「ガラス越しの距離P:春紫苑」 |
その夜、真琴の部屋に久弥は来なかった。 少しばかり寂しい気がしたが、けれども真琴はすごく落ち着いた気分だった。 久弥を助けられた。だからそれでいい。 そう思ったのだ。 久留巳さやかはどうしたのだろう。 ひどいショックを受けるだろうと司は言った。久弥を救うために彼女を傷つけたのは自分だ。 だから気にはなるが、それはどうしようもないことだと真琴は思っていた。 自分は所詮ひとりの小さな人間でヒーローではない。 自分がいくら頑張っても助けられるのはひとりだけ。それは充分にわかっていることだった。 そうして次の日の夜。 久弥がやってきた。 昔のように無遠慮に入ってくるようなことはない。 ガラス戸を軽く叩き、そうしてほんの少しばかり気後れしたようにこう言った。 「ガラス、開けていい? 」
春紫苑
ガラス戸を開けたが、しかし久弥は部屋に足を踏み入れることはなかった。 ベランダに立ったまま真琴を見下ろし、そうして頭をかいた。 「久留巳さん、大丈夫だってさ」 開口一番の言葉に真琴は驚いた。思わず目を瞠って久弥を見上げると、それを見て久弥は笑う。 「真琴、久留巳さんのこと気になってたんだろ。お前、口で言うよりいい奴だからなあ」 「……」 真琴はむっつりと腕を組んだ。 内心を言い当てられて気まずい思いだった。 そうだ。幼馴染で、相手のことを誰よりもわかっているのは真琴だけではなかったのだ。 「司、学校で謝っていたよ。でもなあ、なんか久留巳さん、すっきりしてるみたいだった。何があったかはしらないけどさ、なんと俺にも謝ってくれてさ。……気まずそうだったけど」 だからさ、と久弥は続ける。 「真琴が気にするようなことはないからな」 「……そうか」 真琴はふっと息をはいた。今更虚勢をはっていても仕方がない。 久弥にはどうせ見破られているのだ。 今では、自分の恋愛感情すらも。なにもかも。 「よかった」 素直につぶやくと久弥はうん、と笑った。 久弥のそんな無防備な笑顔を見るのは久しぶりで、それを嬉しくも思った。そう。こいつはこんなふうに自然に笑っているのが一番いい。 そう思っているとふいに久弥が表情をあらためた。 笑みを消し、なんだか神妙な顔で真琴をみつめてくる。 どうした、という意味で首を傾げると、いきなりうしろに回していた右手をつきだしてきた。 「……なんだ、これ」 真琴はぽかんと久弥の手に握られているそれをみつめる。 いつの間にやら顔を真っ赤にしている久弥は、真琴をひたとみつめたまま簡潔に答えた。 「は、花」 「花って……どうして」 久弥の手には花が握られていた。何十本あるのだろう。赤い花と白い花が入り乱れ、まとめて束にされている。 赤い花は薔薇だろう。 しかし白い花は明らかに野の花だった。 道端に無造作に咲いてある白い花。ハルジオン。 「本当は薔薇を腕一杯に持ってきたかったんだけどさ、薔薇って思ったより高くて金がたりなくてさ……だから、真琴、小学校の時に言ってただろ、この花が好きだって。だから帰りにつんできた」 「……言ったな、たしか。目玉焼きに似ているから美味しそうで好きだって」 「げ。そんな理由だっけ」 「ああ。そんな理由だ」 真琴は呆れた。 しかし、呆れると同時に胸の奥から笑いがこみ上げてくるのがわかった。 久弥らしい。 浪漫のかけらもない。だいたい高校生が野の花をつんでくるって何だ。 思わず笑みがこぼれた。こいつのことだから、多分一生懸命つんできたのだろう。学生服を着た17歳の男が、無造作に膝をついて。 一生懸命に、真琴の為に。 それは真琴にとってとんでもなく嬉しいことだった。どんな高級な花束を貰うより、それが嬉しい。 どうせ花言葉もなにも考えていないんだろう。そう思うとさらに笑えてきた。 「ありがとう」 真琴は不恰好な花束を手にする。 薔薇の花束に無理矢理にハルジオンを押し込んだそれはリボンの形もめちゃくちゃに崩れていた。けれど真琴の目には美しいものに見えた。惚れたものの欲目とはよくいったものだ。 春紫苑。 花言葉は「追想の愛」そして、「さりげない愛」だ。 薔薇などよりも、ずっとずっと久弥らしい。 ふふっと笑みが零れる。 すると真琴を呆けたようにみていた久弥が、慌てたようにあのさ、と声をあげた。 「なんだ」 「あのさ、真琴」 「ああ」 「――お、俺!お前のこと、好きだからな! 」 真琴は目を見開いた。 ぽかんと見上げると、久弥は顔を赤く染めたまま早口でいいつのった。 「好きだから。大好きだからな。誰より一番好きだからな! 」 「……」 「ええと、だから、その……」 やがて言葉に詰まり、うう、と頭をかかえる久弥を見て真琴はかすかに微笑んだ。 ああ、知っているよ。 そして、すごく嬉しい。 「久弥」 「あ、ああ……」 顔を真っ赤にして言葉に詰まっている久弥に向かって、真琴は両手を広げて見せた。 久弥はまだ、ガラス一枚分の距離から中へは入ってこない。 心はこんなに近いのに。 だから。 「いいことを教えてやる。……言葉にならないのなら」 久弥が目を瞠る。 自分の瞳に水の膜が張っているのがわかった。ゆらりとぼやける風景は、それでもすごく綺麗に見えた。 だから真琴は笑った。 嬉しくて嬉しくて、自然に笑みが零れる。 「ここに来て、私を抱きしめろ」 それを聞いて、幼馴染は苦笑するふうに笑った。 頭をかき、そうして部屋に一歩足を踏み出す。 ガラス一枚分の距離などそれで簡単に縮まった。 「……ああ! 」 生まれたときからの幼馴染。 ずっと一緒に居た、誰よりも大切なひとりの人間。 距離なんてはじめからなかった。 いらなかった。 そんなもの必要と思う暇もないくらい近くに居た。 だからこれからも、そんなものはいらない。 誰よりも近しくて懐かしい腕の中で真琴はそっと思った。 「ガラス越しの距離」end 戻る 2011・5・4 |