはいけなかった。 もしも私が抱いている感情に気づいたら、こいつはきっと困ってしまうに違いが無いから。 「ん、真琴、寝たの? 」 私はぎゅっと瞳を瞑る。 そうしていると幼馴染の手が私の頭から離れた。 なんだよー相手してくれよーとかいう声が隣から聞こえてくる。 まったく勝手なやつだ。 するとごろりと幼馴染が寝転ぶ気配がした。 狭いベッドの中、幼馴染の背中が私のそれにあたる。 私はぎくりと身体を強張らせてしまった。 心臓がさらに跳ね上がる。 苦しくて痛かった。寝る前に短距離走を行ったようなものだ。 しかし、反対に幼馴染は触れ合う背中に安堵したようだった。 身体から力が抜けていくのが背中から伝わってくる。 昔からそうなのだ。 幼稚園の昼寝の時にも、私の布団に入り込んではどこかしら身体をくっつけてくる癖があった。 夏などは本当に暑くて、一度文句を言ったことがある。 すると奴はけろりとした顔でこう答えた。 「いいじゃん。だってさ、真琴とくっついてるとなんか安心するんだよ」 何時の間にか大きくなってしまった背中。低くなってしまった声。 小さい頃は私の方が大きかったのに。力も強かったのに。 思春期になり、変わってしまったものに戸惑ったのは私の方だけだった。 ……ずるいな 私は思う。 戸惑って、緊張して。 そうしてこいつのことをこんなに意識しているのは私だけなのだ。 いっそのことこの感情を言葉にしてみようか。 そう思ったことも少なくない。 幼馴染という関係は心地よい。 例えるなら人肌の湯。 例えるなら春のうららかな昼下がり。 本当に、本当に心地が良い。 だけども少しだけ。 少しだけ、私は思っている。 幼馴染という枠を超えて、ほんの少し近づいてみたいと。 がちがちに緊張しているからだろうか。胸が苦しくて頭がくらくらする。 酸素さえもうまく吸えていないのかも知れなかった。 それに比べ、背中越しの呼吸は実に規則正しく行われている。 安心しきった、子供の頃と同じ感覚でここに居る。 私はそっと息を吐いた。 そう。 私にはわかっている。 この関係を物足りないと感じているのはきっと…。 永遠に、私だけなのだ。 2009・9・20
永遠に、私だけ
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